賢いひとたちと愚かなひとたち
賢人は土手の上の老人たちの安全に注意を払う余裕など当然なく、しかもなぜ自分が県庁所在地だが辺鄙な北の街の河川敷で上面だけ見れば巨大な漆器の盆のような物体、すなわちそれはブラックホールという釈迦の悟りを木っ端微塵に砕くための、人格と言おうか神格と言おうか青鬼が変化しているであろうその最終兵器に場末のB級アクション映画の撮影現場さながらの安っぽいアクションをしながら命が既に何度か尽きていてもおかしくない遣り取りをしているのだろうと嘆息しかけた瞬間。
右の耳たぶが、こそげた。
「ああっ!」
「賢人!」
耳そのものではなくおそらく神経がつながっているからだろう、後頭部の脳に近い辺りに鍼灸でも毛穴に差し込むような鋭さと鈍さを持った痛みが常駐した。ただ、不思議と血は一滴も出ない。
ブラックホールはキャトル・ミューティレーションのようなそういう持って行き方をするのだろう、そういえばキャトル・ミューティレーションも小規模ブラックホールが原因だったのかもと考えもした。
賢人は自分の体の一部が消えたことに当然ながらショックは受けたが、中学の時の柔道部だった同級生が寝技で畳に耳がこすれて不自然な形になっていたことを思い出し、まあこんなもんか、と意外に冷静さを保てた。そのままの冷たさで今度は怒鳴らずに大きな声を出して翡翠と眞守に指示を出した。
「鏡を投げるんだ」
言いながら賢人はさっき翡翠が投げて寄越したようなフリスビーを模した投げ方でブラックホールのその黒い漆塗りのような表面にスロウした。
翡翠と眞守も何をどうすればいいか分からない状態になっていたので賢人の声に素直に反応し、好都合なことに脊髄反射で投げたので照準が二人の骨格と筋肉が最小のスムースな動きで真っすぐにつけられて少しずつ到着時間をずらしながら鏡が空間をスライドしていく。
仕組みが分かった。
武器として使用可能な爪をとがらせた4mの体躯の一部と剛腕に似合う指が縦長の楕円の漆器じみた平面からメリメリとにじり出てきて、賢人が投げた最初の鏡を人差し指と親指で挟み込んだ。青い肌が鏡に反射した瞬間にまるでピアスの穴でもあけるように鏡に指の太さと同じ穴をあけてその穴に指を通した形でギュルギュルとまわした遠心力で賢人へ投げ返す。次の間隙には翡翠と眞守の鏡を同じようにして放り返す。
三人とも避けたのではない。
動くことができなかったので下手に当たらずに済んだだけだ。それほどに今まで見たことのないどの生物よりもスポーツのショットよりもニュースで流れる戦場の銃火器の弾丸よりも速い賢人たちの足元の石への着弾だった。
鏡は割れ、三人一様にこういう感想を持った。
『ブラックホールは宇宙の神秘だなどという戯言を信じていられた方がマシだった』
今目の前にあるブラックホールは、つまり地獄の更に辺境で釈迦にも神にも閻魔大王にも抗って自分に都合のいい世界を実現しようとするテロリストのような孤立した青鬼が悪鬼神でありブラックホールであり将来仏の子を出産するであろう翡翠をも滅失しようと、肉弾で迫り来るための通路としてのトンネルであることが分かってしまったのだ。
空間も秩序も時間も捻じ曲げてかつて釈迦の悟りを邪魔しようとしたそれの100倍は最低でもあろうというブラックホールは、地底のマグマや見たこともない硬質の鉱物やそして放射線も混ぜ込み、『被曝』を周囲に振りまきながらこの娑婆に顕現してしまっている。
賢人はあの自分が五感と第六感とを通じて脳内と体内に体験として捻じ込まれた青鬼の全容がこのブラックホールから、ぐわぐわと出てくるのではないかと心の底から恐れた。
それは、おそらく、地獄の絵の美術的な美しさのカケラもない、ただのおぞましさしかないものであろうと容易に結論づけられた。
出てきた。
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