焦がしい
賢人は迷っていた。
九州へ行くことは決めていた。ただ、その間にどういう経路をとるか。
特に、広島を訪うかどうか最後まで決めかねていた。翡翠が呟いた一言で行くことを決めた。
「もみじ饅頭お供えしたい」
典型的地方住民だった賢人は中学の時の修学旅行で広島へ行ったことはあった。厳島神社と原爆ドームを訪れ、クラス委員が平和の鐘を鳴らしたことを覚えている。
ただ、実は恐ろしかったのだ。
賢人がフォローしている写真家の撮った天照大神の絵の額から放たれる日の光は、なぜか核の光を想像させた。
天岩戸から覗かせた姿の額から放射線状に放たれる光線。
ピシッ、という音とともに卵の殻から漏れ出るような直接見たら失明するようなその光。矢のような軌道。
核爆発直前の、閃光に見えてしまって、自分の不遜さと恐ろしい考えにブルブルと手を震わす直前に総合病院の精神科の待合室で翡翠と出会った。
ただ、学者が言うところの、太陽では常に核融合が起こっているという彼らの自説からすれば、もしかしたら表層の現象上は自分がそう思ってしまうのは仕方のないことなのかもしれないと自らを納得させていた。
ただ、広島には深夜に着いた。
「翡翠。今日って何日だっけ」
「まだ平成」
「そうか4月末日か」
「ははっ。なにその言い方」
「おかしいか。仕事の癖でな」
「ううん。わたしも晦日とかつい言っちゃうし。ははっ」
暗さに目が慣れても時折通り過ぎる他車のヘッドライトの残像が瞼を離れずに未だに原爆ドームの輪郭をぼんやりと想像することしかできない。
「翡翠。絵を、どうするんだ」
「うーん。打ち消せないかと思って」
「打ち消す? 何を」
「原爆を」
あっ、と賢人は思った。それはその発想の突飛さというよりは翡翠がまさかそんなポジティブな感情を心の片隅に宿すだけの許容があったのかという意外さからだった。ただ、次の言葉でやはり翡翠は狂っていると再認識した。
「地球に、ポン、て太陽を置いたらどうなるかな。ははっ」
上空の投下されたばかりの爆弾を無効にする方法があるとしたらそれは遥か成層圏の彼方まで爆発前に運び去ることだろう。翡翠は光が風を起こすと主張した。
「天照皇大神宮の描かれたこの絵からは光だけじゃなくて風も生じる。わたしは毎晩それを感じてこの5年間暮らしてきた」
「風、って。それは錯覚だろう」
「違うよ、賢人。押入れで裸で寝てたら、つま先の足指の、特に親指の爪のあたりに、ヒュッ、て風が当たった」
「隙間風だろう。ちょっと待て、裸で寝てたのか」
「そうだよ」
「毎日か」
「うん」
「新聞屋がいる時もか」
「うん」
「俺がいた時もか」
「何をこだわってんの」
「いや、別に・・・」
賢人は翡翠の自説の科学的根拠を認めることができなかった。だがそう思った瞬間、そもそも科学という尺度で翡翠と出会ってからの全ての出来事を捉えていない自分の方が普通になっているのがおかしかった。どうして翡翠の、風、という表現だけを単なる自然現象と捉えようとしていたのか可笑しくなった。
「角度は・・・こんなもんよね」
「エノラ・ゲイはあの辺か」
賢人はコンクリートの上に洗いざらしのバスタオルを敷いてその上に神の絵を寝かせた。
その間、翡翠は月光しかない暗がりの中で着替えていた。
ここが公道であることをほったらかしにしてTシャツとショートパンツを無造作に脱ぎ落とし、白のワイシャツを何もつけていないその白い胸の膨らみの上に羽織り、小さな下腹部の下着を臍の辺りに少し覗かせるような腰の位置で
「賢人、いいよ」
翡翠の合図で賢人は光源となるLEDのヘッドライトを点灯した。
光は絵と、翡翠のスレンダーな体躯とを白く照らし出した。
「なんだそれは」
「ウズメ」
翡翠はやや広い額と前髪の生え際に真っ赤なバンダナを巻いていた。余った布の端は片側のこめかみの辺りから垂らすようにして。
ウズメは天岩戸に立てこもる天照大神をおびき出そうと舞を舞った踊り子だ。翡翠の膨らみすぎていない胸と凹んだ腹部と直線に近い曲線でできた長い手足とが、まるで異国のダンサーのように彼女を白色の逆光の中で映えさせた。
ただ、翡翠は余計なことを付け足した。
「これ、新聞屋から貰った景品のタオル。ははっ」
翡翠はさっきコンビニで買ったワンカップのアルミニウム蓋を、シパッ、と開け、それからやっぱりコンビニで買ったもみじ饅頭とを絵に供えた。
自己流の神楽をやはり雅楽なしで舞い始めた。
素足でバレエ・ダンサーのようにつま先立ちし、すべすべしたコンクリートの上で、何度かターンした。
ターンの毎にボタンを止めていないワイシャツがはだけ、胸が露わになる。
踊りながら翡翠は注釈した。
「アツいから」
これが原爆の光線と気温のダブルミーニングでの『熱』だとしたら翡翠には詩人のセンスがある。
最後に何度かターンして、神楽は終わりのようだ。翡翠は祝詞を上げる態勢に入った。
だが、翡翠はそこで静止した。
エノラ・ゲイの飛行地点あたりの空を見上げて静止している。
そして低いオクターブではなく、今夜はファルセットのような翡翠の声が響いた。
「アツイ・・・・タスケテ、オネエチャン・・・クルシイヨ、アツイヨ・・・・」
賢人は、考えずとも翡翠の自動口述の意味が分かった。
そして、涙が瞬間的に溢れて、ボトボトと数十年前に熱線で可憐な花が蒸発しただろう地面に雫を落とし続けた。
どうしても涙が止まらないので賢人も月が浮かぶ夜空を見上げた。
闇の中の雲が、白く照らし出されている。
絵の中の、日の女神が発する光が届いているとしか思えなかった。
そしてその雲が、高速で流れ続けているのがはっきりと分かった。
風
女神の光が、空気すら動かして風を起こしているんだろう。
その空間だけ、雲も空気すらない真空のエリアになっているのだろう。
そこにあった爆弾、悲鳴、嗚咽、悲しみ・・・
すべてが真空となって、成層圏の外の、宇宙空間の彼方に移し給われていく。
翡翠が、我に返ったようだ。
ただ、彼女自身の意思でまだそのまま夜空を見上げ続けている。
賢人は思い出したようにスーツの内ポケットからスマホを取り出し、時刻を見た。
「平成が、終わった」
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