賢しい(さかしい)

 四国は弘法大師の国でもある。

 まるで所有のような表現を賢人は空想したが事実弘法大師は虚空蔵求聞持法という真言を百万遍唱えることによって無限の記憶力を与えられるという魔力的な学習方法を真正面から本気でそのままの形で実践し、遣唐使としての留学時に驚くべきスピードで尽きることのない経典や密教の秘法を覚え尽くしそれをそのままストレートに民の救済という形で自らの心身を苛烈な実践の生き方に晒し尽くした。そして異国の大王ですら決して成し遂げることのできない『救いにストレートに至る王国』とも言える四国八十八か所を築き上げた。


「翡翠。次はどこへ」

「室戸岬」


 賢人は弘法大師の命がけの修行場そのものである四国の起伏激しい道をスポーツタイプのハイブリッドカーで疾走した。それはまさしく疾走の名に恥じぬ最短最速の道程だった。


 元来乗り物酔いしやすいと自白していた翡翠だが賢人の運転に身をまかせることを喜びとするような快適さで神の絵を運んだ。

 ただ、賢人はまさしく阿闍梨や修験者が山野を疾駆するその足捌きでアクセラレイティングとブレーキングを繰り返し神経と体力をすり減らす命がけのドライビングの覚悟で乗りこなした。実際ガードレールの無い断崖横のコーナーでのライン取りは今日の賢人の操舵でなかったならば直線的に流されて墜落していただろう地形だった。


 賢人と翡翠がその岬にたどり着いたのは夕刻だった。


 曇天なのに夕日が眩く燃えており、空の色を反映した漆黒の海面も、夕日の力によって同一の赤に染められていた。


 車から絵を抱えて降りた翡翠は室戸岬の余りにも凄まじい地形に、波しぶきが自分の位置まで到達して神の絵を濡らし顔料を溶かすのではないかと錯覚し、絵を庇って立った。


「俺は喜望峰を見たことがある」

「あ。そうなんだ」

「アフリカのその街は治安が世界最悪のランキングで強盗、レイプ、レイシストのリンチ、タクシードライバーたちの強請り、売春、違法カジノ、ありとあらゆる犯罪がまるで観光産業のように並べ立てられた街だった。俺は毎晩その街でエンターテイメント・・・つまり顧客への接待に奔走して銃をテーブル下で構えながらボスを守るブローカーたちと宴をし、契約し、荷積みをし・・・でもそんな場所なのに俺は死んでない。生きて日本に帰っている」

「そうだね」

「アイツは死んだ。赴任地は特に危険な国でも無かった。しかもアイツの待遇はMBA取得のための幹部候補としての赴任。なのに2人組の男の強盗に拉致されて死んだ。金銭とパスポートを奪われ殺された、という表現しかニュースでは流れなかったが・・・」

「女だったんだね」

「ああ・・・明らかに陵辱された痕跡があったそうだ。警察が社内では俺だけに教えてくれた」

「彼女だったの?」

「ああ。多分な」


 賢人は弘法大師空海のその名が、この室戸岬から見える空と海が一体となった光景が由来だと以前読んだことがあった。賢人はだが問わずには要られなかった。本当は神に直接詰問したかったが、だが、賢人は翡翠に訊いた。


「コイツは生きてアイツは死ぬっていうのは誰が決めるんだ?」

「賢人・・・」

「なあ翡翠。俺は生きてアイツは死んだっていうのは誰の仕業だ? 翡翠、お前は幹線道路に飛び出す寸前まで行っててそれでも死んでない。俺もうつで毎日早朝覚醒して死にたくなるけどそれでも死んでない。どうしてだ?」

「わたしが死んだ方がよかった?」

「違う! そうじゃない! そんなんじゃない、けど・・・」

「多分この絵が決めてる」

「えっ?」

「祖父母も父母も弟も死んだ。わたしは生きてる。多分、この絵がそう決めた」


 賢人は翡翠の一言で、けれどもおそらく真実のそれで自分自身が発狂するだろうことを瞬時に察し、狂気の発動を無効にするためにはそれを上回る激しい現実を引き合いに出すしかないと思った。

 そして、偶然とは言い難く、それはあった。


「あっ」


 賢人は消えゆく太陽と波光とで一体となった空と海が、翡翠が支えて太平洋に向けている神の絵を照らすのが分かった。


 そして賢人は、見た。


「まるで、同じだ」


 正面を向く天照皇大神宮の万度の光が、賢人がフォローする写真家が撮った横顔の神が額から光線の束として発する弾道と一致するような気がした。その光ははるか太平洋の彼方をつんざくような威力だと思った。


「滅ぼすこともできるのか・・・」


 賢人は呟きながら、室戸岬から見る黒潮の海流が、喜望峰のインド洋と大西洋がぶつかるそのスケールよりも大きいと感じた。


 いつのまにか賢人と翡翠は手を繋いで太平洋を見ていた。

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