虚しい

 店側が翡翠にスニーカーを貸してくれた。このぐらいのグレードの店になると客やあるいは店員が料理や飲み物を誤ってこぼした時のための着替え用に上着や下着、靴もいく種類かは用意しているのだそうだ。そしてさっき山中で外してきた眼帯と包帯をしていた場合にさっきの店員はどんな視線を翡翠に向けたのだろうかと想像したりして料理の到着を待っていた。


「翡翠。訊いていい?」

「いいよぉ」

「なんで右手首?」

「あ。リスカのこと?」

「なに、リスカって」

「ははっ。自分で訊いた癖に。リストカットの傷。左利きだから」

「え。でも今朝、箸は右手に持ってただろ?」

「母親から矯正されてね。レストランなんか行ったこと無かったからフォークは左手のままだけど」


 普通にナイフを右手、フォークを左手で操る翡翠は通常の利き手と逆の感覚ということか、と賢人は思ったがそもそもテーブルマナーとして左利きの人間はナイフとフォークを右利きと逆に持つのかどうかも知らなかった。


「もうひとつ訊いていい?」

「いいよぉ」

「どうして俺は恋人になれないの?」

「ふーん」

「なんだい」

「わたし、何歳か分かる?」

「・・・多分、20か21か・・・」

「16だよ」

「えっ・・・」

「無理でしょぉ〜、流石に〜」


 短い笑いではなく初めてケラケラと笑う翡翠を見て確かにこの笑いは10代のそれだと賢人は思い直したが、まだ納得しきれない部分があり、質問を続けた。


「施設を出た、って言ったじゃないか」

「義務教育っていつまでか知ってる? 中学まで。その後は別にどうしたっていい。自活できるなら」

「自活って・・・」

「生活保護受けてるのって自活って言わないのかな」

「そんなこと・・・ないとは思うが・・・」

「実家の神社が燃えたのは小学校5年生の時。じいちゃんもばあちゃんも、父親も母親も死んだ。弟はまだ幼稚園だった。死んだ」

「放火、って言ったな」

「そうだよ」

「誰なんだ」


 賢人が訊いてから翡翠はA5ランクのミディアム・レアの肉が既に口中でとろけているにもかかわらず咀嚼を続け、しばらくの間を置いた。賢人が、嫌ならいいんだと言いかけた時に翡翠は口を開いた。


「母親」


 賢人はドラマだとかアニメだとかいうものを元来見ない生活を送ってきており、そういうものの中で描かれるステレオタイプの反射を意識的にも無意識にもする習慣はなかったが、賢人が手から滑り落として大理石のような質感の床で、カシン、と割れたミネラルウォーターのグラスの音に周囲のテーブルが注目した。


 店員が寄って来て軽く会釈した後無言で片付け始めた。賢人はそれにすら気が払えずに言葉を途切れさせることができなかった。


「キミのお母さんが」

「そうだよ。ははっ」


 翡翠のむき出しの左目の視線が賢人の右目のそれと重なる。光ないグレーが、だが意思疎通しようという光なき光が賢人の右目に撃ち込まれ、一声の笑いの後、彫像のように無表情で固まる2人の光景が、周囲のテーブル客たちに対して見世物のように晒された。




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