禍しい(まがしい)
普段しないような予約の作業を行った賢人は後悔し始めていた。そのステーキハウスは車しか交通手段がなく代行などもコストに合わないという理由から営業エリアとしては外しているような山中にあり、つまり運転手はアルコールを諦めなくてはならない店にも関わらず常に予約がいっぱいで、賢人が運良く予約できたのはちょうどキャンセルが出たからだった。
けれども、山深すぎる。
本当にこんな所で平日に夕食を摂ろうという人間が大勢いるのかという疑問だけでなく、賢人はそろそろカーナビのGPSが正常に作動していないのではないかという疑義も持ち始めていた。もっと近場のレストランにすればよかったと思い始めていた頃にちょうど一車線の山道の途中の踊り場のような景観ポイントが前方に見え、賢人は言った。
「ちょっと停めるよ」
「なに? キスでもするの?」
「ち、違う。ちょっと地図を確かめたいんだ」
左ウィンカーを、カッ・カッ、と点滅させてバッテリーモードのモーターで無音でするするとパーキング帯にハイブリッドを滑り込ませる。
車から降りて賢人はスマホの地図アプリを開こうとした。月光が異様に明るく、画面の照度を上げた。
「電波来てる」
「え? ああ。ネットは繋がるみたいだ」
「違う。わたしの脳内に電波が来てる」
何気なく振り返ると既に翡翠は眼帯を外し包帯もほどき、それは無造作に木の枝が散らばる足元のアスファルトに落ちていた。
翡翠の左目のグレーの瞳孔に、満月の色と光と形が、薄いゼラチンの膜を剥がす様に重ねられた。
「ナンジヲノロウ。ユエハワレヲナオザッタカラダ。ゼンインコロシテヤル。ワレノスマイヲモシタカラダ。オナジヨウニモシツクシテヤル」
賢人はスマホの画面が割れるぐらいの力を親指に込めてスワイプしていることにはっと気づき、まずスマホをスーツの内ポケットに仕舞った。そして翡翠の安否を気遣う意思とは反対に、駐車エリアのガードレールのない端へと後ずさっていた。
「危ない!」
叫んだのは翡翠だった。
無意識に後ずさる賢人がローファーの踵をがくっ、と崖の境界に踏み落とそうとしたところを翡翠の声で危うく留まった。
賢人はようやく本来の意思通りに翡翠の元へと歩み始める。
「翡翠、大丈夫なのか」
「え。なにが?」
「何って・・・」
賢人は翡翠が普段の声よりも数オクターブ低い声で詠唱していたおそらくどう考えても呪いの言葉のほとんどを正確に聞き取れなかった。ただ、『
「それも症状なのか」
「さあ」
スマホで確認したら道は間違っていなかった。後10分ほど登った頂上に店があるという。ただ賢人にとって翡翠と2人きりで10分車を走らせることはその時間に何もかもが終わってしまうのではないかという現実味を否応なく感じさせるに足りた。そもそも同乗者は翡翠ではないかもしれないと思った。
ステーキハウスは石造りの重厚な、むしろ博物館のような作りだった。賢人はステーキハウスとその他のレストランとの格付けの位置関係には全く疎かったが、この店が社会的な格付けも相当高いであろうことは総合商社で働く社交上の付き合いの経験から想像することはできた。
「お客様。当店には明確なドレス・コードはないのですが・・・」
そう言ってボーイが無表情に翡翠のデッキ・シューズに目を落とした。
翡翠がゆったりと踏み潰している踵を折り返し普通に履いてもボーイはまだ視線を上げなかった。ほつれて踵の布の半分ぐらいが破れていることが彼のコードに引っかかるということなのだろう。
「裸足じゃダメか?」
賢人はボーイに下から視線を突き上げ、数オクターブ低い声で凄んだ。
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