歯がゆい

 翡翠の歩行姿勢はポジティブなものだった。

 背筋を伸ばし、顔を上げ、やや顎まで上がっているきらいはあるもののうつむき加減ではなく、前を見据えていた。

 ただ、自動的に歩いているようにしか見えなかった。


 ガチャ、と翡翠が入っていった診察室は精神科部長のプレートが掲げられていた。

 賢人はそれが何を意味するのかをしばらく考え、彼女が重篤な患者なのだろうという結論に達した。

 彼女の容姿が気にかかったわけではない。ただ、雰囲気が無視しがたいものだったのだ。

 そして、それは更に深まることになった。


「死ぬ!」


 そう絶叫する女の声と同時に、ガコッ、とドアが180°回転し、バシン、と診察室外のコンクリの壁に打ち付けられた。

 その光景に目をとられているのとほぼ同時に女のシルエットが飛び出してきた。それはシルエットとしか表現できないスピードだったので、眼帯と包帯の残像がなかったら翡翠とは判別できなかった。


 賢人は、後を追った。

 自分でもどうしてか分からないままに。


 病院のステレオタイプとは違う木の廊下を走る翡翠はエレベータの前を通過する。屋上という意識しかなかった賢人はすぐさま軌道修正した。


「道路か」


 一階にある精神科の診察エリアから迷路じみた設計の廊下をやっぱりポジティブな姿勢でけれども自動的に走る翡翠はエントランスの自動ドアを割り進まんほどの速度で外へ出た。敷地がすぐに幹線道路に面している、病院としては都合の悪い立地は、翡翠の目的とは合致していた。すぐに制限速度超の大型車と遭遇できるので。


 賢人は翡翠から5mほど離れた位置をキープしながら追っていたので、多分間に合わないだろうと減速しかかっていたところ、急激にその差が縮まった。

 翡翠が急停止したからだ。

 それはシュレッダーの自動停止が効かなくなって手動の緊急停止ボタンを押したときのような、逆回転するかのような動作での停止だった。

 賢人は翡翠の骨が、特に膝の関節が停止の勢いで折れてしまうのではないかと気分が悪くなった。

 だが、賢人は慣性でそのまま歩き翡翠の背後に立った。翡翠が前触れなくぎゅるん、と首を後ろに向けたので賢人は血圧のために心臓がズキ、と痛んだ。


「あ。天照皇大神宮見てた人だ」


 声まで自動的だった。賢人は何か言おうと考えたが気の利いた言葉が出て来ない。賢人もやはり自動的に喋った。


逆神さかがみです」


 賢人は自分の名字を名乗った。日本人としてあり得ないはずの漢字を使った自分の名字。


「アナタにぴったりだね」


 初めて翡翠が笑った。漢字を知らないはずの翡翠がまるですべてを呑み込んでいるかのような反応で薄笑いみたいな笑顔をすること自体賢人には不愉快だった。けれども、翡翠の瞳孔の月をたたえたような色彩と胸の薄さに惹かれている自分を賢人は止めることができなかった。


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