澄みわたる
青木 海
澄みわたる
私は中高一貫の学校に通っていて、学校から自分の家は他の生徒より比較的近い場所にある。わざわざ電車で往復二時間もかけて登校する生徒もいれば、小学校卒業と同時にこちらに越して来た生徒もいる。
例えば、私のクラスメイトである今田くんは学校の寮で生活している。地元は北海道で、たまに訛りが出ることがある。
なんでも彼は小学生の時にうちの学校のハンドボール部が全国大会に出場した試合を見て中学受験したんだそうだ。彼は五歳の頃からハンドボールを習っていて、その頃から腕前を認められていたらしい。学業だって手を抜かず、部活動内では中学部三年生ながら副主将としてチームを支えている。彼はこの間、
「目標は全国制覇することだ」と教えてくれた。
私はただ単に家から近いという理由でこの学校に通っているし、やりたいこともこれと言ってない。なので彼のように自分のやりたいことがあって、目標に向かって努力してるのは正直羨ましく思うし、キラキラした今田くんを見ていると彼に比べて私は情けないなと思うのである。
学校から家に帰るまで、大抵私はぼーっとそんなことを考えていた。グラウンドから部活動に勤しむ生徒の喧騒が聞こえても、思ったより深めの水たまりに片足を踏み入れてしまっても、ただそれだけの事と過ぎていくだけである。
今日も疲れてしまった。これと言って何かを頑張ったということはないけど、体がずっしりと重い。早く家に帰って泥のように寝たいとばかり思っていた。うわぁ、歩く度に靴の中がグチュグチュして気持ち悪いなぁ。
ふっと、自分の機嫌は自分で取ると誰かが言っていたことを思い出した。気分を変えようと私は俯いた顔を上げてみた。
下を向いていたので分からなかったが、どうやら私は道に迷ったらしい。ガードレールの向こうには太平洋が広がっていて、夕陽がこの街を包んでいるように感じられた。私以外に人影も野良猫でさえも見当たらなかったので、私はこの景色がどこか違う世界のように感じられた。私は、さっきまでの暗い気持ちと焦りと海が照り返す夕日で目眩がした。
それにしても約三年間同じ道を行き来しているのに、道に迷ったらしいということはこれが初めてだった。学校から家までの道はそこまで複雑ではない。
正門を出ると大通りがあって、四丁目の信号を左に曲がると桜並木の道に出る。この桜並木は二百メートル程あって、春には満開の桜が空を覆う。毎年見事に咲くので、街の人達はこの道を「咲き誇ロード」と呼んでいる。その咲き誇ロードの出口に矢幡神社がある。そこから右に道が続いているのをひたすらに真っ直ぐ歩いたら私の家だ。
一体どこで間違えたんだろう。私は四丁目の信号が点滅しているのを走って渡ったし、葉が青い咲き誇ロードを通ってきたはずだ。
考えながら二十メートルほど進むと小さな丘が見えた。左手に白い階段がある。これを登れば丘の上に行けそうだ。
私は道を引き返そうかとも思ったが、不思議の国に迷い込んだような気持ちになっていた。それになんだか懐かしいような上機嫌な心を抑えきれなかった。
丘の上にはどんな世界が広がっているのだろう。
時間におわれているウサギやカラフルな猫、ヘンテコな帽子をかぶった男が集ってティーパーティーでもやっているんじゃないのかしら。
私はいつの間にかスキップしていた。階段を二段、三段と飛び上がっていく。鞄が邪魔だったので空高く放り投げた。突然裸足になりたくなったので振り返って足を蹴りあげる。飛んでいくharutaのローファー。あれは確か六千円した。
ローファーが描いた放物線は大きな虹になった。タッタッタッタッと駆け上がると、丘の上からは街全体が見渡せた。
ふと振り返ると海がよく見える。そして海側にはぽつんとルネサンス建築の小さなメリーゴーランドがあった。近づいてみようと足を踏み出そうとしたが、木馬に座る人影が見えたので思わず私は立ち止まった。
向こうもこちらに気付いたようで、「おやおや」などと言った。
メリーゴーランドはしきりに廻っている。音楽は鳴っていなかった。
彼は木馬に乗ったままこちらに会釈をしてきたので私も会釈し返した。
「乗らないんですか。」
唐突に彼は言うので私は上手く返せなかったが、その代わりに体がメリーゴーランドの方へと動いていく。
金色の足場に足をかけ体を木馬に任した。メリーゴーランドはゆっくりゆっくり廻っている。
「はじめまして。」
彼は深い声で私に声をかけた。六十代くらいだろうか。白髪混じりで丸眼鏡をしている。どこにでもいそうな紳士であった。
「僕はね、この街が好きなんですよ。この、海がどこまでも見えるようで、空がひらけていて。
それに、夜になると海面に水色の点々が見えるんですよ。それの正体、何か知っていますか?イカですよ、イカ。ホタルイカっていう青く光るイカです。それらが沢山集まって化け物みたいに砂浜に押し寄せてくるんです。初めて見た時はびっくりしたなぁ。僕はその時からずっとここでくるくるしているんですがね。この街に惚れ込んでしまったのですよ。」
彼は実に楽しそうだった。だが彼は一切海を見ず、メリーゴーランドの天井画を見ていたので私は変だなと思った。
「私、今何がしたいか分からないんです。」
口に出そうとは思っていなかったのにポロッとそんな言葉が漏れてしまい私はハッとした。
そうか、私は今人生の中でも迷子なのだなと気づいてしまった。
白髪混じりの彼も唐突にこんなことを言う私を見てびっくりしたのか、二人の間に沈黙が流れた。
「僕は正直いうと、自分でこんなことを言うのもなんですが、今何をしているのか分かりません。見るからに変な人でしょう。」
彼は苦笑いをして、そんなことを言った。
「 ですが、僕は今こうやってくるくるしながら海を見ていたい。水色の化け物が来るのを待っていたい。そして、この天井画の中に出来れば吸い込まれたい。…I want って言うんですかねえ。僕は、これをしたいということに従順に生きています。僕にもあるんですから、あなたにも実はそういう意思というか、願望というものがあるのではないでしょうか。叶うとか叶わないとかは別にして。どうですか。」
私にはそういう願望など無いと思っていた。が、彼の話を聞いていたらよく分からないけど、なにかできる気がした。本当に少しの自信しかないけど。
「それなら私は…。私は、なにもかもとっぱらってなんでも出来るのなら、その水色の化け物に会いに行きたい。今、この丘から飛び降りて空を飛んで会いに行きたい。」
彼の丸眼鏡のレンズがきらりと光った。海風がそよそよと吹く。彼の白髪混じりも私の黒髪もふわふわと揺れていると思う。
「もう日が暮れます。日が暮れる寸前。その時です。」
彼はメリーゴーランドからゆっくりと降りて、私に手を伸ばした。
私は彼の手をぎゅっと握りしめ、二人で街側まで歩いた。繋いだ手は暖かく何とも言えない懐かしさがあった。木馬に揺られている時はわからなかったが、彼は立ってみるとすらっとしてて大きい背中だった。彼は振り返ると夕陽に照らされてオレンジに染まっていた。
二人で地平線に沈む太陽を見つめる。
太陽が沈みかけるとき、私はひょっとしたらこのまま死んでしまうのではないかと思った。
もう、後戻りはできないのではないかと。
「大丈夫、あなたならどんな苦難も乗り越えられる。今から僕が証明しよう。」
握られた手の力が更に強まったと思うと、私たちは海に向かって駆けていた。自分でも、こんなに早く走れたことはないと思う。
どんどんスピードを上げて、だんだん体の力が抜けていく。自分の体ではないみたいだ。次に右足を蹴った時はもう地を感じなかった。
足を動かさなくても体が自然に飛ぶということをやってのけた。
「風だ!私今、風になってる!」
振り返ってみると、さっきまで乗っていたメリーゴーランドがとても小さく見えた。体を撫でる風が気持ちよくて空に馴染んでいるような気分だ。
空がだんだん紺に染まる。私たちはその一番濃いところに向かって飛んでいる。
それにしても、こんなにも近くで星を見たのは初めてだ。今にも星に手が届きそうだったので手を伸ばしてみる。
すると、体もそのまま上昇していった。
「高度を上げすぎるとまずい、体がぺしゃんこになるぞ。」
彼は少し声を荒らげたが、風の音でよく聞こえないふりをした。今にも星に手が届く。
「見ろ!向こうからくる!」
彼は私の上に行こうとする手をとり、視線を前に向けさせた。
すると、地平線から水色に輝く影が海を覆うように押し寄せてきた。
「どうすればいいの!」
水色はこのまま地球を食べてしまいそうな勢いで向かってくる。あいつをこのままにしておいたら危険だと私は感じ取った。
「心配はない。落ち着いて。こちらから会いに行こう。」
そう言うと、彼は飛ぶことをやめてその場に直立し、そこに階段があるかのように海面まで降りていった。私は彼の後を追った。
下まで行くと、水色が待っていた。よく見ると本当にそれらが一つ一つの小さなイカだった。よく見ると、イカは光り続けてるのではなく、青い光を点滅させていた。一体一体が光るタイミングが違うので水色に光り続けているように見えたのだ。
彼はイカたちと何やら話しているようだった。
「イカはなんて言ってるの?」
「君に良いものを見せてあげると言っている。さぁ、君が前に行きなさい。」
私は恐る恐る彼の前に出た。すると、イカたちが一つ一つ跳ねて、宙に浮き出した。
いや、浮くというより泳ぎはじめた。イカはだんだん遊ぶようにして空を泳ぎはじめ、しまいには辺りはイカだらけになった。
水色が辺りに澄み渡っている。地球が生まれて間もない頃のプランクトンになった気持ちだ。
私は、今自分がここにいることが不思議で、自分という存在が小さく思えた。だけれど、これから先の未来に期待せざるを得なかった。
「あなたの家までお送りしましょう。」
と、近くにいた一匹のイカが声をかけた。
私は頷くと、イカは別れを惜しむように私の頬にキスをしてくれた。
彼の手をもう一度握り、ふと彼を見てみた。彼はまたなんだか懐かしい微笑をこぼし、私の手を握り返した。
イカ達が密になって私たちを包む。青い光がだんだん強くなり、目に心地いい眩しさが染みていく。目の前は真っ白になった。
光が強すぎたのだろう。私はぎゅっと瞑った目をゆっくりと開いた。
私は咲き誇ロードの終点にいた。海に続く道に進めばきっとまた彼や水色に会えると思ったが、なんだかもう会えないような気がして家路に着くことにした。
振り返ると咲き誇ロードからも校舎が見えた。ここもすこし高台になっているらしい。 今田くんは相変わらず今日も部活動に勤しんでいることだろう。
私は私でこれからどうしたいか考えることにした。
なんだか、なんでもできるような気がしたのだ。
私は桜の葉を一枚とり、草笛して水溜まりを飛び越えながら帰った。
水溜まりはやけに煌めいていた。
澄みわたる 青木 海 @dramacoffee18
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