第77話 8月8日(3) 秘密と約束

 原田が去ったのを確認すると、直哉がよろよろ真一に近寄る。

「お前、大丈夫か? 傷の具合」

「範囲は広いけど、浅いから大丈夫。今圧迫して止まらないかやってみてる」

「お前自身に術は効かないのか? 痛みが取れれば何とか……」

 真一はフフッと笑った。

「残念だけどだめ。それにもし有効でも位置がここじゃ届かないよ。皮肉なもんだね、自分の痛みはとれないなんて」

「そうか……とにかくこれ、何とかしてくる」


 腹の痛みも収まってきたので、落ち着いたところで廊下にある手洗い場から水を張ったバケツと雑巾を持ってきた。まず廊下の血を拭き取れる範囲全てふき取り、教室へ戻ると床をふいた。水はすぐ真っ赤になり頻繁に取り換えた。床だけではない。志保が触れた引き戸の手の跡、壁や誰かの机に飛び散った血、真一の流した血も拭き取り、何事もなかったかのように隠す。


「真一から見て、どっか残ってる?」

 一通りを拭き終え最後の確認で聞いた。

「大丈夫だと思う。もし残っててもこれくらいなら……」


 なぜこんなに気にするかというのも、悪魔が人間と契約する際、血や涙や体液、そのほか体を形成する細胞なら何でも、少しだけ人間に入れるためだ。

 それが悪魔にとって目印になる。「門」と呼んでいるが、人間界に入り込むための通行口にされる。

 悪魔も能力がさまざまあり、人の願いを1人で叶えられない時は「門」から適合する能力を持つものを呼び出す。そして1つでも人間の願いが叶った場合は、その門の戸は開かれたままになり、正式にあちらの世界と行き来できる自由通路になる。

 最初は小さく狭くても、何度も願いを叶えてもらううち、広く大きく、簡単には壊せない、出入り自由で鍵もない「門」が築かれていく。

 願いを叶えた悪魔はそこから自由に世に出てゆき、また他の人間に取り付き、新たに「門」を増やす。


 契約者の人間が自身で「門」を壊さない限り、関係が切れることはない。契約した人間が死ぬと、悪魔はその魂や記憶を手にし自分たちの糧とする。

 時にその魂から異形の怪物を作り上げたり、その記憶を抜き出し新たに武器や薬やこの人間世界にはない法具まで作ってしまう。

 本来死者の魂は天使が回収し転生の輪に入れる。そこで記憶を”神の意志”に書き写された後、まっさらで生まれ変わるのがルールだが、それに漏れた魂は、肉体はないのに「自分」が終わらないままだ。人間の意識のまま、容姿は禍禍しい生き物に成り代わって存在し続けるか、悪魔にとって重要な一部の記憶を抜きとられ、残りは怪物の餌となり魂を食われ取り込まれるか。

 

 万が一にも学内の誰かが触れ、何かの拍子に一定量体内に入ってしまったら、まるでウイルスのようにとめどなく悪魔がここに増え続けかねない。

 体内に取り込んだら最後「人間が自分の意志で契約したかしないか」など関係なく印がつき、いいように利用されてしまう。



「う……」

 飯田が目を覚ました。慌てて駆け寄る直哉。血だらけの真一は今見せられない。視界から隠すように彼女の前にしゃがみ込む。

「大丈夫?」

 飯田は何が起きていたか把握できておらず、きょろきょろと見回した。

「え、えっと……」

「気を失ってたけど、大丈夫?」

 直哉がもう一度問いかけた。

「吉田……」

 姿を探しているようだ。おびえきって呼吸が荒い。また倒れてしまうのではないかと心配になった。


「飯田さん、約束して」

 真剣な顔で直哉が飯田をじっと見つめた。飯田のほうが見ていられなくなり目をそらした。

「飯田さんが見たこと、絶対に人に言わないで。もし喋ったら本当に飯田さん危ないからね。飯田さんだけじゃなくて他の子も。ここでは何もなかった。いい?」

 真っ赤な瞳が威圧してくるように感じた。あの女も、藤沢も、杉村も、危険な奴だ。飯田はそう悟った。従わないとどうなるかわからない。怖くて言葉が出せない。泣きそうになるのをこらえるのが精いっぱいだ。

「今度あいつに何かされても、俺守れないかもしれない。お願い、今日のことは忘れて。わかった?」

 責められているような心苦しさだった。必死で首だけ縦にふる。絶対に言わない。



 返事を聞き、ふう、と一つ息を吐く直哉。そして少し穏やかな表情になり

「怪我ない?」

と体を見ながら聞いた。目立った外傷はなさそうだ。これも頷くだけだ。

「吉永さんと大治さん、図書室で待ってる。2人にも伝えておいて」

「わかった……」

 ようやく絞り出せた声。しかし立てない。先に立ち上がった直哉が手を貸してくれた。鞄を抱え、逃げるように教室を出ていく。

 真一も出血が落ち着いてきたので、着替えて帰ることにした。


「あ……」

 真一が大治と吉永のカバンが置き去りなのに気づいた。図書室に一応持って行ってみようと、2人で分けて持っていく。途中廊下に血が数滴見つかり、流し場でティッシュを濡らして拭きながら歩いた。




 図書室は一階の奥。直哉がゆっくり扉を開ける。中を見回すと奥の方で固まる女の子達を見つけた。

 ゆっくり近づくと、女の子たちは気づいておびえた表情を見せさらに固まった。

「鞄……」

 直哉が刺激しないよう、手前の机に2つのカバンを置いた。そしてそれ以上何も言わず出て行った。



「あのまま、あの子たちに飯田さん会わせちゃってて大丈夫だったかな、余計なこと言ってないかな」

 真一が心配していた。記憶を消してからにすればよかったかと考えたからだ。

「大丈夫だと信じよう。あれだけ怖い目にあったんだ。約束は守ってくれるよ」

 かくいう直哉も内心は不安だった。しかし、彼女たち(少なくとも飯田)が吉田志保を虐めていたというのがどうしても引っかかって、記憶を消してしまうのはいささか疑問だったのだ。

 仕返しとは違うが、自分らが受けた恐怖を忘れるのは果たして良いのか。正解は分からないが彼女らを信じる方にかけた。



―――――――――――――



 飯田が図書館に入って来た時、吉永と大治は彼女の真っ白な顔にただならぬ背景を感じ取った。何があったのか当然聞いた。でも彼女は一言「言ったら殺される」とだけ告げた。

 これには2人もそれ以上深く聞くことができず、ただ黙っていた。

「見たことは喋るなって。2人も。話したらどうなるかわからない。今日のことは忘れてって言われた」

「わかった……」

 2人も同意し、一番奥の席に座り飯田の具合がもう少しよくなるまで待った。怪我はなさそうでほっとしたが、精神的に受けたショックが大きすぎて3人とも頭が回らない。カバンを取りに行くことも忘れていた。

 そのままどのくらいぼーっとしていたのか、直哉が鞄を持ってきてくれて、ようやっと我に返った、という状態だった。

「……かえろう」

 大治がぽつりと口を開く。それを合図に、ゆっくり立ち上がる飯田。無言のまま、学校を後にした。

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