第74話 8月6日(2) 少女の記憶

 帰宅してもまだ母親はパートから帰っておらず、濡れた姿を見られず済んだ。

 服は全て母親がやっていたのを思い出しながら洗濯機に入れて洗った。広げて干してもスカートがしわになっていた。鞄の中も全部出して干した。



 着替えてふう、と一息ついて部屋の隅に座る。ふと「吉田志保」がいたあの押入れを思い出した。もしかしたらもう一度、触れるだけではなくて今度は体ごとそこに入れば、彼女と話ができるかもしれない。


 ちょっと荷物をどかすだけで入りこめる隙間。ふすまを少しだけ開けたままそこにしゃがみ込み、膝を抱えてじっと目をつぶる。暑くて汗が一気に出てきた。

 どの位経ったかわからないが確かに彼女の思いが強く感じられた。この前のような断片的なものではない。はっきりした景色だ。



 学校で小さな女の子、男の子数人が志保を責めている。クラスメイトの物がなくなったのを志保がやったといい張っている。違うといくら言っても信じてくれない。お前以外に盗る奴がいないだろう、お前は貧乏だから泥棒するんだ、一方的な言葉に顔を上げられない。早く返せよと責められて叩かれても、自分は持っていないのだから黙って耐えているだけ。


 下校の前にトイレに行ったとき、突然閉じ込められた。外から何かで止められたのか、ドアが開かない。いくら叫んでも誰も来ない。夕方の見回りの教師にやっと発見された。

 学校から帰ると母親が責める。こんな時間まで何をやっていたのかと。そのあと父親が帰ってくるが、酒に酔っていて、テレビアニメを見ていたというだけのちょっとした気に入らないことで頭を蹴られた。


 景色は変わって別の日。小さい飯田の顔が出てきた。自分の悪口を面と向かって言っている。いつも同じ服で汚い、不潔だから近寄るな、うじうじして気持ち悪い奴だとか、男子の前でぶりっこ使うなだとか、全く言っている事が成長していないなと思った。

 家に帰って母親に話しても、そんなの自分が悪いんでしょうと相手にしてもらえない。酒に酔っていない時の父は普通の人だったが「子供なら通る道だ」とロクに相手にしてもらえない。だがどんな仕打ちをうけても親というのは唯一頼ることができる存在。彼女は両親を恨むことはしなかったが、孤独だった。


「たすけて」


 真横ではっきりそう聞こえた。びっくりして目を開ける。暗い空間の中でもその姿ははっきりと分かった。目の周りにあざを作り、髪はぼさぼさ、足元の汚れた女の子が立っていた。

「志保ちゃん?」

 女の子はただ黙ってうつむいている。

「あの子がエムちゃんなの?」

 今度は無言でうなづいた。

「悔しかったね。なんでこんな目に遭わなきゃいけないのかな」

 そっと彼女の手に触れる。触れられることが驚きだった。そのまま膝立ちになり、彼女の細く小さい体を抱きしめる。小さな志保は立ち尽くしているだけだった、優しく背中をとんとん叩きながら話しかける。


「私ね、ここにきたのは、この体を人間と入れ替えたいからなんだ。私はもう150年もこのままなの。瀕死になっても1日で元に戻っちゃう。呪いなのか魔法なのかわからないけど、死にたくても死ねないし、殺されても生き返っちゃう。だからずっと、あなたと同じように、怖くて痛くてひどい目にあわされてきたんだ。でもね、もうすぐ終わるよ。あなたを虐めたあの子と、私の体を入れ替えることができる死神を見つけたんだ。あの子に仕返ししてやろうよ。傷つけられるのがどれだけ怖くて辛くて悲しいことか、この死なない体で一生苦しむように……」

 小さな志保は無言でこちらの服の端をぎゅっとつかんだ。


「私は新しい体になったら、すぐに死んでもいいって思ってる。小さいのに死んじゃったあなたに言える言葉じゃないのは謝るね。でももう充分生き過ぎた気がするんだ」

 小さな志保は何も言わないし表情も変えない。小さな彼女の体をさらに抱きしめると、一瞬彼女の体がこわばった。だがすぐに、お互いの体が溶け込んでいくかのように一体になった。

 これでもう吉田志保そのもの。彼女の記憶も感情も全て共有できている。



 夕方。薄暗くなってしまった部屋に、押し入れからこそっと出てくる。どうやってあの女を屈服させるかもそうだが、直哉をどうしたら言う事を聞かせられるかが問題だった。

 ただ頼んだだけでは即時断られるに決まっている。戦うか、脅すか、彼の大事なものと取引させるか。真一を使うのも手かもしれないな……。

 ぼんやりと考えていると母親が帰ってきて、制服とかばんのことを聞かれた。あの記憶を見せられた今、この女も虫唾が走る。いい顔をしなければならないのが癪だが、自分がここにいるためには仕方ない。適当にごまかして夕食の支度を手伝う。



 決行の機会はすぐにやってきた。こんなに早く来るとは思っていなかったが、色々な場面を想定していたのですぐ実行に移すことができた。

 それは衝動的ともとらえられるくらい、咄嗟のことだった。

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