第51話 7月3日 締結
約束通りの時間に杉元がやってきた。曇天で蒸し暑く立っているだけでも汗が噴き出るような陽気なのに、黒のスーツで涼しげに笑っている。額に少し汗が出ているだけだ。
「いやあ、暑いですね。さすがにスーツは参ります」
これから重大な契約をしようとしているふうに見えない語り口と笑顔だ。逆に2人はこの暑いのに、冷汗しか出てこない。玄関口で荷物をおろし、失礼させていただいて……と上着を脱いだ男に向かって
「あの!」
女が緊張のあまり上ずった声を発した。
「あの、あの、部屋とか、その……近所にばれずに掃除とかできるんですか?」
男は玄関の戸がしっかり閉まっていることを確認し、小声で「中でお話ししましょう」と2人を居間へと押しやった。
昨日までごみやら食器やら新聞やら、ひたすら物が乗っていた小さなテーブルは今日のためにあけられていた。ひとまず3人座ると、男は説明を始めた。
「お二人のご心配されていることは分かります。他のご家庭でもまれにあるケースです。お庭に埋められた方もいらっしゃいましたが、私共にお任せください。跡形なく片付けさせて頂きます。ただ、賃貸ですとリフォームを勝手にするわけにいきませんので、若干の汚れは残る可能性はあります。でもそれは生活していく中でついてしまった程度までは抑えることはできます。処分するものについても、ご協力頂くのが条件となりますが、私共の指示する手順で少しずつ片づけていきましょう」
2人は顔を見合わせて少し安堵の表情を浮かべた。
「書類を拝見してよろしいでしょうか。今の質問をされた、ということはご意思が決まったようですが」
男の背にある、もう何が入っているのかわからない棚からおずおずと書類を出してきた。
杉元は受け取るとふんふん、と頷きながら読んでいく。
「ありがとうございます。これでまた1人幸せに暮らせる子供が救われました。ご契約感謝します」
杉元は自分のサインを書類に書くと、2枚目を両手で男に返し、1枚目を鞄の中へしまった。
「お支払いはどうされますか? 明日でも構いませんが」
「今で」
男が即答した。
「どんな子供でもいいです、とにかくごまかせれば」
そういうとまた先ほどの棚から、しわしわになった封筒に入れられた、千円札から一万円札までまぜこぜの10万円を渡した。
杉元は失礼しますと中を出し改める。
「確かに頂きました。では、これからの話を進めていきますね」
杉元はクリアファイルを取り出してぺらぺらめくり、一枚の紙を渡した。タイトル部分に「清掃が必要な場合の入居タイミングについて」と書いてあった。図式がプリントされている。
「明日から始まります。一気に清掃員が押し掛けると怪しまれますので、時間差で少しずつ参ります。午前中に2人、水道工事を装って参ります。先に家にあげてください。その後、昼頃にもう1人、電気工事を装ってまいります。その際に先に来ていたうちの1人が処分できるものを持ち帰ります。
午後、3時頃目安に1人が処分できるものを持って帰ります。またその近辺に宅配業者を装ってお伺いしますので、荷物引き取りを装って処分できるものを引き取ります。私はこれから下の階の方のポストに、緊急の工事が入るので少々音を立てるからご迷惑をおかけします、というお手紙を入れて参ります。もしお2人もここにお住まいの方に会いましたら、話を合わせてください」
2人は真剣な顔で聞き入った。
「どちらか明日いらっしゃいますか?」
男は仕事だったので、女が立ち会う。
「残すもの、捨てるものを選別してください。全て捨ててしまうと、娘さんになる子供が友好関係で困る場合があるので判断はお任せします」
「あの部屋を……見なきゃいけないんでしょうか」
「はい。それだけはどうしても」
「……わかりました」
気が重い女をいたわるように、杉元は話しをつづける。
「娘さんに会いましたら、私共で丁重に然るべき処へお連れいたしております。また無理にご家族の方へ面会させるようなことは致しません」
「はい……」
泣きそうな顔をして返事をした。
「夜、出前を装ったものが子供の荷物を置きに参ります。大した量はございません。
最後に子供をお連れする時間ですが、こちら駅からの通りになっていて、午前1時まで人が通ります。また、下の階の方で夜遅いお仕事の方がいらして、2時頃だいたい帰られる。その間の1時間で、人の通りが無くなった瞬間に子供だけ参りますのですぐに部屋に入れてください」
「え、子供だけで来るんですか」
「はい。タイミングを見てその辺に隠れておりますので」
笑顔を絶やさず話す。よく笑っていられるな、と妙に感心してしまう。段取りも手馴れているようで本当に裏家業の人間なんだな、と思い知らされた。
「清掃が追い付かなかった場合、追加の要員をお送りします。先の時間以外で訪問客が参りましたら、奥様ではなく私共のほうで確認の後ご対応をお願いしますので、いきなりドアを開けることはなさらないでください」
2人は紙の手順を何度も読み返した。
「私は明日はお伺いしません。来る者の職業をよくご確認ください。万一違う職業の者が参りましたら、私共のスタッフではございません。明日だけはお引き取り願ってください」
「わかりました。あの、最後に1つ」
男が質問する。
「俺らのほうから、お宅に連絡する手段ていうのはないんですか?」
杉元は申し訳なさそうな顔で言った。
「はい、そうなんです。私たちは秘密厳守。こちらの仕事が公になると、他のご家庭が芋づる式に全て崩壊してしまいます。それは引き取られた子供にも、そのご家族にもデメリットになる。ですので私らは契約した子供としか連絡を取りません。偶然を装って駅で会ったり、子供に1回限りの連絡先を教えたり、それは時と場合で使い分けています」
男は「そうですか」と言って黙った。
「あ、あとあまりにもひどい環境の場合は、契約をこちらから打ち切ります。残念ですが1件過去にございまして、満足に食事もとれず病院にも連れて行ってもらえないというので、弊社から警察へ通報致しました。それも子供からの報告で分かったことでございます」
引き取ったらそれで終わりではない、という親側への警告だろう。男は「それは絶対ない」と否定した。
杉元はこれだけ意思のある方なら安心してお預けできる、と声をかけて帰った。
「明日からは何も隠す必要はなくなりますよ。どうぞよいご家庭を」
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