ベースに乾杯⑥

 あらゆる過去を封印し、美穂は足立区梅田の商店街を歩く。街を歩く度に視線を感じる。老人、柄の悪い若者。中年男性。彼女の身体を上から下まで仔細に眺める。最初は不快だったが、今は慣れた。彼女は徒歩で商店街に来たが、土手沿いに一軒ラブホテルがある。昼間からすっきりした表情で男女が出てきたとき、『氷河期前の一発』というのが阿頭をよぎった。皆、考えることは一緒なのか、ホテル界は氷河期前でも賑わっているらしい。というのをテレビや新聞で見た。


 時計屋『レッド』に辿り着いた。年代を感じさせる店構え。商店街の中では一際風格する感じさせる。美穂は看板を眺めた。『レッド」のレの前の部分に、〝パ〟とマジックで書かれていた。よく見ないとわからない。彼女の視力は2.0だ。ごまかすことはできない。誰かがイタズラ書きをしたらしい。


 店内は、所狭しと時計が並べられていた。壁時計、腕時計、懐中時計。どうやら時計専門店らしい。店の音楽はビートルズ『アビー・ロード』のアルバムが流れていた。ちょうど『Oh! Darling』のイントロだった。

 三十代らしき若い店主がよく通る声で美穂に声を掛ける。〝声〟に関する職業でも昔やっていたのだろうか、彼女は思った。それほど地中海にでも届くような声質だった。それとなく美穂は言ってみたが、やんわりと否定された。どこが寂しげな表情でもあった。美穂は柏原の母親に時計修理を依頼した。それは美穂の母親のものだ。デザインも古めかしく、若い女性が身につけるには時代が経ち過ぎている。こうして時計屋に自分で受取にくるなら自分でいけばよかったのだが、仕事が立て込んでいていけなかった。自分でも馬鹿なことをやっていると思うが、しかたない。過去とは封印したいものだ。それでも解放したいときもある。


 店主に受取証を渡し、修理品を受取、店主とビートルズの会話で盛り上がった。好感の持てる男性だった。どことなく人を惹きつけるものを持っている。

 歌えばいいのに。

 と美穂は思った。それでもやはり店主も男なのか美穂の身体を隅々まで見ていた。


 もしかしたら惚れた? 


 でもごめん。妊婦なの。


 店主ならそれぐらい気づいているかもしれない。そんなことを感じ美穂は小菅へ向かった。



 夕方になり気温は急激に低下した。その気温低下を象徴するかのように美穂は東京拘置所を訪れた。面会者用の門は錆びれている。辺りを見回すと、右手の方に地上十二階、地下二階、の中央管理棟が見える。両V字形に伸びる北収容棟、南収容棟が中央棟とつながっている。


 美穂は重苦しい雰囲気の面会者用入り口の扉を開け、建物内に入った。〝建物内撮影禁止〟の貼り紙が壁に貼られていた。


 建物内に入ると、病院の待合室のように長椅子に面会待ちの人が並んでいた。待ちスペースの端にはテレビ、その上には面会準備ができたかを表示する電子パネル。やはり病院のようだと、彼女は思い。一瞬、身震いした。


 受付で美穂は『面会受付用紙』に漏れなく必要事項を記入し提出した。他の人と同じように長椅子に座って番号が電子パネルに表示されるのを待った。



 美穂が母親の面会に訪れようと思ったのには理由がある。まず、お腹の中に新しい命が宿り、なんとなく母親の気持ちが理解できるようになったことだ。もちろんまだ子育をしていないから正確なところまで、は理解できない。だが、親は子を守るものなのではないか。それならあの雄一を咄嗟に包丁で刺した行為もわからなくはない。


 それに、母は寂しかったのではないか。父が事故死し、孤独ではないまでも不安が母を襲ったのではないか。一人で子を育てなければならない、という不安。母も当時は若かった。今の美穂と対して変わらない年齢で不幸を背負った。その弱い部分を雄一という人間につけ込まれてしまったのだろう。いや、母は本当に愛していたのかもしれない。あんな男でも。女は一度惚れ込むと修正が難しい。それは美穂もわかっている。


 美穂も寂しかった。だから柏原という既婚者故の余裕、包容力に惹かれたのかもしれない。それに時折見せる無邪気な笑顔。


 間違ってたのかな、美穂は思わず口に出してつぶやく。長椅子に座っている面会待ちの人が何人か振り向いたが、彼女は気にしなかった。


 さらには拍車をかけたのは、諸星幸絵の死だ。なにかとあると諸星さんと過ごした日々を思い出す。ベースにのめり込んだ日々。乾杯したあの日。最後のアドバイス。

 そう、諸星さんのアドバイスだ。


〝赦すことも才能のひとつ〟


 ずっと付き纏っていた言葉、フレーズであるが、新しい命が美穂のお腹に宿っているということで決心がついた。正確には赦した、まではいっていない。実際に会ってみて判断したいと美穂は思った。


 電子パネルに美穂の番号が赤く印字された。


 初老の係員が、「どうぞ」と美穂を誘導する。さらに、「モデルの方ですよね?サイン後でいただけます?孫があなたのファンなもので。後、この事は内緒で内密に」と歳のわりには綺麗な歯並びを見せた。

「わかりました」と美穂も笑顔で答えた。


 面会場所はテレビドラマで見たのと寸分も変わりはなかった。ガラス製のしきりがあり、中心に声が通せるように、ぼつぼつと複数の小さい穴があいている。左隅には書記官がいて。会話の始終を監視する。


 美穂はスチール製の安物の椅子い座った。お尻がひんやりとした。この独房の中で母はどんな気持ちで過ごしていたのだろう。娘のことを覚えているのだろうか。むしろ逆に恨まれてはいないだろうか。

 そんなことを考えていたら、向かいの扉の奥が騒がしい。


「大丈夫ですよ」と若い女の声が誰かを励ましている。

 すると年老いた声の泣き声が美穂の方まで響き渡った。


「母と娘なんですよ。気をしっかり持って」

 若い女がまた誰かを励ました。


 それからしばし殺風景な空間に静寂が訪れた。


 かちゃ、とドアノブを回す音が聞こえ、背筋を伸ばした女性が中年の女性が面会室に入って来た。

 その女性を美穂は見つめる。


 髪の毛のサイドには白いものが目立つ。だが、顔には少し皺が目立つようになったが、それでも綺麗な顔立ちだった。手もとくに荒れていなく、出所してからでもパーツモデルはできそうだ。だが、『氷河期』が訪れる。才能をこの独房に封じ込めしてしまった。

 そう、母が目の前にいた。


 母の目元は赤く腫れ上がっていた。

「み、ほ」


 母は声にならない声を出した。それでも美穂は何も言わなかった。母の手元に大量の紙の束が右手に握られ、左手には雑誌を数冊握りしめるように持っていた。


 美穂はその手元から目を離せずにいた。有名雑誌の表紙には、美穂が写っていたからだ。それははじめて美穂が表紙を飾ったものだ。母はその雑誌を何度も繰り返し、繰り返し見たのだろう、雑誌の角という角はすり減り、色褪せてもいた。


 自然と美穂は涙がでていた。最初は瞬きをしなかったからだと自分に言い聞かせた。しかしそれは自然と溢れ出る感情だった。

「お母さん!!!」

 と涙声をガラス製のしきりに美穂はぶつけた。


「美穂、ごめんなさいね。会いたかった。あなたに会いたかった」

 母がガラス製のしきりに顔を寄せ、美穂もガラス製のしきりに顔を寄せた。母娘の涙は乾杯した。言葉はいらない。涙が全てを洗い流し、次は恵みを与えてくれる。

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