ベースに乾杯②

 十四歳の美穂は荒川の土手にいた。一人体育座りをし、川の流れを見つめていた。川は平和でいいな、と彼女は思う。悩みもないし、考え事もしなくていい、学校にだっていかなくていい。ただ流れているだけ。でも、その流れを見ているだけで心が癒されえうのも事実だ。


 美穂の傍でバッタが二匹飛んでいた。勢いよく跳ね、静止し、また跳ねる。その縦横無尽な行動が羨ましくもあった。


 一年前に母親が新しい家族と称して男を連れてきた。


「新しいお父さんよ」

 と母親は家電製品を買い替えるように言った。


 突然のことに美穂は動揺し、無神経な母に苛立ちを覚えた。ずっと本当の父親を愛してればいいのに、と彼女は思う。だが、本当の父親は三年前に交通事故で亡くなった。やさしく、美穂を担ぎ上げ、一段高い景色を見せてくれ、少年のように無邪気な笑顔を見せる父親のことが美穂は好きだった。

「よろしくね、美穂ちゃん」と男は言い、「雄一と言います」と美穂の頭の上に手を置いた。粘着質な物言い、気安く彼女の頭の上に置く手が美穂には不快だった。少し太り肉な身体、それでいて陰りのある陰険な目つき。


 なぜこんな人と、その視線を思いを美穂は母にぶつけた。しかし母は微笑むだけだった。母は綺麗だった。比較的大きい胸、すらりと伸びた脚、目鼻立ちくっきりとしていた。結婚する前は顔のパーツモデルをして生計を立てていたらしい。目、鼻、口、耳、脚、手、という具合に。たしかにどのパーツも洗練されていて他の男性が黙っていないのは美穂にもよくわかる。


 が、この雄一はありえない。美穂は思春期真っ只中であり、肥えた男が苦手で、不潔さを感じた。


 母親の再婚を機に、美穂は変わった。家にも帰らなくなった。居場所を感じなくなった。かつて真面目だった面影はなく、不良仲間とつるむようになった。たしかにみんなと一緒にいるときは楽しく、嫌なことも忘れられたがみんなとサヨナラした後は、心にぱっかりと空き、夜は足立区の街を徘徊し、結局は荒川を眺める日々が続いた。男友達の家に転がり込み、その男と初体験を済ました。十四歳の冬だった。最初の性行為は痛く、唇を噛み締めながら涙が溢れてきた。懸命に腰を振る男を下から見ていて、情けない顔、と思った。

 この涙は痛いから?


 いや、違う。こんな状態にした母親がいけないのだ。彼女はそう思うことにした。何か心のどこかが壊れ、破壊され、修復ができなくなっていた。化粧品道具欲しさに万引きにも手をだした。ドラッグストアで一度や二度ではない。その手軽に物を得られるという感覚を知ってしまい、犯罪、だという感覚はなくなっていた。折しも時期的に、『氷河期』という得たいの知れない用語が席巻し、天候不順が起きていた。温暖と寒冷を行った来たり、美穂が男友達の家に行き身体を売るような循環が続いていた。そのせいか食糧不足が続き、買いだめや略奪が起き、街は混沌としていた。


 が、ある日美穂は万引きで捕まった。いつものドラッグストアだ。二週間に一回はそこで万引きを行っていた。間隔を空ければ大丈夫だろう、と思っていたが、読みは甘かった。店長と思しき髭面の男に別室に連れていかれた。


「親御さんの連絡先、教えて」と髭面の店長が言い、「黙秘権ってやつですか」おどけてみせた。


 美穂が俯いた。だが、髭面の店長は喋るという行為が好きなのかさらに続けた。


「僕もねドラッグストアなんかの店長をやっていると万引きは日常茶飯事でね」髭面の店長は苦渋の表情を浮かべ、「未成年者が万引きをするということは、家庭に問題があるか、金銭的問題があるか、興味本位か、この三点定規セット、いや、三店なんだよ」と言った。


 美穂は笑ってはいけないのだが、〝三店定規セット〟のくだりでぷっとオナラのような声が漏れた。


「お、笑った、笑ったよね」

 髭面の店長が身を乗り出す。そして美穂はまたポーカーフェイスに戻る。


「でさあ、今って社会不安や気候不安や将来不安や経済不安って多いじゃない」と髭面の店長はどこか自分に言い聞かせるように言い、「ドラッグストアも経営が厳しいのよ。君のような綺麗なお嬢ちゃんが商品一個盗むだけでさ、店側にとっては多大なる損失なんだ。一応それをわかって」美穂は髭面の店長の視線を感じた。が、下を向いたまま微動だにしなかった。

 さらに話は続く。


「僕も万引きという刺激を味わいたいよ」と髭面の店長が経営者らしくない発言をし、「僕みたいに商品仕入て、アルバイト管理して、商品補充して、店のレイアウトを考えて、エリアマネージャーには怒られて、みたいに単調な生活を送ってるとさ刺激も欲しくなる。でもね。万引きはできない。やはり理性が働くし。その背景を見ちゃうから」と言った。

 美穂は髭面の話に興味を覚えた。

〝背景〟という単語が興味をそそった。

 なので、「背景?」とつぶやくように美穂は髭面の店長の葉巻が似合いそうな顔を見て訊いた。


 髭面の店長は美穂がいきなり声を出したことに驚いたが、すぐに柔和な表情を見せて話を続けた。

「そう背景。たった一つの商品にさ、たくさんの思いが詰まっている。工場で原料を混ぜ合わせ、機械を動かし、梱包する。さらには配達をする人もいる。その前段階には商品を企画する人がいる。そうやって頭を使い体を使い、辿り着く先が僕が店長をしているドラッグストアに集まってくるわけだ。僕はただここで販売するだけだけど、それでもたくさんの思いをないがしろにすることはできない。それをどうかお嬢ちゃんにもわかって欲しい」


 哀しみや喜びや怒り苦しみ、あらゆる感情を経験したものだけが見せる、やさしい笑みを髭面の店長が見せた。開いた口の先にある歯は白かった。


 いままでそういうことを美穂は考えたこともなかった。まだ子供だからわからない。逃げ出すような甘い思考では済まされず、いずれ大人になり経験するであろう髭面の店長の気持ちを察すると心が痛くなるのを彼女は感じた。

「ゼロ、サン・・・・・・」

 と気づけば美穂は電話番号を髭面の店長に絵の具を画用紙に垂らすようにポツポツと言っていた。


「ありがとうね」

 なぜか髭面の店長は礼を言った。

 三十分後、母が神妙な顔つきを表情に出し、手には買物袋を持っていた。

 髭面の店長が、「エクセレント」と母の美に対して興奮と驚きを単語に込めた。

「申し訳ありません」

 母は頭を下げた。それと同時に香水の甘い匂いが個室に漂った。


「いえいえ。反省もしてるようですし。警察には通報しませんので」

 髭面の店長は穏やかに言った。


「本当に申し訳ありません。ほら美穂も」

 母が美穂の頭を無理矢理下げる。


「本当に大丈夫ですので」

 髭面の店長の言葉に、母はもう一度、「申し訳ありません」と言った。


 その後、化粧品道具、ナプキン、リップ代金を母親は清算しドラッグストアを後にした。


 家に帰る道すがら母が、「美穂変わっちゃったね」と幾分か目元に小皺を寄せながら美穂に言った。


「もうほっといて」

 美穂はそれだけを言い放ち、その後は無言のまま帰宅した。


 帰宅した際、あの男、不快な男、雄一が酒を飲みながら帰宅を待っていた。

「万引きしたんだって?駄目だよ。駄目。犯罪は駄目」 

 雄一は日本酒を飲みながら言った。


 古びたマンションの室内には、空き瓶や空き缶が転がっていた。室内が酒臭い。雄一は大手銀行に勤めていたが、バブルが弾け、会社をリストラになり、ショックからか酒に逃げていた。

 あかさらまな嫌悪を美穂は表情に出した。


「なんだその顔は」

 雄一の顔が般若のように変わり身を乗り出す。男というのは一つの失敗で立ち直れなくなるものなのか、美穂は思いその後の展開が予見できた。


「ちょっとやめてよ」

 と母が止めに入る。雄一がこの状態だから母はパーツのモデルをまた始めたらしい。


「うるせえ」

 雄一は母を突き飛ばし、美穂に平手打を浴びせ、蹴り、組み伏せられた。

「犯してやろうか」

 と雄一に言われ醜い顔に美穂は唾を吐きかけた。

「クソガキ!」雄一の瞳孔が開かれ、口の隅に白い泡が溜まっていた。

「ちょっと、本当にやめて、お願いだから」

 そう言う度に母は雄一に突き飛ばされた。その衝撃で母が頭を打った。

 その光景を見て美穂は唾を吐きかける。彼女の制服が雄一のどす黒い心の汚れた手でひき千切られる。美穂の花柄のブラジャーが露になった。

「お前は母親に似ていい女になるよ」

 酒臭い息を雄一は美穂の耳元に吹きかける。

 その時だった。

「ぐがぁ。あっ、あっ」

 と雄一の般若のような顔が、突如苦悶の表情に変わり、口から涎をたらしたかと思うとそれは赤かった。

 そう、血だった。真っ赤な血。絵の具の赤でも、クレヨンの赤でもない、真っ赤な血。美穂は恐怖を感じた。おそるおそる顔を上げる、母が血染めの包丁を持って震えていた。そして数分後、雄一の呼吸は止まった。

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