ベースに乾杯①

「できちゃったみたい」


 お腹を擦りながらファッションモデルの松原美穂が言った。今年で二十八歳を迎え、モデルとしてはレッドライン。後輩からは陰で、「引退すればいいのに」という声を耳にしたばかりだ。それでも日々の努力の賜物か、食生活には気を使い抜群のプロポーションを維持している。ウェーブかかった栗毛色の髪、男が好むナチュラルメイク、目鼻立ちははっきりしていてハリウッド女優を彷彿とさせる。なによりぷっくりとした唇は男性を魅了し、女性をも魅了する。その魅了された一人が横たわっている柏原仁だ。

「え、うそだろ」

 柏原がベッドから跳ね起き驚きを露にする。


「本当よ。奥さんと離婚してくれるんでしょ」

 柏原の目を見ながら美穂は穏やかな声音で言い放つ。


「あ、うん。ああ。うーん」柏原は言葉に詰まり、どもり、首を横に傾け、困った表情をし、「うそだろ?」ともう一度、美穂に訊いた。


「本当よ。ほら」

 美穂は柏原の大きい手をとり、お腹にもっていった。


 柏原と出会ったのは三年前。モデルとプロ野球選手の合コンで知り合った。年齢は美穂より二つ上で三十歳。二人とも足立区出身ということで息が合った。引き締まった体。なによりきゅっと引き締まるお尻が美穂は好みだった。もちろんそれだけではない。普段は飄々としているのだが、いざ試合になると目つき変わり、本来の闘争本能剥き出しでホームベースを駈け回り、美穂と付き合い出した二年前には首位打者を獲得しお礼に車をプレゼントされた。そのギャップに惹かれたのはたしかだ。


 が、問題があった。そう、柏原は既婚者だった。今年で結婚八年目であり一児の父親でもある。一度、柏原の家族を渋谷のファッションビル内で見かけたことがある。子供を二人の間に挟んで仲良く手を繋ぎ、笑顔をのぞかせていた。その光景を見て美穂は、

〝家族が欲しい〟

 という思いに駆られた。それが叶うこともない夢物語だと知りながらも。


 ところがある日柏原に、「離婚しようと思うんだ」と切り出され、「君と一緒になりたい」と言われた。


 美穂は素直に嬉しかった。陰でコソコソ会い、週刊誌に怯えながら暮すのは刺激的でもあるが、窮屈だった。世間からは華やいだ業界にいると思われがちだが、実際は泥臭い仕事。微妙に変化があるとはいえど、同じポーズ、同じ表情、同じ様なディレクターの指示。仕事があるのは嬉しいことだが、些細な日常に憧れを抱いてもいた。

「たしかに少しお腹が膨らんでるな」


 柏原はグローブで白球をキャッチするかのように左手を広げた。そして美穂のお腹から手を離し、キッチンへ向かった。一LDKのマンション。北千住駅から徒歩五分にある高級マンションだ。近くに大学ができ、飲食店が充実し商店街も活性を見せ賑わっている。

「産むの?」

 そう言い、柏原はペットボトルの水を飲んだ。


「もちろんでしょ」

 美穂が言う。

「でもさ、ほら『氷河期』が始まるじゃん。今産むと苦労すると思うんだよな」

 柏原はチカチカと点滅する蛍光灯を見上げた。蛍光灯の交換時期に来ているよ

うだ、消耗品は、いやでも消耗するものだと、美穂は思った。


「地下で育てればいいじゃない。赤ちゃん用品、五年分買いだめするわよ。それに『氷河期』が来るからって人類が絶滅するわけでもないでしょ」


 美穂はなんとしても産むつもりでいた。家族が欲しい。子育てをしたい。それは女性としての欲求でもあった。周囲も早くに結婚し、羨ましいと思っていたのも事実だ。なにかと結婚し仲睦まじげな夫婦ぶっている人達に限って、「美穂も早く結婚しなさいよ。子供可愛いよ」と言ってくる。


 が、数年後には離婚。仮面夫婦はバレてますよ、とあの時に言っとけばよかったと舌打ちをする。

「わからないじゃん」

 柏原の一言に、美穂は思考を戻す。


「なにがよ」柏原のはっきりとしない態度に美穂は苛立ちが募り、さらには酸っぱいものが食べたいと思い、「冷蔵庫からレモンとってくれない」と言った。


 柏原が冷蔵庫からレモンを取出し、それを美穂にゆっくりとキャッチボールでもするかのように投げた。それを彼女のは片手でパシッとキャッチし、勢いよくそのまま齧った。

「君の行動の予測がつかない」

 柏原が美穂の食べっぷりをみて言った。

「予測がつかないから人生は面白いんじゃない」

 美穂の口元からレモン汁が垂れた。

「なるほどな。苦労してきた君ならではの解答だ。でも、『氷河期』が来たら生き残れるとは限らないだろ。絶滅はないかもしれないけど、確率は低くなる。事実、プロ野球だって天候不順で、もうペナントレースは閉幕してるんだ」


「それでも私は産みます。絶滅とかはっきり言ってどうでもいいのよ。産まれてくる子供に未来を見せれるかが大事。そんな悲観的になってたら、いやでも絶滅するわよ」

 美穂はさらにレモンを齧る。


「ごもっとも」


「さらに言えば『氷河期』とか言うけどさ、高度経済成長やIT革命とか言って先進国はパカパカと胃袋に詰め込んでさ、無駄多く生活して気持ち悪いったらありゃしない。スマートに生きろ、って地球が言ってくれてるのよ。テレビを点ければ、ロースカツ二十枚詰め込んだような顔の政治家ばかりじゃない。経済ジャナーリストも先のことなんてわからないのに知ったかする知識バカだし、企業の社長だって海外ビジネスを真似て、さも革新的なサービスとか言って〝僕〟〝私〟出来リーマンです。とか笑っちゃう」


「なんだろう。性格が変化したね」

 柏原は一歩のけぞる。


「だって妊娠してるんだもん。変化しない方が不思議よ」


「今の言い回しは嫌いではない」

 柏原は体勢を立て直し、水を口に含んだ。

 美穂は柏原の発言を無視した。


「地球もね、気づいて欲しいのよ。ほら、気づいて、僕達に気づいてって。地球に住んでいる私たちに環境を変化させて、気づいてっているのよ。NASAがさ、研究データがどうとか言って記者会見開いたじゃない。事実を伝えたけど、その後は人間の本質がでて数年間は食糧強奪とか起きて大変だったじゃない。地球も思ってるよ」と何に対するイライラなのか判別しないまま美穂は捲し立て、「もう、人間って愚かんだから」と添えた。


「でもさ、十五年前に公表されてさ。何もできなかったよな。俺たち人間」

 柏原は、できなかったよな、とさらにつぶやいた。


「できるわけないじゃない。人類が誕生する前から青い球体は存在してるんだもん。手を施す方が難しいわよ」と美穂はさらにレモンを齧り、「それに手を施すと、どうなるかっていうと世界各地で砂漠化が席巻するわ」と威圧感ある口調で言った。


「君の見識の深さに恐れ入ったよ。そういえばそうだよな。五十年前と今の地球の衛星写真を比べると、緑少なく、黄土色が多かったなあ。それに白い物が熱帯地方に多数あった。地球の青さは減少したね」

「白いものって?」

 美穂は訊いた。


「たぶん雪だとは思うんだけど、かなり広範囲だったから四季は乱れに乱れてるね」

 やれやれ、と柏原は両手を上げた。


「それより、奥さんとは離婚してくれるの、よね」

 美穂はレモン汁で汚れた手を着ているネグリジェで拭いた。


「それなんだけど」柏原は言葉を濁し、「実は、妻の方も妊娠しちゃって」と頭をポリポリ掻きながら言った。


「はあ」と呆れ顔で美穂は唇を突き出し、「仁、言ってたじゃん。奥さんとはセックスレスだって。身体の相性が合わないって。嘘だったんだね」と立ち上がった。


 華奢な身体には似つかわしくない、フローリングの床をドタドタと歩き、食パンの袋から一枚取出し、トースターに叩き付けように一枚投入した。


 その行動を一部始終見ていた柏原は、「ごめん。言い出せなくて」と頭を下げた。


 男っていつもそうだ。情けない、と美穂は思った。不都合が生じると逃げ出す。全員が全員そうではないかもしれないが。ほぼ全員だと美穂はこの時確信した。ここで普通の女性なら、「奥さんと別れてよ」「もう、あなたじゃなきゃ駄目なの」「お願いダーリン」みたいなゴールデンタイムに放送されている面白くもないドラマ的な展開もあるだろうが、彼女にそれはない。自分はそんなに柔な女じゃない。突如、中森明菜の『十戒』の歌詞がこの場には相応しいと美穂は感じ、不適な笑みをもらした。

〝イライラするわあ~〟、と。


「なんで笑ってるの」

 頭を上げた柏原は美穂を見た。


「別に」どこかのツンデレ女優のような口調で柏原を突き放し、「結局、私は遊ばれていたってことね」と言った。


「そこまでは」

 柏原はか細い声で言った。


「そうじゃない」と美穂が言ったと同時にトースターがチンとグッドなタイミングで鳴り響いた。一枚取出し、バターを塗り、すかさず商店街にあるパン屋で買った自家製のイチゴジャムを塗りだくる。果肉大きく、蓋を開けたときのイチゴ臭が鼻孔をくすぐる。


「美味しそうだね」

 柏原が唾を呑み込んだ。


「食べれば。血糖値の上昇が見込めるわよ」


「やはり女性は妊娠し子供を産むと変化するんだな」

 柏原はトースターに食パンを一枚投入した。


「まだ、産んでないけどね」

 美穂のその言葉に柏原は無言になる。


 柏原は逃げるようにリビングへ向かい、「ベース弾いたんだ」とフェンダー社のジャズベースを手にとった。


「ああ、昨日久々に弾いてみた。やっぱりいいね、ベースは。アンプに繋いでビートルズの曲を轟音で弾いたわよ。私のストレス発散方法」


「よく近所から苦情こなかったね」と柏原は心配をし、「きたわよ」と美穂はあっけらかんとして言った。


「大丈夫だった?」


「苦情言いに来た人もビートルズファンで、意気投合したから」

 美穂はトーストを食べ終え水道の蛇口を捻り手を洗った。ひんやりとして気持ちよかった。


「そういうことってあるんだ」


「だから、先がわからないから人生って面白いのよ」


 美穂は手を拭き、冷蔵庫からグレープフルーツジュースのパックを取出し、グラスへ注いだ。そして一気に飲み干す。


「君にそう言われると何も言い返せないなあ」


「別に言い返さなくていいわよ」と美穂が切り返す。

 ベースを指で弾いていた柏原は美穂の言葉に指が止まり。しばしの逡巡のあとまた弾きだした。その光景を見て苦笑し、滑らかにベースを柏原が弾くことに彼女は驚いた。


「昔やってたの?」

 美穂はベースを指差す。


「あれ、言わなかったっけ?学生時代ちょっとね」


「野球漬けだと思ってた」


「それは当たってるけど、辛いときって音楽で癒されるじゃん。ちょうど兄貴がバンドやってて、教えてもらったんだよな」

 昔を懐かしむように柏原はベースを見つめていた。


 ああ、と思わず彼女はため息を漏らした。なぜなら、ふと見せる彼の少年のように純粋な表情、瞳を見るとキュンとしてしまう。浮気するよな男でも好きなものは仕方がない、美穂は思った。既婚者を好きになる彼女自身にも問題があるのだが。


「美穂は、ビートルズが好きなんだっけ?」

 柏原は訊いた。


「好き」と簡潔に美穂は言い、「とくに、『アビー・ロード』が」と目を輝かせながらリビングに向かう。


「あれはビートルズ至上、最高傑作だよな。ビートルズの凄いところってさ」向かい側のソファーに座った美穂を見て、「やり尽しちゃったところだよね」と言った。


「どういうこと?」


「ロックもいければポップもいける、オーケストラみたいなのもやったじゃん。それに詞が当時の風刺が効いてていいし、数十年経って尚、現代にも通じる。影響されたアーティストは数えきれないだろうな」


「そんなの誰でも知ってるでしょ」

 美穂は棘のある言い方で突き放す。


「さすがに誰でもではないんじゃないかな」

 柏原は首を左右にゆっくり振りながら反論した。


「そうだよね。認め合うことができない人間と同じか」

 柏原は苦笑し、「どういうこと?」と訊いた。


「『氷河期』だって言ってるのにさ、世界じゃ紛争やテロとか絶えないじゃない。やはり人間同士って認め合うことって難しいのかな?」

 美穂は前々からの疑問をぶつけた。


「難しいよ。とくに地球上に人口が七十億人を突破して全員が一つになるなんて不可能だよ。でもさ、紛争とかテロって、冷静に両者の言い分を聞いてみるとさ、どちらの言い分も正しく思えてくるよ。両者はどちらも正しいと思っているんだ。ようするに何が正しくて、何が正しくないかなんて、わからないんだよ。その思い込んでる主張を崩す為に武力行使する。その繰り返し。終わりなき旅」

 柏原の口調に熱を帯びた。


「もう野球ができないから、人類学者にでもなるの?」

 美穂は柏原の説明を受け、素直にそう思った。


「いや、君と付き合い出して、この手の話題をイタリアレストラン、パーティー、本屋、ショッピングモールでしている内に、気づけば僕にも変化が生じたよ」


 柏原は抱えていたベースをベランダの窓の近くに立て掛けた。さらにはピックを一フレットの三弦と四弦の間に挟み込んだ。

 それを見届け、「いい影響ね」と美穂は断言した。


「そう言えば俺の母親に頼んで、時計修理に出しといたよ」

「ああ、ありがとう。どこの時計屋さん?修理終わったらとりにいくわ」

 美穂は言った。


「ええと、梅田の商店街にある『レッド』っていう店」

 柏原は立ち上がり、辺りをきょろきょろと見回した。美穂は彼の行動の意味を察し、「そこ」と鞄が置いてあるベッド下を指差した。鞄や雑誌などをベッド下に潜り込ませてしまう習性が彼女にある。


 柏原が鞄を引き寄せ、一枚の薄い紙を取出し美穂に手渡した。

「受取証」と柏原は言い、「お母さんに会ってないの?」と訊いた。

 無言を同意と受け取ったのか柏原は、「許してあげれば」と言った。


「あなたに関係ないことよ」

 と比較的暗い声音で美穂は言った。


「家族がいないことにするのは寂しいことだよ」

 美穂はその言葉を無視し、「で、これから私たちどうするの?」と訊いた。

 柏原は数秒沈黙した後、口を開いた。


「家族の元に戻ると思う。美穂のことも好きなんだけど、『氷河期』がいざ迫ると、誰と一緒にいたいか、というのを深く考えさせられたんだ」

「それは私じゃない?」

 美穂は訊いた。

 柏原はうなずき、「美穂のことも好きなんだけど。好きであり愛してるわけではなかった。自分勝手なのはわかってる。美穂の身体から産まれてくる子供に対しては最低限のことはするから」と言い俯いた。


「そんなことしてもらわなくていいわ」

 美穂は突き放す。

「えっ!」

 柏原は顔を上げ、安堵とも驚きともとれる表情をし目をパチクリさせた。


「無責任な男が父親だなんて行ったら、子供の未来に関わる。一人で育てるわ。さあ、家族の元へおいきなさい。ここはあなたの居場所じゃないんでしょ?」


 美穂は内心は哀しみにくれていたが、務めて冷静に言った。 


 柏原は鞄を肩に掛け一言、「ごめん」と言い玄関へ向かった。扉がやさしくカチャと閉まる音が美穂のいるリビングまで聞こえた。


 美穂は立ち上がり、トースターの場所へ行った。さっき柏原が投入した食パンはスイッチを入れていないのか焼かれていなかった。


 トースターもろくに焼けないなんて、〝無責任〟この言葉が美穂の頭を過り、食パンとしての職務を全うできていないじゃない、とも思った。すかさずトースターのスイッチを押した。


 家族か、美穂は窓を開けベランダに出た。室内の重苦しい空気とは対照的に清々しい空気が全身を包んだ。空気を深く吸い込み、吐く。それを三回繰り返した。脳に高濃度の栄養が行き渡る感覚があり、『氷河期』が訪れると当分新鮮な空気を吸えないと思うと寂しさが彼女を貫いた。


 男というのは肝心なときに尻尾を巻いて逃げるのだな、と美穂はベランダから周囲を眺めながら思った。どこかで見たような政治家風の男が、「俺は間違っていたのか」と叫んでいた。朝から叫ばれても、と彼女は苦笑する。そう思っているならそうなんではないのか、とドライな感情を政治家風の男に向ける。が、届くはずもない。美穂のマンションは商業ビルの真裏にあり駅近ということもあるのか比較的綺麗な人がマンションの目の前の通りを歩く。そこに初老の男性と髪の毛をセンター分けにした二人の不釣り合いな男女が通った。なにやら真剣な話をしている。女性は三十代盤、いや普通に若くも見える。別れ話であろうか、女性はハンカチで目元を拭っていた。女性はショックからか足早に駅の方にきびすを返した。「ゆずはさん」と初老の男性が大声で叫んだ。その声は見た目とは裏腹に若々しく威厳すら感じた。それなりの地位にいるのだろう、ということは美穂にも容易に想像がついた。


 はあ、と美穂はため息をつく。背後を振り返り、ベースを眺める。あと少しで『氷河期』、か。地下で子供って産めるのかな。おそらく予定日まであと五ヶ月ほどある。

 〝母は強し〟、か。


 柏原は家族の元に戻り、『氷河期』で改めてその大切さに気づいた、というようなことをほのめかした。美穂も家族が欲しい。


 母親、か。

 そう美穂はつぶやき、遠くに聳え立つ東京スカイツリーを目を細くして見つめ、背後からトースターのチンという音が空しく心を打った。

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