ボーカルはあの子⑤

 転機が訪れたのは二十五歳だった。家を出て七年になる。家族とは連絡をとっていない。雑誌で水樹の活躍は目にした。それぐらいだ。

 洋一とバンドを組み、その他のメンバーは入れ替わり立ち替わりという状況だった。それでも地道にライブハウスでバンド活動をし、近年急速に発達したソーシャルメディアを積極的に活用。さらにはユーチューブなる動画コンテンツなども登場し、バンドのライブ映像や新曲などを投稿していった。

 その甲斐あってか、とあるインディーズレーベルから誘いがあり、そこの事務所に入った。そこからは忙しくなり、全国ツアーと銘打ってライブハウスを回った。都内では知名度はそれなりにあったが、地方では聡達のことを知っているものはいなく、ライブハウスには空席が目立った。それでもネット上でのアクセスは増えていった。

 メジャーデビューも近い、そう誰もが思った。そして、聡の元にある関係者から電話が入った。それはメンバーには秘密にしとくことにした。

 この時期は、天候も荒れていた。『氷河期』の影響だろうか。

「雨、風、雷、やばいな」

 窓を覗き込みながら洋一は言った。事務所が用意してくれたスタジオの一室にいる。今日は洋一と聡の二人だ。新曲の構想を練る。

「新曲のタイトル『雷風雨(らいふうう)』でいいじゃん」

 聡はギターを持ちながら言った。今ではギターコードだけなら弾けるようになった。

「おい聡。それじゃ、ラーメン屋みてえじぇねか」

「たしかにそれは言えてる」

 そう聡は言い二人は声を出して笑った。

「本当に氷河期って来るのかな?」

 聡はAコードを終始ストロークしながら訊いた。

「ナチスが言ったんだから到来するだろ」と洋一は言い、「洋ちゃん、ナサだよNASA」聡は訂正した。

「ああ、そうだった」洋一はおどけて見せ、「でも、ナチスとナサも一緒だろ」という結論に達した。

「ヒトラーと宇宙を研究してる人達じゃ、全く違うじゃん。かたや独裁者、かたや宇宙を解明し人々の為に、だもん」

「思い出したんだけど、ヒトラーって背低いらしいな」洋一はさりげなく言った。

「誰、情報?」

「本」と洋一は簡潔に言った。

「たしかに演説の映像観ると背が高く見えるね」

 聡は言う。

「踏み台か何かに乗ってたらしいな。あのヒトラーにもコンプレックスがあったと見受けられる」

「だから背が高く見えたのか」

 聡は感慨にふける。

「ヒトラーも身の丈にあってないことをしてるからな」

「どういうこと?」

 聡は訊いた。

「ヒトラー最大の敗因は自分を大きく見せ過ぎた」

「踏み台に乗ってるからじゃなくて?」

 聡の訊いた言葉が悪かったのか、他の要因があるのか定かではないが、洋一は急に押し黙った。

「なあ、聡」

 さっきまでとは打って変わり洋一の表情は曇りがちになり悩ましげな表情だった。

「いきなり深刻な顔してどうしたの?」

「ヒトラーだよ」と洋一は言い、「俺らというか、俺って身の丈に合ってるのかなって」と弱気な発言をした。

「バンド?」

 聡はギターをスタンドに立て掛けた。その行動を見届けてから洋一が喋り出した。

「お前とは高校からバンド組んでさ、文化祭でちやほやされて、だから今があるんだよな」と洋一はスタジオの天井を見つめた。

「なんか洋ちゃんらしくないな」

 聡は素直にそう思った。

「ここいらで潮時かなって」と洋一は淀みなく透き通る水のように言い放った。

「それはないよ」

 聡は思わず立ち上がる。

「いや、俺も現実を見ちまってよ。上には上がいるし。ギタースキルもこれ以上は伸びないと思う。前から悩んでたんだ。このままでいいのかな、って」

 洋一は俯いた。全ての苦悩を床に吐き出すかのように。

 スタジオ内は重い沈黙に包まれた。防音設備が施された室内は音もなく本来はあってはならない静寂に包まれた。剥き出しに放置され床に転がっているドラムスティックがバラバラな心を表していた。

「ようやくここまで来たじゃないか。メジャーデビューも手の届くところに来てるって」

 聡の声がスタジオ内に反響した。この間行ったライブより声の調子がよかった。

「まあ、お前はな」

「えっ?」

 聡は身を乗り出した。

「知ってるんだよ。お前がメジャーのレコード会社からオファーが来ているのは」と洋一は目を細め、見開き、様々な感情が入り交じった瞳を聡に向けた。

 聡は何も言えなかった。

 それは一週間前のことだった。家賃四万ワンルームアパートの一室で腹筋をしていた聡は、マナーモードにしていた携帯電話が鳴った。彼は通話ボタンを押した。

「あ、聡君。初めまして。私、ワールドミュージックの湯本と申します。突然のお電話申し訳ございません」

 湯本と名乗る男は快活な声で言った。それにワールドミュージックは中堅どころのメジャーのレコード会社だ。近年、そこから出されるアーティストCDは時代の閉塞感を捉えてか、不況の並をもろともせず爆発的に売れている。

「あ、はじめまして田丸聡です」

 幾分かしどろもどろになりながら聡は言った。

「弊社の名前は知ってるよね?」 

 あたかも既に知ってるのは織り込み済みのような言い方を湯本はした。

 なので聡は、「はい」と返事をした。

「うん。じゃあ。話しは早い。君をメジャーデビューさせようと思うん、だ」

 単刀直入に、あらゆる障害物を払いのゴールに向かうかのように湯本は言った。優秀なビジネスマンにありがちな合理的思考の持ち主だった。

 聡は小さく拳を握りガッツポーズをした。遂に、遂に、夢が叶う。

 しかし彼は湯本の言葉で一点気になることがあった。〝君を〟というのはどういうことだろう、と。

「〝君を〟というのは?」

「そのままだよ。君だけをメジャーデビューさせる。他のメンバーは、こういっちゃ悪いんだけど」と効果的な沈黙を湯本は置き、「プロレベルに達していない」と言い添えた。

「できれば、僕はバンドでデビューしたいんですが」

 聡は正直な気持ちを伝えた。

「いやね、聡君。『氷河期』も来ることだし、そんな悠長なことは言ってられないよ。我々も慈善事業ではないからね。クオリティの高いものを市場に提供していきたいわけだよ。だから、言いたいことは君には価値があるけど他のメンバーにはない」

 と湯本は言い切った。

「今まで一緒にやってきたんですよ」

「洋一君だっけ?聡君と同級生の子。彼のレベルなら世の中にたくさんいるし、さらに上もたくさんいる。それに彼のギターは独りよがりなところがある。グルーヴがないんだ」

 と何回も君たちの曲は聴いたから、と言いたげな湯本の口調だった。

 聡が何も言わないと、「三日後また連絡するから、その時に返事頂戴よ。君の才能を弊社で爆発させよう」

 おそらく何人、いや何十人、何百人に同じ口説き文句を言ってきたのだろう。そこには無機質な声の響きが聡の耳元に届き、電話が切れた。ツーツーと不協和音がこだました。


「知ってたの?」

 聡は訊いた。

「ああ、湯本とかいう男が電話してきたからな。単刀直入に言われたよ。君たちには才能はないが、聡」と洋一は顔を上げ目を見開き、「お前にはあるってな」と抑揚のない口調で言った。

 その言葉を放ち洋一は椅子から立ち上がり、ギターをケースにしまい肩に掛け、「頑張れよ」と言ってスタジオの扉を開け静かに立ち去った。その後姿は寂しげな香が滲んでいた。

 一つの歯車が狂い出すと、止めることは難しい。聡はスタジオ内をぐるぐると歩き回り、窓に近寄った。雨、風、雷はさらに勢いを増していた。一つの友情が終わりを告げ、一つのバンド活動が終わりを告げた。歌うことに対するモチベーションが急速に萎んでいくのを彼は感じた。

 ポケットから太腿に振動が伝わった。

 聡は携帯を取出した。着信表示は、「湯本」となっていた。通話ボタンに押そうとしたが、彼はその親指を止めた。気持ちが急速に萎んでいくのを感じていたからだ。たしかに、歌うのは好きだが、全てが破綻してまで友情を犠牲にしてまでやるべきことなのか、聡の思考は右往左往した。

 後日、聡は湯本からのメジャーデビューの話を断った。その際に、「君は大バカものだ。正真正銘のバカだ」と湯本から罵倒された。そのことに対し否定はしない。というより受け入れることにした。別にプロではなくても歌う場所はたくさんある、聡はそう判断した。

 それからは、ロックとは違うジャンルに挑戦した。ジャズバーで唄い、スナックでは演歌も唄った。ときにはキャバクラでも売れない歌手としてその辺のアイドルの陳腐な曲も唄った。違うジャンルに触れ、今までとは違う人達、価値観に触れ、聡は心の安定、穏やかさを取り戻して行った。

 そんなある日、いつものようにジャズバーで唄うためにリハーサルをしていた。休憩に入り、そこのマスターが雑誌を食い入るように見つめていた。

「マスター、何をそんなに真剣に眺めているんですか?」

 マスターは顔を上げ、五十代とは思えない綺麗な歯を除かせた。そしていつもの癖でよく手入れされた髭をさすった。

「ああ、これだよ。聡君」とマスターが雑誌を聡に見せる。彼は思わず、「あっ!」を声を上げた。そこには記憶の片隅に封印していた、姉の水樹が載っていた。数年前に軽く記事が掲載されているだけだったが、独創性と斬新さ、なにより美貌が人気を博し六ページの特殊が組まれていた。

「田丸水樹って、可愛いし綺麗だね。それに感情が読めないところがいい。そこがまた惹き付ける」と珍しくマスターが褒め、「そういえば、聡君も田丸、だよね?」と傍にあったスコッチを飲みながら言った。

「そうですけど、田丸違いです」

 聡そう言ったが、マスターは彼の顔から視線を外さなかった。そしてニコリと笑い、

「無理はしなくていいんじゃないかい。君の帰りを待ってるよ」

 とだけ言ってカウンターの奥へゆっくりと引っ込んだ。

 はて、マスターは聡と水樹が姉弟ということを知ってるような口ぶりだった。やはり姉弟であるから顔のどこかが似ているのだろうか。それよりも姉の活躍は聡にとって嬉しかった。無表情で感情を決して表には出さないが、芯の強さ、繊細な感受性を〝絵〟で表現する。そんなことを考えていたら家族に会いたい、という気持ちが聡は強くなった。

 外の空気を吸おうと、バーを出た。夏だというのに寒かった。肌寒いを通り越し、ボアジャケットが必要な寒さだった。街にはイヌイットのような風貌の人が多数いた。もしかしたら本当に、『氷河期』は来るかもしれない。歌うことはいつでもできる。そう思った瞬間、彼の決意は固まった。


 家を出て十二年。足立区梅田には全く足を踏み入れなかった。千住方面から歩いて時計屋『レッド』に向かおうと聡は思った。気づいたことは、街には大学が出来、洒落た店が軒を連ねていた。千住の賑わいとは対照的に梅田の商店街は静かだった。聡が子供の頃のような活気はなく、店のシャッターは昼間にも関わらず、ほとんどが閉まっていた。

 聡は、昔の思いでに浸りながら、気づけば時計屋『レッド』の前に来ていた。変わらぬゴシック体で印字された看板。〝レ〟の前の部分に聡が小さくマジックで〝パ〟と書いてあるのが残っていた。

 よく凝視すれば〝パレッド〟と読める。それを見て聡は苦笑した。

 昔、水樹が、「パレット、パレット」と冷淡な口調で連呼していて、それを聡が、「パレッド」と聞こえた為、このようなイタズラを思いついた。我ながらくだらない、と彼は思う。

 聡が看板を見ていたら急に店の扉が開いた。そこには、水樹がいた。彼は逃げようと思った。だが意外にも、「ああ、お帰り」と姉は淡々としたいつもの口調で言った。その言葉に聡はトイレマークの姿勢を崩せずにいた。

 帰るなり早々、水樹とは対照的に母から平手打ちをくらった。

「親不孝もんが。父ちゃん、脳梗塞で・・・・・・・」母が涙を流した。その涙が年月を物語っていた。聡は一歩遅過ぎた自分を呪った。だが、夢を掴む、ということを宣言した手前、なかなか自分の感情には素直になれなかった。家族の元に戻りたい気持ち。意地を張りたい気持ち。交互に織り交ぜになったのは事実だ。

「父ちゃん。最後は静かにあの世にいったよ」

 母はそれだけ言った。

 父の仏壇に線香をあげ、聡は手を合わせた。

 そして、〝やっぱ、駄目だったよ。ごめんなさい〟と心の中で父に語りかけた。

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