YMJKは渦中で踊る

ねくす

第1話 YMJKは静かに眠る

YMJKは静かに眠る(1/3)

 三月下旬、筋雲に覆われた空から漏れる日光が上野駅前のペデストリアンデッキを照らしている。タイル張りの床面は十分な幅と長さで西の山手線高架から東の上野駅前の交差点を覆う歩道橋を連続的につないでいる。各方向に地上へと降りる階段が張り巡らされている構図はさながら町の広場といった様子だが、水の止まった噴水や薄汚れた現代芸術のモニュメントに目を留める人は無く、ただ勝手の良い通行路としての利用されるのが常だった。

 改札口を出た女子高生がペデストリアンデッキで周囲を見回していると風が吹いた。首元の黒髪が耳の高さまで持ち上がり、肌に冷気が触れて抜けていく。彼女は顔をしかめてダッフルコートのボタンを閉めた。ラクダ色のウール生地は腰下まで長さがある。制服のプリーツスカートは灰色に赤線のチェック模様、足は厚手の黒タイツに同色のレッグウォーマーを身に着け、春先に見られる一般人より防寒仕様に傾いている。フードですっぽりと頭を隠すと、スマートフォンで通話中の男に近づいて行った。彼のほうはトレンチコートに上下スーツや鞄にいたるまで喪服のような黒色に身を包んだ格好である。脈絡なく女子高生は言った。

「マフラー忘れた」

 男は通話を切って四角い端末を内ポケットに滑り込ませる。

「そんなに寒くないだろ」

「寒い。買って行っていい?」

「だめだ。時間が無い。すぐ着くから我慢しろ」

 男が歩き、女子高生が後ろに続く。「寒い寒い寒い」と文句を言う。封を開けたばかりのホッカイロが飛んできて、女子高生は思わず猫のようにつかみ取った。すかさず揉んで温める。ペデストリアンデッキを降りる階段の踊り場で、ちらと男が後ろを向いた。女子高生は目を合わせて「で?」と言った。男が答える。

「仕事内容、聞かないでいいのか」

「いいよ別に。だいたい分かってる。だから来たんだし」

 無視して男は話し始めた。義務的で聞かれなくてもかまわないといった口調だった。女子高生はフードのせいで耳に届く音が弱まっていたものの、結局は最後まで男の話を聞いた。

「目的地は上野駅から徒歩5分の距離にある繁華街のホテル。正直言って表向きに堂々と入るのは気が引けるような場所だが仕方がない。ちょうど一週間前に中年男性の変死体が発見された。死因は薬物による中毒死で、あらかた警察がやるような処理はもう済んでいる。我々の仕事は中年男性が変死に至るまでの合理的な説明をすることではなく、その死体が発見された一室や建物に異常がないか見極めることだ。ホテルのマネージャーいわく、死んだ男は一人でやってきて一人で部屋を借り、一人で勝手に死んだらしい。死人しか知らない事情で片付きそうなものを、不安症のマネージャーが念には念を入れて依頼してきたというのが表向きの筋書きだ。まあ、きっと知らなくていい利権が絡んでるんだろう。時に風俗産業は非合理的なことを大切にするもんだ」

 一方通行の細い道路脇には飲食店が並んでいる。ランチタイムの時間帯は過ぎているため人の混雑は無い。刺青を入れた外国人、頭の禿げ上がった老人、髪を染めた若者とすれ違う。二人はオレンジ色に塗られた壁の前に立ち止まった。そこには文字と数字が書かれたプレートが貼り付けてある。ネオン管が「ホテル・オレンジセンチメンタル」の文字を形作っているが、昼間であるため光は無い。「オレメン」女子高生がつぶやく。男が不愉快な顔をする。ひるむ様子も無く会話が続く。

「休憩三千五百円から、宿泊六千円から」

「いちいち読むな」

「高くね?」

「知るか。入るぞ」

 壁は建物の入り口を隠すように立っている。二人は裏側に抜けて自動ドアをくぐった。数メートル四方の空間は薄暗く、くすんだ赤色を基調としている。受付のすりガラスが奥の対応者を隠していて人物の判別は難しい。カウンターに開いた金銭受け渡し用の穴から骨と筋ばかりの手が姿を覗かし、指を組んで客が来るのを静かに待ち受けている。黒スーツの男は名刺を出して言った。「特殊監査官の荒沢アラサワです。連れの名前はヤヒルといいます」その後ろで女子高生はフードの端を引っ張ったまま頭を斜めに傾けている。

荒沢アラサー公務員コームイン

 間延びした声で女子高生は笑った。

ヤヒルはオバケ屋さんだよ」

 鍵の開く音がして、内装と同化した隣の扉から人が出る。鼠色のスーツを着た初老の男は無表情で「久保田です」と言った。髪が異常に白く、手が枯木のように老けていた。「こちらへ」と言って二人をエレベータに案内する。振動と騒音を立てて6階に止まった。割高な自動販売機と葉先の変色したドラセナが一つずつ置かれた廊下を三人が歩いていく。久保田が先導して鍵を開けると、次に荒沢、最後にヤヒルが部屋へと入った。

 赤ワイン色の壁紙にグレーのカーペット、ダブルベッドのシーツは白、透明ガラスで囲われたバスルームは水色のタイル張りという配色の一室だった。シャンデリアを模して縮小した形の照明が暖色の光で調度品を照らしている。韓国製の液晶テレビや冷蔵庫、木目のプリントされたサイドテーブル、白い合皮のソファ、壁の抽象画はピカソ作「泣く女」の印刷、というように荒沢は片手で開いたファイルへ内装の記録を書き残していく。その隣で久保田が両手を揉み、オドオドした声で言った。

「ええ、まあ、とにかく、こういう業界だとまれにあるわけです。お客さんが死んでもうた、と。警察には誠意お話しました。わたしゃ界隈を仕切ってるものに命令されただけです。その手の人にお墨付きもらっとけ、とかなんとか、とりあえず来てもらってとしか言えんくて、んで、あんたたちはいったい」

 荒沢は壁紙のヤニ汚れ指でこすりながら事務的に言った。

「オバケですよ。人が死んだ建物にオバケとか幽霊とか残ってないか監査するんです。ご存知ないかと思いますが、公務員にはそういう役職がありましてね。まあ、信じていただかなくても結構です。俺も死んだ人間なんて見えませんから」

 汚れた指先をハンカチで拭く。「警察の調書によると」荒沢は話を続ける。

「死亡者のA氏は無職四十三歳、証券会社を退職後は株の運用で生計を立てていたものの資金繰りに失敗、薬物の取引に鞍替えしたものの荒稼ぎが悪目立ちして裏社会からも警察からも目をつけられていたようです。早い話、人生終わるまで秒読みだった人間」

「そうだね」とヤヒルが同意する。フードの端を指で引っ張る謎の姿勢は変わらない。

「死因は覚せい剤による中毒。そこのベッドで大の字に倒れて死んでいた。発見者はそこの久保田さん。死体解剖の結果、腹の中から破けたチャック袋が発見された。まれにあるんです。証拠隠滅のために飲み込んだクスリの袋が、なにかの拍子で破れてオーバードーズになる。過剰服薬で致死量超えです。まあ、私たちが知ってるのはこんなところです。ところで久保田さん。あなた前職は工務店で電気工事を担当されていたとか」

 荒沢は壁紙を右から左へ丹念に調べ、最後に抽象画「泣く女」のポスターに目を止める。額縁や四隅を留めるピンも無く、壁に直貼りされている。緑と黄で色付けされた仮面のような目元に黒い二つの瞳が光る。「剥がしていいですか」と荒沢は言った。「目のところレンズですよね」

「警察は気づかんかったよ。いや、気づいて無視したのかもしれんが」

 久保田は深く息を吐いた。目元と口元にシワが寄り、この数分でさらに老けたような顔をした。

「これだから役人は嫌いだ。結局、何がしたいか分からん。お前らもな。逮捕の真似事か、罰金取りか、それとも自己満足か?」

「仕事ですよ。言ったでしょう、オバケだって。カメラの映像をいただけたらいいんですが。あなた、死ぬとこ見たんでしょう。変わったもの写ってなかったですか」

「勘弁してくれ。記録は消したよ。死ぬところは確かに見た。うまくは言えんが……足とか腰とかに引っ付いた何かを払い落とそうとするようにして、手足をバタバタさせながら、部屋中をぐるぐる回って、ベットに倒れて、動かなくなった。馬鹿なことに怖くなってな、すぐ警察に通報してしまったよ。あの部屋は前々から泣き声が聞こえるとか誰もいないのに触られることがあるとか清掃員が言ってたんだ。なあ、あの男が倒れて動かなくなったとき、合鍵を持って六階まで上がったんだ。トントンってさあ、中からドアを叩く音が」

「トントン、トントン」

 女子高生は無表情で魚のように口を動かす。荒沢が「やめろ」と言った。閉じた口元の微笑みが投げかけられる。荒沢は久保田に向き直って言う。

「その怪談みたいな噂はいつから?」

「一ヶ月前くらいか。二月の終わりだな」

「その頃に何かを変わったことは?」

「ない。男と女がやることやってる毎日の繰り返しだ」

 久保田が女子高生に顔を向ける。目を指でこすって二度見した。首を爪で掻きながら首を傾ける。

「ちょっと頭のを取ってくれんか」

 ヤヒルはフードを取った。肩甲骨まで伸びた黒髪がふわりと外に出る。白い顔がニコリと笑った。老人は彼女を指差して荒沢に言った。

「ちょうど一ヶ月前だ。この子供が来た」

 荒沢がヤヒルをにらんだ。

「来たよ」

「誰と?」

「カレシと」

「なにしたんだよ」

「セックス」

「ちがう」

「ちがくないし」

 荒沢は目頭を右手の親指と人差し指でつまんだ。心の底から呆れ返ったときの癖だった。目を閉じ、黙って下を向き、思案している。久保田は他の二人を交互に見ては両手を揉み、何かを言おうと口を開くものの、結局は言葉にならず黙ってしまう。女子高生は黒髪の先端を左手で触り、円を描いたり八の字をなぞったりしながら左右のほっぺたを膨らませて荒沢を見た。「おにいさん、嫉妬?」

「もういい。詳しい話は後で聞く」

 短髪の後頭部を思い切り手で掻いて、荒沢はファイルを手提げ鞄に仕舞い込み、サイドテーブルに置いていたペットボトルの水を飲み干した。黒のコートを羽織ってドアまで大股で四歩、ノブを勢いよく回して外に出る。女子高生が唸りながら背中を追った。久保田が訳も分からない様子で「おい、いったい何なんだ」と声をかけた。男の大声が廊下から響いた。

「監査は終了です。結果は後日、書面にて」

 ヤヒルがくるりと半回転、出たばかりのドアから上半身をのぞかせて部屋を見る。呆然と立ち尽くす老人へ向けて無邪気に笑った。

「もうオバケは出てったよ。バイバーイ」

 彼女が去り際に二回、トントンとドアを叩いた音と六階に止まるエレベーターの騒音が重なった。先に乗り込む荒沢を追いかけて女子高生は走った。後ろ髪とダッフルコートの裾が扉にはさまらないよう手で引き寄せて滑り込む。エレベーターは下に向かった。「家まで送ってよ」女子高生は言った。「いろいろ話すからさ」二人は地下駐車場に降りた。蛍光灯に照らされたコンクリートの柱と壁が足音を反響する。遠くで非常口の看板が緑色に点滅している。荒沢が灰色のセダンに乗り込むと、女子高生は後部座席の対角線側に座った。つや消しされたポリウレタン製の内装を見上げて「いいね」と言った。シートは革張りだった。運転席前の液晶に各種表示が灯り、助手席との間にある十二インチのパネルが起動すると英語の音声が流れる。数秒で上野の地図が現れた。「タクシーじゃないんだけどな」荒沢が後ろに視線を向けた。

「んー、とりあえず千葉の柏まで高速道路コウソクで」

 雑音と振動を最小限に、駐車場を抜けて地上へと出る。通行人を避けながら一方通行の矢印が指す方向へ進み、首都高下の大通りに合流してインターチェンジまで真っ直ぐ向かう。午後の柔らかい光が雑居ビルと高架の隙間をぬって車内に差した。ETCのバーが開き、車線が合流する度に減速と加速を繰り返して車は進んだ。女子高生は背もたれに体重を預けて左の窓から東京を見た。大きく息を吐き、観念したかのように話し始める。

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