第4話
「良かった……。本当に、どうなることかと思ったんだよ」
お兄ちゃんがそう言ったときだった。
かちゃりとドアの開く音がして、だれかが部屋に入ってきた。
「ああ、気がついたのかい?」
「あ、はい。ありがとうございました、ギーナさん」
お兄ちゃんが振り向いて見た先に、あの紫色の髪をしたきれいな外人のお姉さんが立っていた。手には、ペットボトルの水とコップの乗ったお盆を持っている。
その後ろから、お姉さんよりちょっと背の低い、別の女の人も入ってきた。
こっちの人は日本人みたい。こう言うとシツレイだけど、ギーナさんよりはだいぶふつうの感じだった。
「浴衣、きれいになってるわよ。アイロンあてても大丈夫みたいだったから、そっちもついでにやっておいたわ」
「あ、ありがとうございます。ミサキさん!」
お兄ちゃんがびっくりしたように頭を下げる。こっちの女の人は、ミサキさんというらしい。
(え? ゆかたって……ああっ!)
その言葉を聞いて、あたしは急にあせり始めた。
あわてて自分の体を見下ろしたら、あたしはかなり大きめのピンクのパジャマを着せられていた。
(ど……どうしよう)
お気に入りの、黄色いゆかた。あたし、かなり汚しちゃったかも。
ママから「汚さないようにね」って、何回もしつこく言われていたのに。
それでやっと、だんだん思い出してきた。あたし、あの階段から落ちたんだわ。あんまりケガをしてないみたいでラッキーだったけど、ゆかたはきっとめちゃくちゃに汚れちゃったにちがいない。
どうしよう。絶対ママ、激怒するわ。
それに今、いったい何時なんだろう。
帰るのが遅くなったら、パパもママもめちゃくちゃ怒るに決まってる。ユウお兄ちゃんだってしかられちゃう。だって「あんまり遅くならないこと」っていうのが、最初の約束だったんだもん。
あたしはもう、のどの奥がぎゅうっとつまって、おなかが痛くなってきた。きっと、顔だって真っ青になって、ぷるぷるし始めたにちがいない。
ユウお兄ちゃんがそれに気づいて、そっとあたしの手をにぎってくれた。
「大丈夫。心配しないで。パパやママに叱られることはないからね」
「え?」
「体は治ってるみたいだし、すぐに着付けをしてあげるわ。ギーナに送ってもらえばすぐだし。大丈夫よ」
答えたのはミサキさんだった。軽く片目をつぶって、なんだかなぞだらけのことを言う。
あたしはきょとんとするしかなかったけど、なぜかみんなは全部わかったような顔をして、うんうんとうなずき合ってるだけだった。
そこからは、まるで本当のこととは思えなかった。
ミサキさんがささっとあたしにゆかたを着せ直してくれると、ギーナさんはあたしとお兄ちゃんに「ついておいで」と言った。そうして、あたしたちをマンションの屋上につれていった。
そう、ここは一応、マンションだった。
あそこは、ミサキさんが住んでいる部屋なんだって。
ついでに言うと、ミサキさんもあの「アナザー探偵事務所」の人らしい。
屋上に出ると、頭の上にあった月は、さっきとほとんど同じところにあった。月って、時間が進むにつれて動いていくはずだから、たしかにあんまり遅くなってないってことみたい。
ギーナさんは、手にちょっと変わった形の棒を持っている。
あ、あたしそれ、知ってるわ。ウキヨエとかいう、むかーしの絵に出て来たのを見たことあるもん。確か「キセル」とか言うんでしょ?
ギーナさんは指先で、魔法みたいにくるくるっとそれを回して見せた。
「……さてと。キラちゃん、ここでちょっと、あたしとお約束してほしいことがあるんだけどね」
「え?」
「今から見ること、体験すること。ぜーったいにパパやママや、お友達には内緒にすること。もしできないなら、今夜の記憶は消させてもらうしかなくなっちゃうよ」
「ええっ……?」
記憶を消す? この人、なにを言ってるの?
びっくりして手をつないだお兄ちゃんを見上げたら、お兄ちゃんも困ったような顔であたしを見下ろしてきた。でもやっぱり、優しい笑顔。
「心配ないよ。怖いことは何もないんだ。……でも」
きゅっと、お兄ちゃんの手に力がこもる。
「記憶を消されてしまったら、キラちゃんは今夜のこともみんな忘れてしまうかもしれない。今夜の花火大会のことも、全部」
「え……」
胸がずきんとして、あたしはそこに立ちつくした。
やだ。
それは、絶対にイヤ。
あんなにあんなに、楽しみにしていた花火大会。
お兄ちゃんと見たあのきれいなきれいな、夜空の花。
お兄ちゃんの、きれいな横顔。
あのむかつく女子高生たちとかの記憶は消えてもいいけど、それだけは消されたくない。
「できれば僕も、それはいやかなって。僕だって、あのことがあるまでは今夜は楽しかったんだし。それで、ギーナさんにお願いしてたんだよ」
ギーナさんは腕組みをして、キセルでとんとんと自分の肩をたたくようにしている。
「ほんとはさあ。あたしは反対なんだけどねえ? 子供に秘密を守らせるなんて至難の業だ。最初っから記憶なんて、消すの一択しかないもんなのさ。でも、今回は他ならぬユウちゃんの頼みだからね」
「や、……やくそくする!」
あたしはあわてて叫んでいた。
「ぜったいぜったい、言わない! 何があっても言わないわ。だから記憶は……消さないで」
ぜったい、やだ。
ちょっと想像しただけで、つうんと鼻の奥が痛くなる。
「おねがい……」
お兄ちゃんの手をぎゅうっと握って、もう片方の手を握りこぶしにした。
ギーナさんはちょっとの間、そんなあたしを見つめてた。
そして、にこりと笑った。
「……わかったよ。確かに約束、したからね?」
そうして、キセルでひょいと空中に円をえがくみたいにした。
「え? きゃああっ!?」
足がいきなり床から離れて、あたしは悲鳴をあげた。
ふわっと体が浮いて、じたばたする。すぐにお兄ちゃんにしがみついた。
「大丈夫。心配しないで」
お兄ちゃんの手が、しっかりとあたしを抱き寄せてくれる。見れば、そのお兄ちゃんもギーナさんも、いっしょに宙に浮いていた。
「さて。行くよ」
「え? どこへ……ひゃあああああっ!?」
次の瞬間。
あたしたち三人は、街の光を足もとに見て、びゅーんと夜空に飛び上がっていた。
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