第三章 花火大会

第1話


 あたしは、めちゃくちゃがんばった。

 それでお兄ちゃんとの約束どおり、中学入試用の問題集の中にある模擬テストの問題で九十点以上をとった。

 もちろん、国語も、算数もよ。

 どう? やっぱりあたし、ちゃんとやればすごいんだから。


「ほんとにすごいよ、キラちゃん。やっぱり、もともと頭がいいんだろうね。これは中入試、ほんとに夢じゃなさそうだなあ」


 ユウお兄ちゃんも手ばなしでよろこんで、ほめてくれた。パパやママにも報告してくれて、二人もとっても喜んだ。

 でも、あたしはそんなのどうでもよかった。

 別に、中学入試が目的じゃないもんね。

 帰りぎわ、バッグに問題集を片付けているお兄ちゃんに、あたしはこそっと確認した。


「……ね。じゃあ、花火大会──」

「うん。もちろん、忘れてないよ」


 ユウお兄ちゃんがにっこり笑う。

 もうそれだけで、あたしはぱあっと空まで舞い上がってしまいそうな気持ちになる。


「ほんとっ? ほんとにあたしと行ってくれる? ほんとのほんとに、ふたりっきりで?」

「ああ。約束だからね」

 言って、お兄ちゃんは片方の小指をそうっと立ててあたしに見せてくれる。

「もう、お父さんとお母さんにもお話ししてあるよ。あんまり遅くならなければ大丈夫だって」

「やったあ!」


 それからのあたしは、ずうっと床から五センチぐらい浮かんですごした。ほんとうにそんな感じだったの。一日じゅうふわふわ、ふわふわしてて、とうとうママにまで笑われちゃった。

「綺羅ったら。もう心、ここにあらずね」って。「地に足がついてないわね」とも言ってたわ。いいわよ、ほんとのことだから!

 でも、なんとなく嬉しそうに「あの浴衣、まだ着られるかしら」って押し入れの中をごそごそ探してくれていた。

 ママ、感謝! ありがとう!





 そして、花火大会の当日。

 少し早い時間から、あたしとユウお兄ちゃんは街の南側にある港のほうへ出かけた。

 あたしの黄色くて色んな花柄の入った浴衣を見て、お兄ちゃんはにっこりした。

「わあ、可愛いね。黄色、よく似合ってる」って。


 そうなの。

 あたし、自分で言うのもなんだけど、黄色が一番似合うなって思うの。好きな色だし、ペンケースとかノートとかもその色があると気分がアガる。

 ママにむすんでもらった髪には、うすいピンクの髪かざり。

 でも、このだけはちょっと歩きにくい。のところが痛くならないように、前もってママがばんそうこうをはってくれている。前にそこが痛くなって、歩けなくなったことがあるのよね。


「ユウお兄ちゃ……きゃっ!」


 マンションを出たところで、あたしはちょっとつまずいた。

 お兄ちゃんが、さっと手を出してくれる。あたしの軽い体なんて、お兄ちゃんの手はあっさりと受け止めてくれた。


「大丈夫? 気を付けてね、キラちゃん」


 そのまま手を握ってくれる。

 ママが玄関先で見送ってくれた。


「じゃあ、今日はよろしくお願いします。何かあったら連絡してね、ユウ君」

「はい。では、行ってきます」


 それからずっと手をつないだまま、あたしたちは港のほうへ向かった。

 花火大会の会場に近づくにつれて、だんだんと人が増えていく。まだ十分明るいけれど、もうだいぶ太陽はしずみかかっている時間だった。

 会場は、毎年すごい人ごみになる。あたしたちはそれが分かっているから、わざわざ会場までは行かないで、ちょっと離れたとっておきの場所からいつも見ている。

 お兄ちゃんもそうするつもりらしくて、途中からなんとなく、みんながぞろぞろと歩いて行く方向から道をはずれた。

 近くの自動販売機で飲み物を買って階段をのぼり、ちょっとした丘みたいになっている公園に入る。ふたりでそこの大きなすべり台の上にのぼって、やっとひと息ついた。


 ここは、地元の人しか知らない「アナバ」とか言う場所だ。

 しばらくそこにいると、近くに住んでいるらしいおじいちゃん、おばあちゃんや、小さな赤ちゃんを抱いた人なんかが次々にやってくる。

 つまり、会場で長い時間をすごすことがちょっとむずかしい人たち、っていうことみたい。会場ではたくさんの屋台なんかが出て、金魚すくいだとかヨーヨーつりだとか、面白いお店もいろいろあるけど。

 でも、別にそんなのどうでもいい。

 あんなの基本、子どもっぽいし。

 あたしは、ユウお兄ちゃんとふたりでいられればそれでいいもん。

 それに、ああいう所に行くと、どうせまたこのユウお兄ちゃんのすてきな姿にひかれて、いろんな女の人が声をかけてくるから。そうなっちゃったらあたし、イヤだし。これまでにもそういうこと、いっぱいあったから。


 ユウお兄ちゃんに買ってもらったオレンジ味のサイダーを飲みながら、あたしは西のほうの空がサイダーの缶と同じ色になるのをじっと見ていた。

 頭のちょうど真上のあたりで、ひと口かじったあとのビスケットみたいなお月様が、だんだんはっきりと見えはじめる。夕方の空が、うすくむらさきがかった青からふかい紺色へと変わっていく。つまり、花火にぴったりの背景に。

 どんどん色を変えていく夕日の光をうけて、ユウお兄ちゃんの横顔がいつもよりずっときれいに見えた。


(……ああ。あたし、忘れない)


 ユウお兄ちゃんの、この顔を忘れない。

 これから先、ずっとずっと大人になっても。

 あそこにいるみたいな、おばあちゃんになっても。

 この人と今日、ここへ来たことは忘れない。

 ぜったいに、ぜったいに。


 そんなことをぼんやり思って、じいっとお兄ちゃんの顔を見つめていたら、どん、ぱぱんと空全体をふるわすように、大きな音が聞こえはじめた。


「始まったね」


 大きな手であたしの体を軽くささえてくれながら、ユウお兄ちゃんが言った。その声も少し、はずんでる。


 と、海のほうの空の上で、ぱっと大きな花が咲いた。

 空いっぱいに光の花びらがまきちらされる。

 それはあたしたちの目の中にいっしょにうつり、いっしょにふたりの顔を照らした。

 


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