第5話


 そして。

 ユウお兄ちゃんは夏休みの間だけ、あたしの家庭教師をしてくれることになった。


「三年生だと、まだ本当に基礎がための時期だよね。教科書にのってる計算とか漢字とか、きちんとできるようになることがまず大事だよ。でも、学校が進むとおりにやっていたら、受験にはとても間に合わなくなる。四年生や五年生の勉強も、先取りしてやっていかないとなあ……」


 お兄ちゃんがあたしの部屋で、新しく買ってきた中学入試用の問題集とにらめっこしている。


(やった。やったわ……!)


 あたしはふわふわと、天にものぼる気持ちだった。勉強はべつに、そんなに好きでもないけど。あ、一応言っとくけど、そんなにひどい成績じゃないわよ? ちょっとがんばれば、本当に近くの私立中学に入れるかもしれないし。

 実はあそこ、公立のより制服がずーっとかわいいのよね。高校生が着てるみたいなブレザーで、チェックのスカートに大きめのリボンタイ。公立の中学校みたいなダサい白スニーカーじゃなくって、ちゃんとした革のローファーだし。ほんとはちょっとあこがれてた。


「『つるかめ算』に『旅人算』、『時計算』に『仕事算』か。どれも、すぐにやるには難しそうだね」

 問題集をぱらぱらと見ながら、ユウお兄ちゃんがむずかしい顔をしている。

「キラちゃんは、まだ方程式なんて使えないし。エックスを使っちゃダメってことはないみたいだけど、まずは使わないで解けるようになったほうがいいんだろうし……」


 ユウお兄ちゃんは、あたしの勉強机のとなりに持ってきたリビングの椅子に座っている。

 いつもはあんまり見ない、きりっとしたまじめな横顔。

 ああ、やっぱりかっこいいわ。

 ぽわぽわした気分でそんなことを考えていたら、ばちっとお兄ちゃんと目が合った。


「……ちょっと、キラちゃん? 僕は勉強を教えるために来てるんだからね。そんなにぼーっとしてちゃダメだよ」

「え? ぼ、ぼーっとなんてしてないもん……」


 あたしはさも目の前のドリルの問題を考えていたような顔をして、そそくさと鉛筆をにぎり直す。

 窓の外では、もうやかましいぐらい、蝉がジャンジャン鳴いている。でも、部屋の中はとてもしずかだ。パパとママは仕事に行ってて、今日もおばあちゃんが来てくれている。

 もちろん、勉強中はおばあちゃんはリビングだ。


(ああ、うれしい~!)


 あたしの作戦、大成功。

 こうやって家庭教師をしてもらえば、一週間に何回かはまちがいなくユウお兄ちゃんとふたりっきりになれるもの。これをお願いしなかったら、ぜったいこうはなってなかったもんね。


「ね、ね、お兄ちゃん」

「なに?」

「夏休み、どっかいく予定はあるの? ほら、大学の人とか。旅行とか」

「ああ」

 お兄ちゃんはちょっと苦笑した。

「本当は、サークルの友達にあっちこっちに誘われてたんだけどね。しょうがないからひとつふたつは付き合うけど、大体は断ったよ。全部つきあってたら、夏休みがまったくなくなっちゃうし、バイトのほうも忙しいし。それに──」

 少し言葉につまったお兄ちゃんの顔を、あたしはのぞきこむみたいにした。

「それに?」

「うん……。あんまり、ああいうにぎやかなのは得意じゃなくって」

「……そうなんだ」


 やったわ。

 つまり、これでユウお兄ちゃんに近づいてくる女の人たちをうまく撃退できたってことみたい。だってああいう女の人たちって、にぎやかなのに乗っかって、最初は友達みたいな顔をして、なんとなく近づいてくるもんね。

 え? もちろん、わかるわよ。そういうとこは、小学生の女子だって大して違わないもん。

 ターゲットにしてる男の子の視界の中にいつもいるようにして、やさしくてかわいい女の子を演じるの。中にはもちろん、本当にかわいくてやさしい子だっているけど、大体はそうじゃない。

 だって、つまりそういう子って、えものを狙ってる肉食動物と同じだもん。


 男の子の前に出ると、急に体をクネクネさせて声なんか高くなっちゃって。料理が得意な子は、さりげなくそれをアピール。クッキーなんか焼いてきて、「あまっちゃったから良かったら」なんて言いながら、じつは本命の男子にわたしてみたり。

 いつもかわいい服を着てて、わざと男の子の目の前で失敗して見せて、ドジっ子を演出してみたりして。

 「あ、この子のこと好きなんだ」って、たいていの女子にはすぐにわかっちゃう。そんなの常識。

 まあ、あんまり男の子の前でだけかわいいふりをする子は、大体女の子からは嫌われるけどね。下手をすると、いじめられちゃうことだってある。

 でも、それを「関係ないわ」って無視できる子って、ちょっとえらいなって思っちゃう。好きではないけど、すごく強いなって。

 どうも、あたしはうまくできないし。


「ねえねえ、お兄ちゃん。じゃあ、あたしと花火大会行かない? 港のほうで、八月の最初のころにあるやつ」

「ああ、花火大会……」

 いいね、あれは毎年きれいだしと言って、ユウお兄ちゃんはにっこり笑った。

「でもキラちゃん。遊んでばかりじゃ、僕がここへ来た意味が──」

「わかってる! わかってるから! あたし、すっごくすっごくがんばるから! それで、ちゃんとがんばったって証明できたらでいいの!」


 だから約束して、と言って、あたしは立てた小指をお兄ちゃんに突き出した。

 「ゆびきりげんまん」は、おばあちゃんから教えてもらった必殺技。


「すっごくすっごくがんばったら。ユウお兄ちゃんと花火大会、行きたい。……ふ、ふっふふ……」


 のどがつまったみたいになって、最後のところだけはどうしても、すらっとは言えなかった。

 ああ、あたし。こんな大事なところでかみまくり!

 もう、めちゃくちゃカッコ悪い。


 やっと聞こえるような声で「ふたりっきりで」と言っちゃったら、胸から上が全部、燃えるみたいに熱くなった。

 あわててドリルの問題を見つめて、計算のつづきを考えてるフリをする。

 お兄ちゃんは、しばらくだまってあたしの横顔を見てたみたいだった。

 でも。


「……わかった。約束ね」


 そう言って、あたしのつき出したままだった小指に、長い小指がからまった。


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