旅立ち-1

 まだ日も昇らない暁の空は、うっすら東側が白んで幻想的に透き通っている。


 世界は昨日までと絶望的に変わってしまったのに、自室の窓からそれを見上げていると、それでもこの世界は美しい、と思えてしまう。


 時刻は午前4時43分。さすがに母も、泣き疲れて浅い眠りについている頃だろう。


 一晩悩み明かして、俺は旅に出る決断をした。といっても決断は最初からついていたから、この時間まで没頭していたのは、仇を殺す算段をつけることだ。


 俺が新たに得た力のほとんどは、まだ俺に全く馴染んでいない。だから俺は一晩中、全プレイヤーが集う大規模チャットルーム、《ワールドチャット》、通称“ワルチャ”で、可能な限り情報を集めた。


 あの蒼い炎については何もヒットしなかったが、旅に役立ちそうな機能やアイテム、フィールドの情報は、いくつか集まった。


 特に眉唾まゆつばだったのは、この世界の全容だ。ワールドマップは開けるものの、自分が行ったことのない地域には灰色の“霧”のようなものがかかっているので、俺一人ではこの世界がどれほど広く、どこに何があるのか、全く分からない現状があった。


 この世界の住人に選ばれた約十万人の人類は、《五大都市》と呼ばれる町に五等分されて生活しているのだが、それぞれの町で暮らすプレイヤーが、マップのスクリーンショットをワルチャに投稿していたのだ。


 それらを合成して、一つのワールドマップを造っていた酔狂な人間が既にいた。その画像データを保存させてもらえたことで、分かったことがいくつかある。


 この世界は、巨大な一続きの大陸であること。五大都市は、中心に《タイロン》という町があり、あとはそれぞれ、正確な十字を描くように、北端、東端、西端、南端に位置していること。


 そして、俺の住むセントタウンは、マップの南端に位置する町であるということ。


 俺は当面の目的地を、西端の五大都市《デザーティア》に決めた。奴らに関する情報は、ハナミヅキという名前以外なにもない。まずはなるべく大きな町で、たとえ些細な目撃情報だけでも、集めなければ始まらない。ぐるりと時計回りに五大都市を巡る計画だ。


 西から回ることに決めたのは、町の名前に『甘味デザート』と『ティア』が入っているので、美しいリゾート地に違いない、それなら旅路もそう過酷な設定にはなっていないはずだし、ザガンも多く集まっている可能性があると踏んだからだ。


 俺はセントタウンから北に5キロほどまでの地点しかマップを解放していない。ワールドマップを開いて、霧のかかっていない部分の縮尺から概算するに、マップ全体の総面積は――


 実に、八万平方キロメートル。北海道全域に迫る、途方もない広大さだ。


 デザーティアまでの道のりはおよそ250キロあるが、休み休み走れば、そう絶望的な距離でもないだろう。


 日頃どちらかと言えばネガティブな俺だが、今回に限っては楽観的だった。いくつかの仕様が致命的に書き換えられたとはいえ、この世界は未だ、「ゲーム」の要素を多分に残している。


 旅と言うから過酷そうに聞こえるだけで、これからゲームの攻略を始めるのだと思えば、やってやれないことはない。


 俺は足を忍ばせて自室から出た。一度くらいは部屋を訪ねてくるかと思った母の気配は全くなく、やはり眠っているものと思われる。


 二階から、階段を降りて一階へ。あれほどの喧嘩の後とはいえ、母に一声もかけず出ていくのはしのばれたが、かといって、かける言葉も思いつかなかった。


「……ん?」


 玄関へ向かうためリビングを突っ切ろうとしたとき、俺は居間の机に大きな影を見つけて、はたと足を止めた。


 大きなダイニングテーブルの面積いっぱいに、大量のおにぎりが積まれているのだった。アルミホイルに包まれたその数、実に百は下らない。


「なんだ、これ」


 間違いなく母の仕業である。弁当のつもりなのか。あんなに拒絶していたのに?


 俺は真意を測りかねた。少なくとも、俺の旅を応援してくれるつもりになったわけじゃないのは確かだ。それなら姿を見せるはず。逆説的な嫌がらせのつもりだろうか。


「……もらってくよ」


 確かなことは、母は眠ってなどいないということだ。顔を合わせるつもりはないようだが、出ていくのを黙って見過ごすこともできなかったらしい。母さんらしい、と思った。


 不意に、ちらとだけ、母の顔を見ておきたくなったけれど、今顔を合わせても憎まれ口の応酬になることは目に見えていた。俺にも意地がある。次会うのは、母が自分の間違いを悔い改め、俺を見直すような成果を、この旅で上げてからだ。


 おにぎりの全てに一つずつ触れ、アイテムストレージに格納していく。ポン、ポン、と軽やかな音とともにおにぎりが消え、次第に山が崩れていくと、中から熱々のフタつき鍋が姿を現した。大量のおにぎりの下に隠していたらしい。


 赤いシチュー鍋。この世界にきた翌日に、町の日用品店で母が嬉しげに購入してきたものだ。何度か家族三人で囲んだ記憶が、鮮明に蘇る。


 鍋からはまだ、中身がグツグツ煮立つような音がしていた。火を入れて間もない……俺が出てくる気配を感じて、あわててどこかへ隠れたのが目に浮かぶ。


 中身も気になったが、俺はあまり考えないようにして、触れる場所を慎重に選びながら鍋も収納した。やがて、机はキレイに片付いた……かに見えた。


 よく見ると、まだ一つ、小さなモノが机に残っていた。金色の、豆、のような物体だ。なんだろう。まさかデザートのつもりだろうか。


 一応それもストレージに納め、今度こそキレイになった机を見下ろして、俺は誰にともなく「行ってきます」と呟いた。


 玄関から外に出て、肌寒い明け方の町を二十歩ほど歩き、ふと一度だけ振り返ってみたが、窓から母が見ているなんてことはなかった。


 これでいい、と言い聞かせ、顔の向きを元に戻す。ふと吹き荒んだ突風が、俺の体温をごっそり奪っていった。この世界の暦は地球と連動していて、今は11月。セントタウンは温暖湿潤気候の設定なので、ちょうど日本のように四季がある。


「……もうすぐ冬か」


 俺はメニュー画面を開き、目当ての装備アイテムを探して物質化した。


 《夜空のコート》。


 風になびく黒いロングコートが、袖を通した着用状態で光と共に現れ、途端に体が暖かくなる。


 昨日までシュンが着ていたものだが、防具としての性能はもちろん、耐寒スキル・隠密ハイディングスキルつきと高性能だったので、使わせてもらうことにした。


 本当はゲイルが所持していたらしい防具の方が軒並み性能は高かったが、どうしても身につける気になれなかった。道中で売って、路銀ろぎんの足しにしようと思っている。


 朝露に濡れた石畳の上を、いつぞやのイベントクエスト報酬、《クロビットシューズ》が踏みしめる。今はどうも走る気分にはならなかった。当分帰ることのない、第二の故郷とも言えるこの町を、門までゆっくり歩いて向かう。


 目抜通りの露店は、この時間では一つも開いていなかった。馴染みのサンドイッチ屋が普段やっているあたりで一度足が止まる。初めてこの世界にログインしたとき、シュンがここのサンドイッチを買って、二人で食べたっけ。

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