第18話「登記却下」

 6月7日(水)に大きな動きがあった。

 司法書士の荒井が、慌ただしく井澤のオフィスに訪問してきた。まだ夏にもなっていないのに汗だくだ。顔を拭うハンカチはタオルタイプのものだった。ラルフローレンのマークが入っている。色はピンクと紫の組み合わせだ。荒井は全くファッションを気にしないタイプのため、このハンカチは誰かからの貰い物かもしれない。そんな関係ないことを考え始めた頃、一息ついた荒井が話し始めた。

「井澤さん、法務局の担当登記官から連絡がありました。すぐにご報告したかったのでお伺いしました。電話ではお伝えしづらかったので申し訳ないです。」

「荒井先生、いったいどうなさったんですか。」

「端的に申し上げますと、法務局から当方へ所有権移転登記を取り下げるようにとの示唆がありました。」

「それはどういう意味です?」

 井澤はすぐには理解が出来ず聞き返した。

「井澤さん。法務局は、真正の権利者からの登記申請ではないと判断したということです。もっと簡単に言えば、所有者ではない人から満水ハウスが海猫館を買おうとしているということを法務局の担当官が認定したというです。」

「ええと、ということは・・・・」

「そうです。今回の海猫館の購入は詐欺だったということになります。」

「これは先生のお考えが含まれているお話ですか。まだ詐欺にあったという可能性に過ぎないのでしょうか。それとも騙された事実は確定なのでしょうか。」

「まだ登記の却下がなされておらず、登記官から申請取り下げにかかる示唆があっただけですので、詐欺だったと確定した訳ではありません。しかしながら詐欺であった可能性が極めて高いと私は思います。」

「どうすれば良いのでしょうか。」

「ある意味では簡単です。売主を見つけるしかありません。警察への連絡も必要となるでしょう。」

「登記官が示唆してきているという所有権移転登記の申請取り下げは行うべきなのでしょうか。」

「こちらは無視してもかまいません。後から登記の却下がなされるだけですから。」

 登記の却下とは、法務局の登記官が登記の申請を認めないことをいう。

 登記官は、申請内容を不動産登記法25条各号に照らし審査を行い精査した結果、一定の不備があれば補正をすることを命じる。しかし、申請人が不備の補正をしない場合や、補正をすることができないほどの不備がある場合は、登記官はその申請を却下しなければならない。

 今回は、満水ハウス側に不備の補正が命じられることもなかったことから、補正することができないほどの不備があったということだった。すなわち、売主である所有者が本人ではなかった訳だから不備の補正は不可能ということだ。

 井澤に対して司法書士からは、すぐに売主側とコンタクトを取るべきとの連絡があった。言われるまでもない。井澤は大山に連絡をした。しかし、携帯電話に連絡をしても全く反応がない。また、所有者の篠原に連絡をしても電話に出ない。仲介者のSYODAホールディングスの生田社長も所有者側には連絡がつかなかった。

 井澤は、常務の真中や法務部の担当者に相談をしたものの、実際問題としては打つ手はなかった。

 ただ、時間だけが過ぎていった。


 6月9日(金)にはついに登記官が登記の却下を行ったことを通知してきた。

 登記官が登記申請を却下した場合、不動産登記法156条に基づく審査請求が考えられる。審査請求の裁決に不服があれば行政事件訴訟法に基づく抗告訴訟の提起も可能だ。

本件のような登記官の処分に対しては、審査請求前置主義(先に審査請求を行う必要がある)が採られているわけでは無い。したがって、登記申請人側は、審査請求を経ることなく、最初から行政事件訴訟(抗告訴訟)を提起することも可能だ。

 しかし、審査請求にしろ、抗告訴訟にしろ、勝てることは極めてまれだ。登記官が登記申請を却下したのだ。何らかの説得力のある証拠があると考えて良い。普通に考えると、所有権移転の仮登記がなされた後に、『真の』所有者が気付き、法務局に不正登記防止申出を提出したと考えるのが自然だろう。

「結局、答えは一つということだな。」

「はい。想定されることはただ一つです。我々は詐欺にあったということが本日確定しました。」

 井澤は手短に真中に答えた。

(続く)

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