第17話「物件引渡」

 物件の引き渡しは6月4日の日曜日だ。通常は平日に売買物件の引き渡し、売買代金の支払を行うものだが、今回は休日となった。

 売主側の希望だ。銀行での振込と着金が確認出来ないから、通常は休日には物件の引き渡し、資金決済をしないのが業界の一般常識だ。

 しかし、売主が満水ハウスを信頼しているから問題ないとしていた。そのため、満水ハウスは小切手を用意していた。

 物件の譲渡のため、売主側から所有権移転にかかる登記申請書類が満水ハウス側に引き渡された。売買契約自体は一旦、SYODAホールディングに譲渡され、その後、SYODAホールディングスから満水ハウスに譲渡されることになっている。しかし、登記費用の削減の観点から登記は中間を省略し、篠原氏から直接に満水ハウスに所有権移転がなされた旨の登記申請書類となっていた。

 満水ハウス側の司法書士がごつごつした手で登記申請書類をうやうやしく受け取り、内容を確認した。

 全て揃っているようだ。井澤に軽くうなずいた。

 井澤から、手付金を除いた金額の小切手を財務担当の大山に渡した。

 何気ないように装っていたが、井澤も緊張していた。通常は振込が多いため、今回のように小切手で渡すことは珍しくなった。

 小切手には盗難リスクもあるため、この場に持ってくるのは緊張するものだ。実際には線引小切手であるため、盗難・紛失した際でも資金が第三者の手に渡ることはまれだ。

 今回、満水ハウスでは特定線引小切手を用意していた。線引小切手とは、小切手の表面に平行線を引いたものだ。平行線の間に『銀行渡り』『銀行』『Bank』などの文字が入ることが一般的だろう。この2本線が入っていない小切手の場合、それを持っている人(持参人)が支払銀行(小切手に支払地として記入されている銀行)に持って行けば、法律上は誰であっても小切手金額が支払われることになるので、小切手を拾った人や盗んだ者に不正に利用される恐れがある。

 ところが、小切手にこの2本線が入っていると、支払銀行(A)は自分の銀行と直接取引のある人、または(所持人から取立を依頼された)銀行(B)にしか小切手金額を支払ってはいけないことになっている。したがって、線引小切手を受取った人が、支払銀行と取引がない場合には、預金取引(当座預金でも普通預金でもよい)をしている銀行(B)に小切手の取立を依頼する。こうすれば、その小切手は、AからB、Bから所持人に支払われるので、誰に支払われたのかがわかり、その結果、不正な行為を防ぐのに役立つ。

そして、小切手の平行線の中に特定の銀行名を記入したものを『特定線引小切手』という。特定線引小切手の場合、支払銀行は原則としてそこに書かれた銀行にしかお金の支払ができなくなるため、支払先がさらに限定されることになる。

 つまり、小切手を受取ったら、すぐに平行線を引き、その中に自分の預金のある銀行名を支店名も含めて記入するのが、一番安全ということになる。実務上も、安全性の観点から、この特定線引小切手が多く用いられている。

 いくら特定線引小切手が安全だとはいえ、それでも金額の重みは、振込での決済の時とは異なる。大山に渡す手が若干震えているような気がした。

 井澤の胸中とは関係なく、物件の引渡しは滞りなく済んだ。わずか15分だ。

 大山が立ち上がる。

「この度は大変良いお取り引きをさせて頂きました。次は、御社の賃貸物件を購入する際に、またお会いしましょう。これからも篠原さんの良きパートナーとして、御社には期待しております。」

「いえ。こちらこそ良いお取り引きをさせて頂きました。これからもお引き立てをお願いします。」

 そう言って井澤は頭を下げた。真ん中から分けている井澤の髪の毛の量は多く、緩やかにうねっている。若い頃から髪型はあまり変わらない。ただし、ハウスメーカーの仕事は目標に対するプレッシャーは厳しい。30歳を超える頃から、みるみる白髪が増えた。

 井澤が物件の引渡し時に、しっかりと頭を下げるのは珍しい。自分でも知らず知らずのうちに、深々と頭を下げていた。

 それだけ自分にとっては重要な取引だったのだろう。自分の無意識の行動によって、自身の本心に気づかされた。

 あっさりしたものだったが、こうして物件の引渡しは終了した。

(続く)

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