第14話「予兆」

 5月の中旬に入ると、問題が起き始めた。

 篠原氏の名前で内容証明が本社に送られて来たのだ。内容証明には、満水ハウスが契約した篠原は本人ではなく、売買契約は無効だとの記載がなされていた。末尾には男性の名前も書かれている。息子のようだった。

 本社法務部からの問い合わせを受けた井澤は、生田や大山に問い合わせた。両者とも笑って「問題ない」と言う。

「それは、別の業者の嫌がらせですよ。Yさんじゃないですか。」そんな風に生田が言う。

「篠原さんに確認したら、心当たりは無いって言っていましたよ。ただ、関係が良くない上の息子さんかもしれませんね。どこかの業者と組んでいるかもしれません。いずれにしろ、気にしなくて良いですよ。100%間違いなく篠原さんが所有者ですから。例え息子さんでも取引の邪魔は出来ませんよ。」大山も明るい声で言う。

 パスポートも確認した。印鑑登録証明の提出も受けた。

 書類上は何の問題もない。

 しかし、井澤は真中に指示されながらも実施していないことがあった。篠原が本人で間違いないかを親戚や近所の住人に確認することだ。これだけ大掛かりな取引であれば詐欺である可能性も念のために考えておかねばならない。しかし、篠原の親戚はほとんど付き合いがなく、大山からは息子とも疎遠になっていると聞いた。よって、篠原が本人かを確認するのは旅館を営んでいた時の従業員を探し当てるか、篠原の近所の住人を見つけることぐらいだった。これにはかなりの費用と時間がかかりそうだった。時間も金もない。もう契約はしてしまった。あとは残りの代金を支払って土地の引き渡しを受けるだけなのだ。

 それでも井澤は楽観的だった。何と言っても、仮登記はきちんと受理されているのだ。何ら取引に問題はないはずだ。99.9%問題はない。息子が何か主張してきても無駄だ。

 とにかく時間がないのだ。自分には他にやらねばならないことは山ほどある。可能性の低いことに時間を使う訳にはいかない。

 井澤は自らを納得させた。

 常務の真中には、息子からの内容証明を受け取ったことについて軽いタッチで報告しよう。タバコ部屋で会った時が良いだろう。そう考えた。


 しかし、問題はこれだけでは終わらなかった。

 内容証明は本社に計4回届いた。

『満水ハウスと売買契約を締結した自称篠原は、真正な所有者である篠原とは別人である。所有者篠原は満水ハウスと売買契約を締結したとは認められない。』いずれの文書も、このような記載がなされている。

 内容証明は『いつ、いかなる内容の文書を誰から誰あてに差し出されたかということを、差出人が作成した謄本によって郵便局が証明する』制度だ。内容証明が届くと驚く人は多いかもしれない。しかし、間違えてはいけないのは、内容証明が証明するのは、内容文書の存在であり、文書の内容が真実であるか否かを証明するものではないという点だ。

 井澤は法務部と協議したが、やはり怪文書の類であり、他社の嫌がらせだという認識を持った。

 何といっても、自分たちは実際に所有者に会っているとの自信があった。そして所有権の移転に関する仮登記まで設定できているのだ。満水ハウス側には何ら落ち度はない。

 そうだ。他社を出し抜いて、都心の一等地を手に入れるまであと一歩だ。そして、同期入社組の実績でも一歩抜け出すのだ。そうすれば、将来は役員も夢じゃないだろう。

(続く)

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