第11話「やるしかない」

 常務である真中の指示により、井澤の所属する東京マンション事業部は、五反田の海猫館への取得にすさまじい勢いで動いた。

 真中からの平野社長宛の一報に始まり、土地の正式な物件調査、所有者および仲介者のコンプライアンスデータベースとの照合と続く。

 満水ハウスでは100億円未満の物件取得は社長の決裁権限の範囲内だ。流れとしては、東京マンション事業部から稟議を上げ、マンション事業を統括するマンション事業本部を経て、案件審査部署である不動産部および法務部に回付され、その後担当役員を回って社長が意思決定するのだ。

 100億円超だと取締役会の決議が必要だったが、100億円未満であるためスピーディーな対応が可能だ。

 井澤もすぐに部下に稟議の下書きをさせ、自分で修正を加えて真中宛に提出してきた。

「真中常務。大変申し訳ないのですが、スピードが重要です。いつもの通り、平野社長の決裁を先に取りに行きましょう。その前に、社長には現地物件を見ていただかなければなりません。社長の現地確認の時間も調整します。平野社長宛の了解を取ってください。」

「井澤な、そう簡単に社長決裁を取りに行くとか言うなよ。間を全部飛ばして社長決裁をもらうって、そんなに簡単じゃないんだぞ。ちょっとでも持って行き方を失敗すると、否認されて終わりだ。それに平野さんは慎重な人だって知っているだろう。」

「ですから、真中常務にお願いしているのです。平野社長の信頼が厚いじゃないですか。社長決裁を多用しているのはうちの事業本部ぐらいなのは分かっています。しかし、売主はうちの事情なんてお構い無しです。相手は待ってくれないんですよ。」井澤は少々イライラした声で反論した。自分でも余裕が無いという自覚はあった。

「いつになく言葉が多いな。必死なのは分かった。本当に大丈夫なんだろうな。これでこの物件に何らかの問題があったら、洒落にならんぞ。」

「調査は全て終わっています。念のために所有者の本人確認はパスポートで行いました。法的な問題はありません。仲介業者として取引に関与する生田社長のSYODAホールディングスは、代議士と親しく、若干怪しい取引も手掛けてきたようですが、今回のように競合他社を排除して物件を手に入れるためには、少々のことは目をつぶらないとなりません。そもそも本件はハジメさんからの紹介案件ですしね。」

「そうだな。奥平会長の東京でのお住まいの近隣で出た大型物件を手に入れられなかったら、私らの首が飛ぶかもしれん。平野さんにはすでに連絡を入れてある。平野さんからは前向きな反応と共に、秘書と現地物件調査の日程を調整してくれと言われている。そのためにも、この稟議書を持って今から本社に向かってくれ。そこで秘書と平野さんの東京出張の調整までしてくるんだ。」

「分かりました。気合い入りますね。」

「俺には心配事しかないよ。ハジメ案件というのも気にくわないし、代議士の影もちらつくし、色んなところからキックバックを要求されるんだろうな。」

「この業界、そんなもんです。宜しくお願いします。」

 真中はしかめっ面をしながら、稟議書にサインをした。

 井澤は稟議書を受け取り、くるりと踵を返すと、部屋を出ていった。

 確かに井澤にとっても気合いの入る案件だろう。東京で久々の超大型案件になる。満水ハウスは戸建の建築請負が祖業であり、マンション分譲は傍流だ。しかし、大型の開発が可能なマンション事業の利益額は大きく、会社の中ではそれなりに存在感があった。マンション事業は後発であることから、真中はブランド構築のため、立地や仕様にこだわってきた。普通のデベロッパーだったら購入するような物件でも見送り、本当の一等地でしか分譲をしていない。満水ハウスのマンションブランドである『グレートメゾン』を日本で最も高級なマンションブランドにすることを真中は目指していた。

 部下達は方針は理解しているものの、苦労しているのも事実だろう。

「満水ハウスの東京マンション事業部は、買う買う詐欺だ」と仲介業者から言われて、物件の紹介が来なくなったと部下から聞いたこともあった。満水ハウスは大手だけあって情報は常に求めて来るが、結局一等地しか狙わないため、仲介業者からは面白みがないのだ。一等地は年に何度も売却物件として出てくる訳ではない。満水ハウスは高望みが過ぎると考える仲介業者もいるだろう。そもそも仲介会社にとってみれば満水ハウスが購入してくれないと情報提供する意味が無い。満水ハウスが不動産を購入する際の不動産仲介で儲けることを狙っているからだ。仲介の可能性が低いのであれば、仲介業者は満水ハウスには通わないのだ。

 真中は若干の不安を感じていたものの、今回の物件取得で東京マンション事業部の士気が上がることに期待をかけていた。

 あんなに井澤が嬉しそうにしているのを久しぶりに真中は見た。やはり、皆は開発が好きなのだろう。我々は住宅メーカーであり、デベロッパーだ。待つのはしんどいのだ。

 この案件は長年この業界でやって来た経験からすると真中にとっては怖い。しかし、部下達のためだ。そして、専務への昇格を狙う自分のためでもある。

『やるしかない。』

 そう自分に言い聞かせ、決裁箱にある次の書類を取り上げた。

(続き)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る