第12話「売買契約①」
その後はトントン拍子に事が進んだ。
4月17日には平野の東京出張に合わせて物件の現地確認を実施した。ただし、これは社長車に真中が同乗し、立地・外観を確認するにとどめた。どうせ建物や庭は壊すのだから、中に入る必要はないからだ。平野も立地の確認で問題ないと判断した。
4月20日には、井澤が、所有権者の篠原氏、財務担当の大山氏などとも再度接触し、物件調査や本人確認を念入りに行い、稟議は本社の各部署への根回しもそこそこに社長決裁に回付してきた。平野は即刻で決裁した。
篠原氏のパスポートの写し、印鑑登録証明書、司法書士への委任状等必要書類が全て整えられ、事前に満水ハウス側の司法書士によって確認された。入金先の口座も篠原氏名義の口座番号が提示された。
満水ハウスでは、東京マンション事業部のみならず、法務部でもチェックを行ったが、書類に不備はなかった。
売買契約が行われたのは4月24日だ。
当日は、篠原氏、財務担当大山氏、篠原氏側司法書士、SYODAホールディングスの生田社長、満水ハウスの井澤と担当課長、満水ハウス側司法書士等が一堂に会し、篠原氏からSYODA社に一旦売却、そしてSYODA社が実質的に仲介のマージンとして若干の金額を上乗せし満水ハウスに売却するという契約が結ばれた。
場所は、満水ハウスのメインバンクである千代田銀行の大阪本店だ。大阪のキタ『梅田』から御堂筋を南に下った堂島に大阪本店はある。
その大阪本店の車寄せで井澤は待っていた。
タクシーで現れた篠原には、内縁の夫も付き添っていた。スーツだったが、生地が古くなっているのか、あまり高級なものには見えない。篠原自身が持っているバッグも年季の入ったものだった。金持ちであるにもかかわらず質素に暮らしているのだろう。
車寄せからは、千代田銀行の行員が応接まで案内してくれた。担当の行員は若手の男性であり、サイドは短く、トップは長めの髪型をしており、いわゆるツーブロックという今どきの髪型をしていた。銀行員でも、このような髪型をしても許されるのだな、と場違いな感想を覚えながら井澤は応接に向かう。入口の受付を通り、お客様専用エレベーターで応接階へ進む。エレベーターを降りると落ち着いた濃いグレーのカーペットの通路が迎える。左奥の応接に通された。
応接は上座4名、下座4名が座れる中型の応接だ。中には待たせておいた満水ハウスの担当課長、司法書士が控えていた。ソファーは黒い革張りのものであり、満水ハウスの東京拠点のソファーよりは高級に見えた。管理が良いのだろう。テーブルは濃い茶色の落ち着いた木製だった。壁には上座からしっかりと見えるように絵画が、サイドテーブルには重々しい時計が置かれている。住宅メーカーである満水ハウスの応接よりも、よほど気を利かせたインテリアだ。
売買契約自体は順調に進んだ。
満水ハウス側からは、手付金として14億円が振り込まれた。入金が確認され、売主側での売買契約書への署名捺印が行われた。同日付けで所有権移転の仮登記が申請されるのだ。
篠原が署名捺印するに際してのボールペンは井澤が用意していた。不動産業者が署名用のボールペンを持つことは常識だ。満水ハウスではモンブランのボールペンを使っている営業担当が多かったが、井澤はフランスの万年筆メーカーであるウォーターマンのボールペンを使っていた。井澤が課長に昇格した時に購入したものだから、もうかなり前になる。ウォーターマンのボールペンの商品名は『カレン』だった。当時で購入金額は25,000円を超えていただろう。全てシルバーのメタリックなボールペンで、少し本体が太く、重厚感のある作りだった。日本ではウォーターマンの知名度が若干劣ることから、逆にお客様との話題となることもあるため、井澤は好んで使っていた。篠原が井澤より渡されたボールペンを使い署名した。少し手が震えているようだったが、高齢のためだろう。このような周りに人が大勢いる中での署名に慣れている人も少ない。次に篠原がバッグから印鑑を出してきた。古い印鑑入れに入っていた印鑑は、地主には珍しく、あまり高いものには見えなかった。印鑑についても質素な本人の性格が反映されているのだろうと、井澤は感じた。
これで一連の売買契約書の署名捺印が終了した。
(続く)
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