現実はいつだって残酷だ(アオイ)

「私のせいなの」

 井上ユミはいった。アオイの首に巻きつけられたピアノ線に彼女の涙がつたう。意識が朦朧とし、これが現実なのか虚構なのか判別がつきづらくなっていた。ピアノ線はアオイの首に蛇のように巻きつけられ、自分の意志では当然ながら制御できず自動的に死へのカウントダウンを歩んでいる。

「アオイの成長を見ていた、あの日から。アオイはドラムを叩いていた」

 少しずつアオイの首に絞められたピアノ線は緩められていった。

「僕にはよくわからない」

 ゴホっとアオイは咳き込み、喋れる程度までピアノ線が緩められた。

「アオイの家族を殺害したのは私なの」

 その事実を受け入れるのに時間を要した。頭の中は空白になり、考えることを意識的に拒否し、認めたくない、認めたくない、認めたくない、という単語の群れが去来していく。何秒経っただろう、何分経っただろう、何時間経っただろう、時間という概念は皆平等という。果たして本当だろうか、それは主観次第ではないか。

「なぜ、ユミが。なぜ・・・・・・なぜなんだよ!」

 アオイの捻り出した言葉には虚しさと悲しみと諦めが滲んでいた。

『俺はドラマーなんだよ』と豪語していた、父親の顔が蘇る。研究に勤しみ、母を溺愛。幸福の家族の画は悲惨な幕切れだった。アオイは一人で孤独に生きていく事を余儀なくされ、誰を信じていいかもわからず、ただ誰もいない家に帰る日々が続いていた。気づけば父親と同じ職業に就こうとし、気づけば父親以上にドラムの腕前は上達していた。遺伝というのは不思議なものでコンピュタープログラムより複雑で優秀で過去を越えようとする。アオイの目に涙が滲み出る。

「私は、この任務を遂行することができない」

 井上ユミはいった。自分自身への憤りなのか、それとも葛藤なのかピアノ線の込める力は強まり、そして、弱められた。

「任務?なんの任務なんだよ。ユミはジャズピアニストじゃないのかよ」

「表向きは」と井上ユミはか細い声でいった。「私は殺し屋」

 井上ユミの素性を知り、アオイは言葉が出なかった。ジャズピアニストだと思っていた女性が、それも愛を交わした女性が殺し屋だった事実を誰が受け入れられるだろう。自分の家族を殺されていれば尚更だ。世界は広い。表があれば裏もる。ただ、よりにもよって裏の世界がアオイの目の前に広がっているとは知らなかった。

「なんで父や母が死ななけれならなかったんだ!」

 アオイは声を振り上げた。

「アオイのお父さんの研究よ」

「研究?」

「あなたのお父さんの研究は革新的だった。おそらく発表しその研究を具現化するとなると、世界のテクノロジー恣いては脳の解析、さらには私達がみる夢の解析まで容易に可能。その研究を手に入れ独占したいと思うものがいても不思議ではない」

「となると、ユミに依頼したのは父の同業者かそれに近しい人物」

 アオイは考える仕草をした。こめかみが痛い。

「この世の中は自分のことしか考えない。誰かを蹴落とし、誰かから奪い、誰かの上をいくことが正しいと認識している」

「世の中はそんなに単純じゃない。見方を変えれば別の解釈だってできる。助け合い、補い、触れ合う。ユミと僕がそうだったように。ユミはユミの考えの中で僕と接していたの。じゃあ、僕を殺さなかったのはなんで」

「それは・・・・・・」

「それが感情なんだよ。ユミはマシーンじゃない。人は変われるんだ」

「現実は単純ではない」

「確かに単純ではない。一つひとつ複雑な問題をクリアしていかなければいけない。己を縛っているものから、絡まっている糸を解いていかなければ」

「私は、あなたを殺し損ねたことで、逆に狙われることになるでしょう」

「僕を殺したと報告すればいい」

「そんな嘘はすぐにバレる」

 なるほど、とアオイは頷いた。「そもそも僕はなぜ殺されなければならない」

「アオイならすぐに気づくと思っていたわ」

「僕の研究」

「そう、アオイの研究はお父さんの研究をモチーフにしているから」

「ただ、父の研究は不完全なんだ。元々、父は研究を発表する気もなかった。父自身も気づくのが遅かった。後悔していたはずなんだ・・・・・・誰なんだ、僕の家族を依頼した人間は?」

「それはいえない」

「ユミの命も危ないんだぞ・・・・・・」アオイは、ひらめくものがあった。パソコンに向かい検索キーワードを打ち込む。それはすぐにヒットした。

『○○大学理工学部の佐々木教授が世界で革新的な夢解析についての論文発表に向け、明日渡米』

 これか、とアオイは合点がいった。研究をしている時でもドラムをしている時でもそうだが、自分の中で納得のいくことがあると、コーラが飲みたくなる。それは炭酸のシュワという感覚が精神を落ち着かせるのかもしれないし、次への一歩を踏み出す勇気をくれるのかもしれない。

「佐々木教授なんだね、依頼主は。そして、父と母を殺したのは。母は何にも関係なかったのに」

 井上ユミの吐息が彼の耳元にかかる。決して甘い吐息ではない。そこにあるのは、落胆と虚無。

「そうよ」と井上ユミはマウスをクリックした。「私に依頼してくる人間には共通点がある。臆病者と野心家。こいつは後者よ。吊り目で五十代で髪がフサフサの奴は大抵、危険なのよ」

「それはユミの主観でしょ」

「経験よ」

 フッとアオイは吐息をこぼし、「ユミのシークレットライブの日に佐々木教授がいたのはおかしいと思ったんだ」

「気づいてたの?」

 うん、とアオイ。「一介の大学教授だからといって招待されるには招待されるメンツが豪華すぎた」

「佐々木の要望よ。あの男は、あのライブの日にアオイ殺害を命じてきた」

 やれやれ、とアオイは両手を挙げた。「本当だったら死んでたわけだ」

「それはできないといったけどね、なにせ演奏は私の精神安定剤なんだから。裏の顔を持ち出しくなかった」

「ユミに人殺しは似合わない」

「それはアオイに出会ってしまったから。あなたが私を狂わせた」

「いや、それはどうかな」

 アオイは笑みを浮かべた。

「どういうこと?」

 アオイは引き出しの中から透明のケースを二つ取り出した。二つのケースには髪の毛が入っている。

「僕は、この髪の毛が誰のだかわからなかった。しかし、一本はわかっている。ユミ、君のだ」

「私の?」

「そう、おそらく父とのやりとりでなんかしらあったのだろう、と思う」

 アオイの言葉にユミは、あっ、と声を出した。

「僕は、なぜユミの髪の毛を父が持っているのかが不思議だった。でも、謎は解けた。の頃はもう一本の髪の毛。これは男性の毛髪だということはわかっている」

「となると、佐々木」

「僕もそう思う」

「お父さんは自分の身に起こることを知っていたのかしら」

「知っていたかはわからない。でも、佐々木教授が危険とは思っていたんじゃないかな。なにせ、佐々木教授と父は同期であり、ライバルだったというし」

「どの世界でも同期というライバルで結ばれるけど、誰かが抜き出ようとすると、それを面白く思わないものよ」

「何事も全てが良い方向にいけばいいんだけど、そうはいかないんだろうね」

「悲しいけど」

 アオイと井上ユミに沈黙が起こった。

「ユミは変な夢をみないかい?自分であり自分じゃないような。それでも現実と夢の境を行ったり来たりしているような」

 井上ユミは宙を向きアオイの顔を見返した。「あるわ。起きたときにもどちらが現実なのかわからなくなる。夢の記憶が本当の私のような」

「そう、それが父の研究であり欠陥なんだ」

「どういうこと」

「徐々に夢の記憶に現実が書き換えられてしまうんだ」

「そんなことが可能とは思えない」

「いや、そうとは言い切れない。ぼくも夢をみる。そこにあるのは現実から消えたいという思いだ。しかし、どこかで消えたくないという思いがある。だから暗い通路の中、どこかの部屋には誰かがいる。居場所を求めて。それでも現実を生きるよりは楽だ。辛いことや苦しいことなんか特にはない」

「それってつまり」

「結局は行き着く先は、無、なんだ。なにもない。父はだから研究をブラックボックス化した。この研究は政治的に利用されたり、悪用されたり、もしくは洗脳も夢ではない。その懸念と後悔が父を蝕んでいった」

 アオイはこめかみを掻いた。



「父さん痛いよ」

 アオイは頭を押さえた。父の研究部屋で遊んでいると父がアオイの髪の毛を一本、引っこ抜いた。毛根からごっそり。父の研究部屋にはたくさんの書類とたくさんの数字の羅列がコンピュータの画面に所狭しと並べられていた。

「いやあ、ごめんごめん」

 父は破顔した。

「ごめんじゃないよ。髪の毛が生えなくなったらどうするんだよ」

「毛根から抜いちゃったからもしかしたらアオイの言う通りになるかもしれないね」

「それじゃ困る。ハゲは嫌だ」

 ハハハと父は笑い、「頭髪が薄くなるってことは頭を使っているとも解釈できるからな」とアオイに指摘した。

「髪の毛をなんで抜いたの」

「アオイは好奇心旺盛だな、髪の毛一本で夢の中を旅できるぞ」

「そんなことできるはずない」

「不可能を可能にするのが父さんの役目だ」

「言うは易し行うは難し、だよ」

「随分、難しい言葉を知ってるな」

「この書類に書いてあったよ」

 アオイは一枚の書類を父に手渡した。かろうじて、佐々木、という名前が右上抜いあるのをアオイは見て取った。

 破顔していた父の顔は雲行きが怪しくなり、アオイが渡した紙を二つに破った。父は口を閉ざし、何か変な事を言ってしまったかな、とアオイは怖くなった。

 が、「ちょっと仕事をしたいからアオイは向こうにいってなさい」と父の声は優しかった。アオイが研究部屋を立ち去るとき、一本の電話が鳴った。父は電話にでた。最初の明るいトーンとはうって変わり、すぐに声のトーンは低くなった。

「お前はいつもそうだ。ああ、わかってる。だが、それはできない。断る」

 父の電話はそれで終わった。終わりが始まりのような電話だった。

 その電話以降、父は苛立ちを隠せなくなっていった。誰かに謝る声まで聞こえてきた。電話は鳴っていない。父の妄想だろうか、何度かアオイの名前を呼んでいた。謝っている相手はアオイだということに気づいた。なぜ、謝っているかはわからない。母に、疑問をぶつけてみた。

「たまにあるのよ。研究が大詰めになると」

 母は全く気にするそぶりすら見せなかった。なので、アオイも気にしないで日常を過ごすことにした。

 季節が春から夏に切り替わる頃に、アオイは父に呼ばれた。父は家では珍しく白衣の姿だった。

「アオイ!これから言うことをよく聞くんだ」

 父は珍しいぐらいに真剣な表情だった。

「どうしたのお父さん」

「そんな悲しそうな表情をするな」

「それはこっちのセリフだよ」

「切り返しが上手くなったじゃないか」

「人は成長するんだ」

「それは間違いない」

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