過去があるから現在がある(カナエ)

女の持ち物の中には、化粧ポーチと多額の現金と一枚の写真が入っていた。現金は百万円の束が三つあった。写真には端正な顔立ちをした男が写っていた。若い。まだ二十代前半のようだがどこか影のある。得てして影のある男というのは女性を惹きつけてやまない。カナエのタイプでもあった。

 セックスをしたのはいつだろう。いつしか日常をやり過ごすことに没頭して、男の感覚を忘れていた。

「写真に写っている若い男だけど、覚えていないの?」

 カナエは写真をなぞりながら言った。

「覚えてないわ。でも、写真を見ると頭が痛いの」

 それは非常に重要な意味を持つ、とカナエは思った。やはり写真の男が女にとって重要なキーになることは間違いなさそうだ。

 カナエは写真を裏返した。

『A』

 と書かれていた。

 カナエは紙とボールペンをテーブルに置き、女にアルファベットを書いてと促した。女は、なぜ、という表情をしたが、渋々承諾し、アルファベットを書かした。

 間違いない。

 写真の裏に記載されている『A』という文字は、女が書いたのだ。となると、次に重要なのは、この男が誰か、ということになる。女は怪しい取引にでも巻き込まれているのだろうか。多額の金銭がそれを物語っているような気がしないでもない。

「わたしは、一体、誰なの?」

 女の疑問の声が漏れたとき、カナエの端末が振動した。席をいったん外し、カナエは廊下で受話ボタンを押した。 

 もしもし、儀礼的な第一声を放つ。

「仕事だ」

「わかったわ」

「国家レベルの重要な仕事だ。ミスは許されない」

「どうせ殺しでしょ」

「殺し+データを盗む」

「データならいつも盗んでるわ」

 ハハハと男は笑った。「それもそうだな」

「対象の情報は端末に送信して」

「お前にとってはゆかりがあるかもな」

「というと?」

 カナエは興味本位で訊いた。

「『記憶改変』この四文字熟語でピンとはこないか」

 ああ、それはカナエの最初の仕事だった。


 感情を表に出さず、鼻にかけず、淡々と物事をこなす人間は社会では疎まれやすく、学校という閉鎖空間では妬まれ、仲間はずれにされやすい。なんでもそつなくこなす人間よりは、欠点の目立つ部分が少しでもあれば可愛い。それが団体の結束であり調和社会の根源だ。

 カナエは学校でいじめられていた。軽度のいじめだ。物を隠され、トイレに入れば、ホースで水を浴びせられる。思春期真っ只中の男子生徒に至っては、使い捨てのコンドームが机に置いてあった。男というのは弱いくせに、性に対しては貪欲だ。少なからずカナエは世間一般的に見ても、美人、の部類であったから、女子生徒からも反感を買ったらしい。

 カナエのいる目の前で男女の生徒は、強姦、という二文字を匂わせておきながら、全く行動には移してこなかった。

 ある日、両親が日に日に心を閉ざすカナエに対してこう言った。

「いじめられてるんだろ。なら一人ひとり殺しなさい」

 父親の言葉にカナエは聞く耳を疑った。この人は何を言っているのだろう、と思ったものだ。

 すると今度は母親が両親の秘密を話し出した。それは衝撃的だった。両親は、国が公認した殺し屋だったのだ。表向きは一般市民として、裏では暗躍する国家公認の殺し屋。

「いつから?」

 カナエ自身変な質問だとは思っていた。いつ?何て聞いてなんの意味があるのだろう。ない。過去には意味がない。意味があるのは今だ。案の定、

「うーん」

 と母親は悩ましげな表情を見せた。

「だって、お母さんはピアニストになりたかったんじゃないの?」

「その通りよ。今でも思いは叶わないわ。あなたには隠していたけど。左手の小指が機能してないのよ。敵のナイフで切られてね神経ごと、ズバッとね」

 母親は淡々と時折笑顔を浮かべながらいった。クリームシチューを作るみたいに淡々と。シチューやカレーライスってね海軍料理なのよ、と雑談を母親としたのが遠い記憶にある。だが、今はいい。

「頭が混乱してきたわ」

「カナエ。聞いてカナエ。ピアノは武器になるわ。プロになるの。必死に練習してプロになりなさい。世界が広がるから」

 母親は優しい声でいった。

 で、だ。と父親はブランデーグラスをテーブルに置いた。何かの合図のように。「殺しの訓練を受けてみないかカナエ。徐々にランクアップしていけばいい。これはビジネスだ。そう、ビジネス。人様の役に立つんだよ」

「人殺しが」

「ノーノー。人口は増え続けているんだ。増え続ける人口のせいで困る人もいる。となると需要が生まれる。戦争なんかはご法度だ。現代は知的ビジネス。資本と利権。これらは密接な関係にある。どうだ。殺したい奴はいるか?」

 父親は、これまた淡々といった。


「この家系に生まれたということは遅かれ早かれ、私を殺し屋に仕立て上げようとしたい女性んでしょ」

 カナエの言葉に、両親は、グレイト、と親指を立てた。息がぴったりだった。

「憎しみが育つのを待ってたんだ。熟さなければ果実は美味しくないだろ、カナエ」

 父親は、カットされたリンゴを口に入れた。果汁がピュッと口元から零れ出た。

 次の日から殺し屋の訓練を受けた。裏執事というのが私の家にいたことすら知らなかった。

「わたくしはずっと、地下にいましたよ」

 長い髭をピンと弾いた。四十代にも見えるし五十代にも見える、さらには六十代にも見える。要は、年齢不詳に見えるのだ。ふわっとしてい取っつきにくいのが裏執事の特徴だった。

 裏執事は武術、射撃、語学、芸術、あらゆるものに精通し堪能だった。記憶力も抜群で、一度覚えたことは忘れない。

「記憶は非常に重要です。しっかりと覚えておく必要があります。記憶の曖昧さは破滅を招きます」

「なんで?」とカナエ。

 いや、実はですね。と裏執事は昔話を始めた。「わたくしにも熱を上げた女性がいたのですがね。まあ、とても言いづらい話なのですが。男女の交わりにおいて、わたくしも頭が真っ白になっていて。いわゆる気持ちよくてですね、あそこで水を一杯でも飲んでれば冷静にでもなれたんですが、あろうことか交わってた女性ではない女性の名前をさりげなく発してしまって、フルビンタです。すぐに着替えて、わたくしの部屋から立ち去っていきました。残ったのは、女の安い香水の匂いと、ビンタの爪痕ぐらいです」

 裏執事は表情を変えずにいった。

「一人の女性を大事にできないと幸せにはなれないわ」

 カナエは端的にいった。

「おっしゃる通りでございます。お嬢様。間違いございません。しかしですね。順調にいっている時こそ間が差すというのは人間の常でして」

 裏執事は頭を下げた。

 カナエは裏執事との訓練とピアノ練習を欠かさず行った。気づけばルーティーン化し、意識から無意識として体が覚えていった。春風吹き荒れる頃、彼女は進学した。かつての同級生が行方不明になっているというのを風の便りで伝わったが、彼女が関与していることは誰もしない。殺めた相手は全てカナエをいじめていた人物だ。

「お嬢様。お嬢様。素晴らしい。素養があります」

 人を殺める度に裏執事に褒められた。褒められるというのは身体の滋養を活性化し、日常に張りが生まれると思った。張りが生まれたせいか、ピアノでは別のアクションが起こりつつあった。ジャズコンクールに出場したカナエは、ピアノ部門で優勝した。裏では人を殺め、表ではジャズピアニストとして歩み始めた。最年少ジャズピアニストということもあり世間は少しだけ騒いだ。しかし、騒げば騒ぐほど裏稼業に影響が出ると思ったカナエは、素性を明かすことに抵抗がありピアノに関しては海外を主戦場にすることを選んだ。というのもカナエを評価するのは一部の、業界を変えたいという人物で、古い慣習に染まる重鎮たちは少なからず彼女の激情に駆られたピアノを好いてはいない。であれば海外で活動した方が、今後、カナエにとっては重要なファクターになるのではないか、と思った。

 学校を辞め、海外で活動すると決める前日の出来事だった。

「いいキャリアを積んできたな」

 キャリア=殺し。父親の言葉に全てが凝縮されていた。

「突然どうしたの?お父さん」

「お前が海外で活動することになって嬉しい反面。寂しさもある。歳だな」

 情に訴え掛ける時の父親は次に依頼があるということをカナエは知っていた。

「明日、緊急の依頼が入った」

 ほらね、やっぱり。

「随分、急ね」

「こちらの都合を顧みないのが依頼者の常だ」

 父親はいった。

「緊急性が高いというのは重要ということね」

「さすがに察しがいい」と父親は指をパチンと鳴らし、「研究者の男から記憶データを盗み、殺せ」といった。

「記憶?」

「人間の脳と記憶。意識と無意識。この分野の研究は盛んに行なわれているが、明確なものは得られていない」

「でも、その研究者は得ることができた」

「ご名答」

「それを面白くないと思っている人がいるか、盗んで活かすか」

「ご名答」

「セキュリティが厳しそう」

「そんなことはない平凡な一軒家だ」

 父親はぐいっと口角を上げた。



 対象者の家はごく平凡な中流家庭にありがちな一軒家だった。車庫があり、ポストがあり、小さい庭があった。三人家族で、両親は音楽にも精通していた。一人息子は秀才であり写真で見る限りどこか陰を感じさせる面影があった。音楽に精通するものはどこか孤独で繊細だが両親の裏の面を感じさせる。

 対象の画像を確認し昼間の住宅街を傘を差しながら彼女は歩いた。台風の影響で横なぶりの雨が止まらない。雨は生ぬるく仕事が終わったらまずはシャワーを浴び、オレンジジュースを飲んで、ベッドで眠りたい。早くも気分は仕事後に向かっていた。というのも、今回の依頼は緊急性が高く重要度も高い。腑に落ちなかった。であれば、別の玄人が行えばいいと思うし、父親が実際に行えばよい。殺し屋としてキャリアの浅い彼女がやる依頼筋ではない。

 予感。

 女の第六感とは常々当たるといわれているが今感じている胸騒ぎはそうなのだろうか。胸騒ぎの定義はなんだろう。第六感とは違う気もする。胸騒ぎというのは不思議なもので、嫌な予感を抱いた後に、明日なんて来なければいいのに、と思うが、そういう時に限って、明日は早く来るし、対象の家は目の前に表れる。

 情報によれば対象は家を出る時間が遅かったために大幅なダイヤの乱れと乱視の進行が進み車を運転することが今日という日に限ってはできなかったために家にいることは把握している。折しも雨であり、絶好の機会だ。叫びは雨にかき消される。

 カナエは正面突破を決断し、合鍵をポケットから出した。ドアノブを捻った。合鍵は必要なかった。鍵は閉まってなかった。

 音を立てずドアノブを捻り、リビングからテレビの音がした。日常の音と幸福な家庭の音が交錯していた。音を立てず、リビングに彼女は向かった。女性の後ろ姿があった。エプロンを着用し、包丁の音がした。包丁の音が止まった。素早くカナエはピアノ線を取り出し、母親の首元に巻きつけた。いぃぃぃという呻きが漏れたが、意に返さずカナエはピアノ線に力を込めた。

 母親の体の力は急速に抜け、体重が下部へ移動し、重力がどんと加わった。

 母親の首をソファーまで引っ張り、投げ出した。ちょうど頭がソファの上に乗り、アザラシのような状態になった。目がカッと開かれ、置き物のようだった。

 父親。

 対象者だ。

 音楽が聴こえた。

 jazzのスタンダードナンバーである、『take faive』だ。メロディーを口ずさんでいる。音が漏れている部屋の扉の隙間から橙色の光が漏れていた。台風の影響で外は暗い。漏れる光の強さを感じた。

「いるんだろ。わたしを殺しにきたんだろう」

 対象者の声がした。

 カナエは何も言わない。

「無言はよくないな。人間最大の特徴は声を出して言語にできることだよ。伝わらないものは伝わらない、と考えて孤独を選んではいけない。伝えるというのは人が生きる上で最大のツールなんだ。わたしのデータを盗みに来たんだろ。欲しけりゃくれてやる。でも、データは不完全だ。これだけは伝えとく。わかっていても持って行くべきだろう。君の今後は、間違いなく、この場を彷徨うのだから」

「何を言ってるの?」

「ようやく喋ってくれた。女性だったのか。幸運だな。少なからずわたしの研究が、なにものかに狙われているのはわかっていた。そう、記憶、に関してのデータだ。知ってるかい?記憶と夢というの密接に緊密に関わりあっている。たまに、忘れていた人物の顔がふと夢に出現する時があるだろう?もしその記憶を夢に書き換えることができたら?とかわたしは考えてしまったのが運の尽きだったみたいだ。この研究はブラックリストに入れた。こんなことをしたら大変だ。君を知っているんだ。君は、ジャズピアニストだろ?最年少の。さらには海外で活動しようとしている人物」

 対象者は淡々とどこか楽しそうに話し出した。

 カナエは無言を貫いた。素性がバレている。冷や汗をかいた。

「なぜ、そこまでわかっているのに逃げなかったの?」

「逃げる?君は覚えているか?ジャズピアノコンテストで優勝した際にわたしに握手を求められたことを?覚えていないだろ。握手をした際に、君の髪の毛が一本落ちたんだ。わたしは髪の毛を拾って、自宅に持ち返って、髪の毛のDNAから記憶データを蓄積し、わたしの夢とリンクさせ、君の夢にアクセスした。できないと思うか?できるんだよ夢の中ではね。夢の中にはたくさんの記憶が詰まっている。無意識下の君は、繊細で儚げだ。罪悪感に苛まれ、本当は殺しをしたくない。でも、殺すしかない。もし殺すことをやめたら父親に殺されるから。本当はピアノ一本で世の中を渡っていきたい。コンクールで優勝したのは君にとってはターニングポイントだった。矛盾と葛藤。それが今の君だ。君に興味があった。人には表と裏がある。君はどうだ?理想の表と裏だ。表の顔はピアニスト。裏の顔は暗殺者。これほど興味深い対象はいなかった。研究を前進させることができた。まさに昨日だ。わたしの夢に君が出てきた。わたしを殺すという依頼をされている君だ。君の夢には常時アクセスしていたからね」

「あなたは死ぬの?生きるの?」

 カナエは平静を保った。

「わたしの肉体は死ぬが意志は残るだろう」

 それが対象者の最後の声だった。

 ミシっという音が聞こえた。カナエは身構えた。しかし、遅れた動作、動こうとしなかったことが問題だった。その後、対象者は何も語ることがなかった。首を吊って死んでいたのだ。これが彼の描いたラストドリームなのだろうか。なぜか、悲しくなり、彼女はロープから対象者を外し、椅子に座らせた。がくんとうな垂れた首が傀儡人形のようだった。

 カナエはデスクを見回した。ペンが散乱し、ルーズリーフが大量にあり、 USBメモリがあった。パソコンに挿し込み中身を確認した。『記憶』と書かれたファイルが無数になり、詳細なデータがあった。対象のデータを回収し、カナエは立ち去った。意識していたのだろう、今日という日を境に誰かに見られている感覚に陥ったのは。対象者の、君の夢にアクセス、という言葉が妙に引っかかった。


 カナエと記憶のない女は写真の男が住んでいるマンションにいた。管理人に事情を説明し、鍵を開けてもらった。

「用が住んだら、鍵は返してね」

 と丁重に言われた。

 カナエと記憶のない女は男の部屋に入った。整然としていて几帳面な性格がうかがえた。二つの部屋があり、一つの部屋にはドラムが置いてあった。もう一つの部屋に入った。男が寝そべっていた。横顔の表情が見えない。首になにかの跡が付いている。二人は恐る恐るベッドに近づき。男の表情を見た。目が見開き、瞬きをしていなかった。顔は青白く、表情はなかった。二人は叫び、抱き合った。

 カナエは気付いた。そして、なぜ気づかなかったのだろう。男の隣で女が寝ていた。

「ねえ。そういえば、なんで男のマンションがここってわかったんだっけ?」

 カナエは冷静に女に尋ねた。

 女はブルブルと震えながら。「あなたが、『思い出したわ。アオイよ』って、言ったのよ」

 え、とカナエは頭が痛くなり、女の顔がおぼろげになってきた。でも、その顔こそ本来の彼女であり、その彼女の名前はなんだっけ、ああ、ああ、そうだ。

 井上ユミ。

 じゃあ、私は?

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