第2話 見えざる敵
早貴の家で話をすることになった二人は、綿志賀家の玄関へ入ったところだ。
「ただいま~。おかあさ~ん、タク連れて来たよ~。どうぞ入って」
「お邪魔します」
早貴が多駆郎の家に行くことは恒例のことであり、互いの親同士も承知していることだが、多駆郎が綿志賀家に来るのは長い付き合いの中で今回が初めてだ。
「おかえり~。タク? あ、瀬田さんの息子さん! あら、一言言っておいてくれれば色々用意できたのに」
奥から母時子の声が聞こえてきた。
手招きする早貴に多駆郎は付いて行くと奥へと案内された。
早貴がキッチンの入り口付近に近づくのを見計らったかのようなタイミングで、慌てて迎え出ようとした時子が飛び出してきた。
「うわっ。びっくりするじゃないお母さん」
「うわっ、ごめん。だって多駆郎君を連れて来たって言うからお迎えしなきゃと思って。あらあ、多駆郎君!? 見違えるほど立派になったわね~。背も高いわ~」
二人を見ながら笑いを堪えているようだ。
「タク? なんで笑ってるの?」
「いやさ、同じ驚き方しているし、なんか似てるなあと思って。あ、すみません。ご無沙汰しています、多駆郎です」
時子が手を合わせて感心している。
「初めて会った時から大人びていたけど、そのまま大きくなったのね。あの時のままだわあ」
「おかあさん、なんかおばさんくさいよ」
「いえいえ、時子さんも初めてお会いした時のままですね」
「時子さんだなんて、おばさんでいいわよ~。おまけにあの時のままって、お世辞ま
で言えるようになったのね~」
「お名前で呼ぶの失礼でしたか? すみません。おばさん、という方が失礼かと思いまして」
「どこまでこの子は良い子なの? ささ、こちらで座ってちょうだい。何か飲み物出すから」
「お構いなく」
母親のおばさん対応が娘からすると耐えられないものがあるのか、少々呆れ顔の早貴が食卓の席へ座るよう多駆郎に勧めた。
「でもどうしたの突然」
「うん、ちょっと、ね。最近不審者を見かけるって話あったじゃない? それに関係することで話をね。他の場所だとまずそうなんだって」
「そんなに物騒な話になっているの? それに早貴、あなたが危ないことになっているんじゃないでしょうね?」
親子の会話に多駆郎が加わる。
「実はオレのせいで早貴さんにも迷惑を掛けかねない状況になっているのかも、という話でして」
「そうなると親としては目をつぶるわけにはいかないわね。娘を被害者にされては困るから」
普段の何気ない会話からは聞くことのできない、自分に対する母親の真剣な言葉を聞いた早貴は、うれしさを感じる前に緊張が走るのを感じた。
いつも明るく穏やかに振舞っていた母親が、子どもの置かれている状況を聞き、真剣に守ろうとしている姿を目の当たりにしているのだから、当然のことだ。
時子は自分のを含め三人分の紅茶を食卓に並べ、自身も座って多駆郎を食い入るような目で見つめ、しっかりと話を聞こうという体勢に入った。
「今の段階では正直事が起き始めた所なので、何の調査もできていないですし、オレの憶測のみになってしまうのですが」
「構わないわ。それなりに確かなことなんでしょ?」
多駆郎も真剣な面持ちで話を続ける。
「敢えて確か、とは言わないでおきますが、実はオレ、親からの依頼で開発を頼まれていて。普通に考えればまだ一学生のオレに頼むべき内容ではないと思うのですが、オレにとってもいい経験になるし、好きな事のバックアップも強化してもらえるという話にまんまと乗せられてしまって、手伝っているんです」
「そうだったんだ」
早貴も今聞かされる多駆郎の近況に驚いている。
この話が出る前に多駆郎の家を出ることになったからなのだが。
「おやじの所属する研究所なんですが、ご存じの通りそれなりに名が通っている研究所なので、親会社も同じく有名ですよね」
「私がお宅へ伺った時も、瀬田さんの名前が有名だったからすぐにそこのご子息とわかったぐらいだしね」
いただきます、と言って多駆郎は喉を少々潤してからさらに話を続けていく。
「でまあ、同業他社というものも存在しているわけでして、あの業界は開発競争も激しく、時々妨害工作が行われることもあるんです。どうもその妨害工作を仕掛けられ始めたようで。今回も同業他社が絡んでいるのだろうと考えています。ただ、オレが狙われるだけならまだしも、早貴さんにも近づいてきているようだとなると、あまり穏便にする気がないような――」
多駆郎は話を止めるように時子に手振りで促されたため中断した。
「あの、それってすでに被害者になっているような感じがするんだけど」
「こちらが相手の動きに気付けたからこそ巻き込まれかけているのが分かった、という段階です。逆に言うと、仕掛けてきている連中が隠密行動を徹底していたら、それこそ対策していない丸腰状態で踏み込まれることになってしまうので、連中が分かりやすくてよかったとも言えます。すでに被害者になっている、と言われても仕方ないですね」
時子は少々驚いたのか、前のめり気味に聞いていた姿勢から背筋を伸ばして多駆郎との距離を開けた。
「何か妨害をするとしても、大抵は新作や研究の発表が行われた後か、発表前に情報が漏洩したか……。そこで妨害を仕掛けてくるのがパターンですから、オレも何に対して妨害を仕掛けて来ているのかがわからないんです。まだオレが開発しているものも全然形になっていないから研究所の方にも具体的な内容を一つも伝えていないですし、ましてや学会などで研究発表のようなことも全くしていません。でも、結果的に早貴さんが巻き込まれかけているという事実。早貴さんのご家族にご心配をお掛けしてしまう状況になったことは申し訳ないと思っています。まだウチの会社や研究所が狙いなのかどうかもわからないのですが、謝らせてください」
そう言って多駆郎はその場で立ち上がり、時子に向け深々と頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
時子は思わず驚いた顔で早貴を見た。
早貴は自分が絡んでいる話になっていることを驚いているようだが。
「タク、これからアタシはどうしたらいいの? アタシって気づかないうちに厄介な事に巻き込まれているの?」
改めて椅子に座った多駆郎が珍しく早貴の目を真っすぐ見ながら答えた。
「そういうことなんだよ、早貴ちゃん。不審者絡みの話からすると巻き込まれかけている、というのは間違いないと思う」
早貴はどうも状況が掴めないなというような表情をしていて、多駆郎の話によって出来上がっている雰囲気に一人だけ乗り切れていない。
「オレは、父親の会社とは何も関係ない早貴ちゃんが巻き込まれる理由がさっぱりわからない。会社絡みじゃないのかもしれない。早く研究所の方に連絡してその辺は調査してもらう。でも、現状早貴ちゃんが狙われている可能性があるのは確かなんで、窮屈だろうけど、一人での行動は絶対にしないで欲しい」
口元に手を持っていき、何かを思い出したように多駆郎は話を続けた。
「そういえば、妹さんも不審者の話をしていたんだっけ? 気を付けて無駄なことはないだろうから、妹さんにも早貴ちゃんと同じように一人での行動はしないように教えてあげて」
「香菜は多分大丈夫かな。今はね――」
早貴が時子を見ると、早貴に続いて香菜から報告を受けていた話を思い出し、あああの話ね、という表情で時子は頷いた。
「お千代ってわかるでしょ? 話に度々登場していたアタシの親友。そのお千代の弟で透っていう子がいるんだけど、その子が彼氏なのよ。いつもその子が家まで送ってくれているみたいだから、一人だけってことはまずないかな。でも話しておかないと一人でコンビニぐらいは行くかもしれないから、話はしておくね」
「そうなんだ。一緒にいてくれる人がいるなら安心だね」
時子が二人を見ながら何かを気にしているようだ。
「で、早貴は誰に送ってもらうの?」
「アタシかあ。お千代じゃ送ってもらった後のお千代が心配だしねえ」
「オレが送ってあげられればいいんだけど、かえって危険な目に合わせかねないからなあ」
少々残念そうな顔をしながら時子が案を出した。
「とりあえずできるだけ私が迎えにいくわ。早貴、その都度連絡ちょうだい。まさか小さかった時より付き添うことになるとは思ってもみなかったけど」
「お願いします、お母さん」
多駆郎も軽くお辞儀をした。
「では、突然こんな話を聞いてもらって申し訳ないですが、できるだけ連携をとって動けたらと思います。よろしくお願いします。オレからも情報が入り次第連絡しますので」
「タク、今気づいたんだけど、アタシたち携帯電話とか連絡とる手段が無い……。」
「そうだっけ? あ、そうか。連絡ってしたことなかったね」
「あなたたちそんな風だったの?」
呆れ顔で時子は額に手の甲を当てた。
「アタシの気が向いたときにタクの家に行くってことになっていたから、ずっとそのままだったね」
「はあ、あなたたちは……、まあいいわ。いい機会だから今番号教えなさい」
――――翌朝。
漠然とした不安を抱えたまま床に就いたため、何度も夜中に起きて寝不足となってしまった早貴が朝食をとりに食卓に現れた。
朝練に出かける準備が整った香菜が今まさに登校しようとしていた。
「おねぇちゃん、おはよ~」
「おはよ。香菜~」
早貴は香菜に抱き着いてきた。
「どうしたの? 昨日の話のこと?」
「さすが我が妹よ! その通りだよ。もう、なんでワタシって変なことになるんだろ」
香菜は登校する時間ではあるが、これまでの姉を間近で見ていた妹としては放っておけない気持ちを優先した。
姉を強く抱きしめ返しながら長い髪の毛越しに頭を撫でてあげる。
「大丈夫だよ。おねぇちゃんには沢山の味方がいる。いつものおねぇちゃんでいてくれさえすれば、みんなが助けてくれる。私だって怖いんだよ。最初に不審者の話聞いたの私なんだから。それが昨日の話だともっと怖い話になっているし、今だって学校行くのが本当は凄く怖いよ。でも、透も送ってくれるし、真由に由芽だって守るって言ってくれているから、みんなのためにいつもの私を見せないとって思うの。いつものおねぇちゃんが見れないと、私が怖くて潰れそうだよ」
その言葉を聞いて、香菜をさらに強く抱きしめる早貴。
「そうだね、香菜の言う通りだ。はあ、アタシはつくづく姉失格だね。妹に励まされるわ、恋愛は先を行かれるわ。ごめんね、こんな姉で」
香菜は姉の両肩を掴んで早貴の目をジッと見る。
「そこ! そういうのはおねぇちゃんじゃない! みんなおねぇちゃんが大好きなんだよ。誰もそんな風に思ってない! 妹の私が目の前で言っているんだよ、自信持って! おねぇちゃがいるから私は安心して私でいられるの。妹に励まされて何が悪いの? 妹だって姉の役に立ちたいぞ! たまには頼って。今日みたいに抱き着いてきてもいいし、相談でもなんでもいいから、外ではお千代ねぇちゃん、家では私に頼って」
妹に捲し立てられて気づかなかったが、話が途切れたところで香菜の手が小刻みに震えていることに早貴は気づいた。
「香菜、あんた――――」
早貴を掴む手を放して、改めて玄関へ向かい出す香菜。
「私は大丈夫、透がいるからね! 透は私を守るって言ってくれたから、それを信じて動きます。おねぇちゃんは信じられる人を信じてちゃんと綿志賀早貴、ここにあり! って胸張ってて! それじゃ、行ってきます」
話す後半は口も震えていた。
そのまま振り返らずに家を出て行った香菜の背中を見て、早貴は両手で自分の頬をパチッと叩いた。
「アタシ、バカだ。香菜の方がアタシなんかより遥かに恐怖を感じているはずなのに、あんなに我慢して必死に励まして。情けないな。そうだよね、アタシには味方がいるんだから助けてもらえばいいし、助けられるようにならなきゃね」
早貴は、知らぬ間に目元から熱い一滴を零していた
「おはよ、香菜。……どしたん?」
玄関を出た香菜が、約束通り送るために待っていた透の元にフラフラとよろけながらなんとか辿り着き、額を透の胸に当てて体を支えた。
その体は震えている上に顔も蒼ざめていて、元々色白ではあるが活発な女子らしい香菜の肌が、病室から抜け出してきたのかと思わせるような、冷え切った弱々しいものに変貌しており、ただ事ではない何かがあったことを容易に感じさせていた。
透は黙って香菜を抱きしめるが、体が冷え切っていることに驚きつつ、助けたい気持ちでいっぱいになる。
「何があった?」
震えが止まらないまま香菜は答えた。
「……例の、不審者の話で、おねぇちゃんが、怖がってて、私、少しでも元気になって欲しくて、励ましたんだけど、私も怖いから、力が入らなくなっちゃった」
途切れ途切れに何があったのかを透に伝えることができたが、途端に足元から崩れ落ちそうになる。
それを透は、すかさず腕の力を増して支える。
「頑張ったな。うん、よく頑張った。姉ちゃんを支えたんだな。凄いよ香菜は。次はオレが香菜を支える番だ。とりあえず落ち着くまでそこで休もう。少々朝練遅れても、オレが理由を説明してやるし、香菜には誰も文句言わないだろ。今は何も心配するな」
綿志賀家の角から続いている低い塀に二人は座り、透は温めるように香菜の背中を抱えた。
昨日の話はチャットアプリで香菜から伝えられている。
当然千代にも話はしてあり、以前姉弟で話したように綿志賀姉妹シフトをさらに強化する話になっていた。
「香菜がこんな風になっちまうなんて、誰だか知らねえけど絶対許せない。香菜、とにかくできるだけ傍にいるようにするから、ちょっとでも不安になったら呼ぶんだぞ。場所なんか気にしてられない」
透に抱えられぐったりとしたまま香菜は頷いた。
「朝練、今日は見送ったらどうだ? ヘタに動いてケガしてもまずいし。今まで休まずにやってきたことの方が朝練一回休むことなんか消し去る功績だと思うよ」
元気がトレードマークで、笑顔を振りまきまくっていた香菜がこんなにもダメージを受けている。
透はどうにもその光景が耐えられず、今自分にできる精一杯の励ましをしている。
何か他にできることはと考えていると、体が自然に香菜の頭を撫で始めていた。
すると、動きを止めていた香菜が鈍いながらも体を起こした。
「そろそろおねぇちゃんが出てきちゃう。透、学校へ行こう。着いてからどうするか考えるよ。今はおねぇちゃんに見られないようにここから離れたい」
姉への気持ちに透は熱いものを感じながら要求に答える。
「オーケー。お姫様抱っこ、おんぶ、肩を貸す、担ぐ、どれがいい?」
蒼ざめたままの表情が少し明るくなる。
「お姫様抱っこ、良さそうだけどおんぶにしておく。落ち着いたらお姫様扱いして」
「リクエスト了解。でも、いつでもお姫様扱いな気分だけどな、オレ」
「ふふふ。楽しみ」
透は香菜の前に背中を差し出し、香菜は倒れこむようにその背中に身を預けた。
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