変わり者と陽だまりのお屋敷

東条

第1話 

 変わり者の伯父がいる、という話を、それなりに昔から翼は知っていた。それは盆の日に祖父が漏らした言葉であったり、親戚との長電話を終えた母が肩を竦めながら言った言葉であったりと、様々な場所で聞いてはいたが、最初に誰から教わったのかは覚えていない。

 ただ、親戚の集う盆や正月にも、その変わり者の伯父は顔を見せなかったし、写真を見たこともない。しかし毎年律儀にお年玉だけは現金書留で届くので、その住所と名前だけは知っていた。

 空五倍子 巨骨。

 かつて現金書留の封筒の裏に書かれた名前を見て、きょこつさんとは怖い名前だと翼が言うと、ここつと読むのだと父が教えてくれた。うつぶし、ここつ。随分と気取った難しい名前だと感じたのを今も覚えている。毎年きっかり五千円。幼い頃はなんと太っ腹なのだと感動したが、年を重ねていくごとに周囲のお年玉の額が多くなるのに比例して、いつまでも額の変わらない現金書留に抱く感動は無くなって来た。一度も顔を見せないのだ、きっとこれもただの社交辞令であり慣習にすぎないのだろう。

 きっと本人の葬式で初めて顔を見るのだろう、と翼はずっと思っていた。これまでずっと親戚の集いにも来ないのだ、わざわざ顔を合わせる事もないだろうと。従兄弟が何人か結婚式を挙げた時も、あの人はまた来ないのかと親戚が溢しているのを聞いている。

 だから、まさか大学進学に伴い、その変わり者の伯父の家に下宿するなんてことは、意識の片隅のつま先にすら思ってもみなかった。


「京都なら、巨骨さんの家があるじゃない。あっちは物価も家賃も高いし、下宿していいか聞いてみたらどう?」

 そう言ったのは祖母だった。正月の挨拶に親戚一同が集まった席で、京都の大学に合格したから家を探しているところなのだと現状報告をした翼に対して、にこにこと笑いながら。その名前が随分とさらりと出た物だから、翼は一瞬誰か分からなかった。しかし周囲に座っていた親戚が素っ頓狂な声をあげたことでそれが変わり者だという伯父の名前だと思いだす。

「あの変わり者の家かい。さすがに断りそうだがね」

「いえいえ、彼は案外優しいのよ。あの……あれよ、分かりづらいだけなの」

 祖母はにこにこと相変わらずの笑顔で言う。それから、翼を見て

「どーう、翼くん。巨骨さんの家は広い日本家屋だから、お部屋もたくさんあるわよ。お友達を連れ込んでオールナイトパーティーは、ちょっと大変かもしれないけれど」

 年老いて90近いのにも関わらずしゃんとした声で言ってくる祖母と、親戚一同の視線を一つに受けて翼は少し居心地悪く感じた。家賃が浮くのは正直言って助かる。しかし変わり者と誰もが口をそろえるのだから、それがとてもひっかかる。数分考えて、考えて、ようやく翼は口を開いた。

「とりあえず、お試し期間とか、あります?」


 そして卒業式を終えて一週間後、まだ桜も咲かない頃、翼はリュックを担いで京都の町に降り立っていた。先に荷物は送られているためにそこそこ身軽だが、明らかに多い観光客とは違ったラフな格好は浮いて見えるような気がして、翼はキャップを被りなおす。

 翼の予想を裏切り、伯父は簡単に下宿を受け入れたらしい。お試し期間も勿論大丈夫だと彼に電話した祖母が言っていた。あの変わり者が、とその人となりを知っているらしい親戚たちは驚いていたが、祖母には甘いのかもしれない。なんといったって母親なのだから。

 下宿とはほぼ同居のようなものだ。一つ屋根の下、同じ釜の飯を食べる。せめて心の準備だけでもしておきたいと周囲の親戚にその伯父の事を聞くと、様々なエピソードが返って来た。

 曰く、高校在学中突然旅に行くと言い出し、三か月国内のあちこちを回る旅に出たとか。

 曰く、折角いい国立大学に合格したのに三日目で教授と大喧嘩して中退したとか。

 曰く、中退後全く興味がないだろう美術大学を受験してあっさり合格したとか。

 曰く、年中薄い着物を着て年中裸足だとか。

 そんなエピソードがもっと多く寄せられた。どうにも自由人らしい。今は60歳を過ぎた頃で、兄弟の多い母とは20歳近くの年齢差がある。自由人だったわねぇ、と母は懐かしそうに笑っていた。大学を中退してきた日は家族全員が驚愕したが、多くのアルバイトをして家にお金を入れ、旅も二度目の大学生も全て自分の預金でやりくりしたらしい。ただ迷惑を被った事は無いと誰もが口をそろえて言ったのが印象的だった。

 教えてもらった住所をスマホのマップに入力すると、駅から少し離れていた。調べたバスに乗り、9個目のバス停で降りる。そこは観光客もあまり居ない閑静な住宅街だった。昔ながらの家が立ち並び、寒い風が吹いている。スマホの画面と実際の町を見比べながら幾つかの道を曲がると、「空五倍子」という表札を見つけることが出来た。門の向こうには少し空間があり、その奥にそれなりに広い日本家屋がある。左を見れば庭があった。花壇には花が植えられ、大きな木は桜だろうか?まだ蕾も小さい。

 門の所にはドアベルやインターホンはなかった。恐る恐る門をくぐり、庭を見ながら家の前に立つ。すると引き戸の横にボタンがあった。♪マークが書いてあるのを見るに、マイクやカメラもない、ただ音で来客を知らせるだけの昔ながらのものらしい。少し考えてから、それを押す。すると扉の向こうでキンコーンという音が響くのが聞こえた。60過ぎにしては落ち着きがないな、と思いながら、待つ間に、思い出したようにキャップを取る。

 少し間があり、向こうからどたどたと駆け寄ってくる足音が聞こえた。それは近づいてきて、あ、近いな、と思うとともに引き戸の向こうに人影が見える。擦りガラスの為に明確な姿は分からないが、戸を開けようと更に近寄って来たその人影が自分よりもかなり大きいことに気付いて血の気が引く。文字通り巨人なのかと頭の中に感想が浮かぶ。

 引き戸が開き、顔を見せたのは年が同じくらいの青年だった。甚平の上に暖かそうなちゃんちゃんこを着て、天然パーマというやつなのか、ぴょんぴょんあちこちが跳ねたベリーショートの黒髪で、大きな目の輝きには曇り一つない。え、これが巨骨さん?と思わず面食らう。その翼の心境には気が付かないのか、青年はまるで子供のような笑顔で口を開いた。

「あの、えっと、こんにちは!だれさん、ですか?」

 その言葉は幼い子供のようだった。声は年相応だが、喋り方が舌ったらずで幼い。そのひまわりのような笑顔に圧倒されながら、翼も答える。

「俺、天城翼って言います。あの、下宿させてもらうっていう……あなた、巨骨さん……ですか?」

「ここつ? ううん、おれ、ひおり。ここつはね、あっちのおへや」

 ひおり、という名前らしい青年はそう言うとくるりと振り返り音が聞こえた方向を指さした。爪が長いな、とふと思う。それから、青年は裸足をぱたぱたとはたいてから土間から段差へ上がり、おいで、と呼んだ。翼は軽く頭を下げてから家に入り、ちゃんと戸を閉めて靴を脱いでそろえた。揃えている後ろで青年は玄関の床を足で軽く叩く。

「この、だんさ? ねー、あがり、えーっと……こばち? なんだっけ」

「上がり框、ですかね……」

「ん、それ!だとおもう。つばさ、ものしり~」

 思わず口を挟むと青年はにこっと笑った。屈託のない笑み。本当に小さな子供を相手しているような気持ちになるが、相手は190センチはあろうかという巨体だ。体格はちゃんちゃんこの綿のせいでよく分からないが、太ってはいないように見える。靴を揃えて立ち上がった翼を見ると、こっちだよと楽しげに廊下を歩き出す。少し歩いただけで多くの襖が見え、この家には本当に部屋が多そうだと頭に浮かぶ。二つほど廊下を曲がり、青年は一つの襖を開けた。

「ここつ、つばさ、きたよ~。おれ、あんない、できた!」

「ご苦労さん」

 部屋の中には火鉢が一つ。その周囲には二つの座布団があり、そのうち一つに座して本を読んでいたらしい男は眼鏡をとると翼の方を向いた。

「お前さんが翼か。初めまして、遠いところからご苦労さん」

「……あ、はい、翼です……どうも」

 翼はぺこりと頭を下げる。その脳内は随分と混乱していた。そんな彼を置いて青年は空いた座布団にぺたりと座り、ちゃんとできたよ、と誇らしげに報告している。良かったね、とその頭を撫でる手は少しのしわはあるものの、年相応のものではない。

「あたしが、巨骨だ。あんたの母親の橘の兄じゃああるが、そうかしこまらんでいい」

 そう言って微笑む彼は、どうみても40歳にはいかないような、とても若い姿をしていた。

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