【直下】

「転移先の現出座標なんて、計算している余裕はなかったのだわ──ッ!」


『淫魔』は、泣き叫ぶように悲鳴をあげる。急造で開いた『扉』は、目標の次元世界の高々度座標につながっていた。


『淫魔』と、その足首に体毛を結びつけた漆黒の獣は、白雲と霞におおわれた空を自由落下している。二人のあいだには、ぴん、と張った一本の体毛がつながっている。


「どうするのだわ……これ!?」

 

 わめき立てる『淫魔』は、自身を下方向へと引きずる力を、重力以外にもう一つ感知する。視線をおろせば、無貌の獣が『淫魔』につながる黒毛を手繰りよせている。


「そんなに、私を殺したいわけ!? まず、自分の身の心配をするものだわ!!」


 己の身の危険すらかえりみない獣の飽くなき闘争心に唖然としつつ、『淫魔』は叫ぶ。同時に、自分自身の命を救うための打開策を思案する。


 このままでは、地面に衝突する前に、漆黒の獣にくびり殺されかねない。そうでなくても、この高度からの自由落下は、間違いなく致命傷になりうる。


 しおれかけた背中の双翼に『淫魔』は、魔力を循環させる。尻尾を巧みにあやつり、空中バランスを制御すると、頭を下に向ける。


『淫魔』は、翼を流線型にたたみ、自ら急降下をかける。激しい風圧にともなう空気の粒が、顔面にぶつかる。破れかけたフリルスカートが、ばたばたと音を立てる。


『淫魔』は、無貌の怪物と同じ高度まで降下する。すると、足首にからみつき、漆黒の獣と結びついた剛毛に、たわみが生じる。


「よし……だわッ!」


 蒼黒の瞳ににらまれながら、『淫魔』は大きく縦方向の円の軌道を描きつつ、曲芸飛行のように一回転する。くるぶし付近にからみついていた体毛が、ほどける。


「ウラアアァァァ──ッ!」


 轟風にかき消されつつも、無貌の怪物が獲物を逃した無念の咆哮をあげる。『淫魔』は、急降下体勢を維持したまま、獣と同じ速度で地面に向かっていく。


 雲の層を抜け、地表が視界に入る。眼下には、杉の原生林が広がっている。


 樹冠に接触する直前に、『淫魔』は双翼を広げる。自由落下する獣から距離をとりつつ、不時着の体勢に入る。


「──グヌギァアアァァァ!」


 悲鳴とも雄叫びともつかない咆哮をあげながら、無貌の怪物は樹々の枝をへし折りつつ、そのまま地面に墜落する。


 対する『淫魔』は、漆黒獣の落下地点からやや離れた茂みのなかに突っこむ。お気に入りのゴシックロリータドレスが、枝に引っかかって、びりびりと裂けていく。


『淫魔』は、灌木の枝のすきまに身を潜め、息を殺し、様子をうかがう。幾本かの巨木の幹ごしに、地表に激突した無貌の怪物の姿が見えた。


「嘘でしょ……」


『淫魔』は、呆然とつぶやく。空を飛ぶ能力を持たない生物があの高度から落下したとなれば、破裂し、血の染みと肉の破片と化すのが関の山だ。


 ところが、目前の漆黒の獣と来たら、肉体が原型を保っているのみならず、首や四肢がひしゃげた様子もない。


 その落下点には、クレーターを思わせる大きなくぼみができあがっていた。


「頑丈すぎだわ……まさか、不死身とか、ないわよね……?」


 気配を遮断した『淫魔』が凝視するなか、身を丸めた無貌の怪物が、びくびくっ、と身を動かし始める。


 やがて、右腕が動き、左手は地面を突き、両脚で立ち上がる。漆黒の獣は、何事もなかったかのように天を仰ぐと、思い切り息を吸いこむ。


「グギヌウゥゥラアアァァァ────ッ!!!」


 ひときわ大きな雄叫びが、怪物ののどからほとばしり、鬱蒼と茂る原生林に響きわたる。あまりの音量に、『淫魔』は思わず耳をふさぐ。


 漆黒の獣は、周囲を見回す。見失った『淫魔』を探しているのだろうか。やがて、ワイヤーのごとく伸びた体毛を自らつかみ、手当たり次第に振り回し始める。


「……ヒッ!?」


 体毛鞭の一振りが、『淫魔』の潜む灌木の直上をかすめる。枝と葉の切断される音が、『淫魔』の耳に響く。


(居場所が……バレてる……?)


『淫魔』の懸念をよそに、無貌の怪物は四方八方に体毛鞭を振り回す。巨木の幹に切り傷が刻まれ、大岩が粉砕され、苔むした地面の土がえぐられる。


「ウラッ! ウラア!! ウラアァァ!!!」


 獲物を見失ったいらだちをぶつけるように、漆黒の獣は手短な大樹を殴りつけ始める。幾度も拳を叩きつけるうちに、幹はきしみ音を立てて、ゆっくりと倒れる。


 周囲の若木を巻きこみながら、大きな音を立てて、へし折れた巨木は『淫魔』のすぐ真横に倒れこむ。


「……ッ!!」


 両手で口をおおい、それでも『淫魔』は息を潜め続ける。


 無貌の怪物は、一度、動きを止める。やがて、呼吸を整えると、目につく巨樹を殴りつけ、大岩を蹴り飛ばしながら、原生林の奥へと消えていった。

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