【門口】

「結果的には、命の恩人なわけだし、ラズベリーアイスのぶんくらいは駄賃を払ってもらうのだわ」


 接吻をほどこそうと『淫魔』は、青年に顔を近づける。と、次の瞬間、行為を中断して頭を上げる。


 歓楽街の喧噪に混じって、規律のとれた複数の足音が近づいてくるのを、『淫魔』の聴覚が捉える。靴音は、路地の入り口手前でいったん止まる。


「あいつ……救援を呼んでやがったのだわ」


『淫魔』は、小さく舌打ちしながら、立ち上がる。


 サイレンサー越しの銃声が一発だけ聞こえる。おそらく、エージェントの死体を喰いあさるインプを撃ち殺した音だ。


「やれやれ、なのだわ」


『淫魔』は、救援のエージェントに背を向ける格好になりながら、パイプとケーブルがツタのように這うコンクリート壁に相対する。


 白くしなやかな指先が、摩天楼の壁面にかざされる。『淫魔』はまぶたを閉じて、精神を集中する。数秒の沈黙ののち、空間にわずかな電光が走る。


 コンクリート構造物の表面に、砂嵐のようなノイズが走り、無機質なざわめきは次第に大きくなる。


 やがて『淫魔』は、かざしていた手を引く。閉じていた双眸を、ゆっくりと開く。


「……ふうぅぅ」


『淫魔』は、緊張と集中を弛緩させるように、深呼吸する。


 眼前に立ちふさがる無機質なコンクリートの壁面には、あきらかに周囲の風景とは不釣り合いな木製の『扉』が現れていた。


「グリン!」


『淫魔』は、妙に古風な『扉』に駆け寄ると、乱暴な動作で両開きにする。『扉』の向こう側には、闇で塗りつぶしたような漆黒の虚無空間が広がっている。


『淫魔』の両耳が、ぴくぴくと動く。追跡者の足音は、止まっている。エージェントの死体の周辺を警戒しているのだろう。下部構成員としては、妥当な行動だ。


「ほら、立つのだわ。急いで……といっても、無理か」


 相変わらず意識を取り戻す様子のない青年を、『淫魔』はハイヒールの足で乱暴に蹴り転がす。そのまま、ぼろぼろの青年を『扉』の向こう側に放りこむ。


 買い物袋を抱えたまま、『淫魔』は背後を仰ぎ見る。視界に、人影はない。


「チャオ」


 ビルの角の向こうで、息を潜めて様子をうかがっているであろう接近者に向かって、『淫魔』はいたずらな笑みを浮かべて、小さく手を振った。


 そのまま、きびすを返し、虚無空間を満たす闇のなかに自らも身を沈めていく。


『淫魔』がくぐると、『扉』はひとりでに閉まり、周辺に小さな電光とノイズが生じる。やがて、初めから何もなかったかのように『扉』は消滅する。


 数十秒後、アンダーエージェントたちが袋小路に踏みこんだときには、すでに痕跡一つ残されてはいない。


 彼らが発見できたものは、統括者であるエージェントの首なし死体とそれを食べようとした野良インプ、路上に投げ捨てられたラズベリーアイスだけだった。




 個人の私室に使うは大きめで、ダンスホールとするには物足りない円形の部屋。壁面にはアンティーク調の家具が置かれ、中央には天蓋付きのベッドがある。


 寝台のうえの空間に、小さなノイズと電光が走ったかと思うと、ぼろをまとった青年の姿がこつぜんと現れる。


 青年は、そのまま寝具のうえに落下し、小さくうめき声を上げる。


「ただいまー」


 少しの間をおいて、部屋の扉を押し開きながら、買い物袋を小脇にかかえたゴシックロリータドレスの女が入ってくる。


「あー……ベッドじゃなくて、床に転がしておけば良かったのだわ」


 薄汚れた青年の姿と清潔な白いシーツを見比べて、女──『淫魔』は独りごちた。

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