展覧会の夜

正保院 左京

第1話 真夜中の画廊

 大正六年の事であったか。雪の降る夜の繁華街を一人の男がフラフラと歩いていた。背広を着、帽子を被り、黒い外套を寒げに着込んでいる。一目見ればどこかの聯隊の軍人であるかのように見える、長身に程よく筋肉のついた躰付き。

 外套に身を包んだその姿は貫禄のある将軍に見間違えてしまうかもしれぬ。

 彼の名はSと云って、役場に勤める官吏であった。歳は二十五。子供を身籠る妻のI子は六つ年下で、Sとは幼いころから互いに将来を約束された仲である。

 I子と云うのは地元でも評判の美人であった。スラリとした長身は雪のように白い素肌に包まれ、あたかも高名な画家が描いた絵の中から出てきたような美しさ。気が強くしっかりとしているが、優しく人当たりの良い女である。

 そんなI子はSにとってまさしく自慢の妻であったのだ。

 しかしながら彼は昨日、I子とを起こしてしまったのである。今思えば馬鹿馬鹿しくて鼻で笑うような些細ささいな話であるが、互いに意地を張り合ってしまった所為せいで遂にI子は腹を立てて実家へ帰ってしまった。

 Sと云うのは元来がんらい口下手な男であった。そしてI子も気の強い女であったから、腹を立てて家を出て行くI子を止めることも出来ず、そのまま愛想をつかして出て行かれてしまったのであった。

 その事をSは酷く悔やんでいた。今夜彼が家へ帰ったとしても、家にあかりりはない。本来そこにいるはずのI子の姿はある筈がなかった。

 Sの帰り道の雪の上を歩く足取りは鉛の如く重かった。路面に積もる雪を重く踏みしめながらフラフラと帰路を歩くSの心の中で思うことは身重のI子のことばかりである。

 そこらで煙草をふかす気にもなれぬ。何処か飲み屋で気晴らしに酒をあおる気もしない。それどころか今日一日、Sは全くと云ってよい程仕事に身が入らなかったのである。

 彼は昨晩の事は癒えぬ傷となって彼の胸に深く刻み込まれていた。

 I子の実家と云うは五町ほど離れている、そう遠くないI子の家へ断りに出向いたものの、I子は出て来もしなかった。

 迎えたI子の母に自らが起こした過ちを侘び、なんとかこちらへ戻るよう頼み込んだものの「女は身重になると何かと苛々いらいらするものだから、別に気にする事は無い。その内落ち着くだろうから心配はいらない」と諭されたが、Sの心から罪悪の念は消えることはなかった。

 定めし今夜家へ戻ったとしてもI子は帰っては居ないだろう。それならばいっそのこと今夜は帰らないほうが良いのではないだろうか。そんな考えが浮かび、Sは中々帰る気が起きなかったのであった。

「ハァ…」

 そう溜息を吐いたとき、Sは自分が今何処を歩いているのかに気がついた。

 Sは誰も居ない、只ぼんやりと瓦斯燈ガスとうの燈った路地裏を歩いていた。其処が一体何処であるか、Sには見当もつかなかった。何を考えるわけでもなくただ呆然ぼうぜんとフラフラ歩いているうちに、何も知らない道に迷い込んでしまったのである。

 誰も踏みしめた形跡のない新雪は瓦斯燈の明かりに照らされ、キラキラと輝いていた。それとともに誰も歩いていない、閑静な通りであると云うのを物語っていた。周囲の家々も明かりが燈されておらず、頼れるのは瓦斯燈の明かりのみ。

 その道の先に赤々と電燈でんとうの燈された、硝子ガラス張りの建物があった。寒い夜道に暖かそうな光を燈すその場所に、Sは吸い込まれてゆくように近づいた。自然と足が明かりを求めて動き出すのだ。

 外装が綺麗な割には随分と古ぼけた看板が掛けられており、何が書いてあるのかさっぱりわからない。その建物の硝子の向こうには絵が何枚か見えた。定めし誰かしらの画廊だろうと思ったSは、戸を開けて中へ入ってみることにした。

 この建物は二枚戸になっているらしく、擦り硝子の一枚目の戸を開くと中の様子がうかがえた。赤々と電燈の燈された室内では著名な画家の作であろうと思われる油絵が何枚かかけられており、西洋風に構えた暖炉では炎がごうごうと燃え盛っている。

「幻想少女博覽會」

 そう題された張り紙が貼ってある二枚目のガラス戸を開くと、入り口の奥に何かが座っていた。

 名のある人形作家が精魂込めて作り上げた最後の一品であるかのような精巧な作りを施された女人形。と云うのがSの印象だった。

 Sの実家にも同じような日本人形があった。白磁の陶器のような素肌を深い紺色の美しい着物に身を包み、三日月のように開いた眼の奥では、硝子玉のように透き通った瞳がSを見つめ、妖しい美しさをムンムンと醸し出していた。

「おや。こんな夜更けにお客さまですわ。雪の中さぞかしお寒かったでしょう?」

 人形はそう口をきいた。正しくは人形ではなく、それは生身の人間なのだが、Sにはそれが人形のように思えて仕方がなかった。

「あっ、ああ。ここは君の画廊かね?」

「ええ。私は人形師をしております。翡翠と申します」

 女はそう名乗って、Sの元へと足音も立てずにスーッと近づいてきた。吐息の触れ合うほどに顔を近づけると、翡翠は静かな笑みを浮かべた。

 その息が止まってしまいそうな妖しい美しさにSはゴクリと生唾を飲んだ。

「ここは元はと云えば私の親しき友人の画廊でございましたの。それがほんの二月前に死んでしまったものですから、私がこの画廊を引き継いだのです。私は平生へいぜいこの画廊の奥で人形を作っておるのですが、時たまに私の集めた芸術品を展示しているのでございます。表の張り紙、ご覧になったでしょう?随分と奇妙な題だとお思いになったかもしれません。ですが、こうしてこの画廊を画廊として使ってやると、私の死んだ友人も喜ぶのでございます」

 翡翠はコロコロと笑った。

「ここにあるものは、すべてが美しいもの。それが如何いったものか、それはご自分の目でお確かめになってください。サァ。どうぞこちらへ」

 翡翠は蝋人形のように白く、小枝のようにか細い手でSの手を取った。

 その刹那、Sの背筋にツーっと冷たいものが走るのを彼は感じていた。

 翡翠の手は氷のように冷たかったのである。

「アラ。ごめんなさい。驚かせてしまいましたわね。私はよく冷える体質なものですから」

 そう云って翡翠はSの手を引いて奥へと進んでいった。

 

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