第81話 胸は寄せない、上げない
しかし、腋の甘さを鍛えて直す方法なんてあるかな。
……うーん。単純な筋トレみたいな方法は無さそうだぞな。
こういう取り組み稽古の中で、常に腋を締めるように意識して取らせるしかないな。
でも難しいよな。腋にばっかり意識が行くと、他の部分がおろそかになって稽古が捗らないばかりか、ヘタをすれば怪我してしまう危険もあるだろうしな。
やっぱ監督業は難しいわ。
「恵水、突っ張る時は、相手を後ろに突くんじゃなく、外側に突くつもりでやってみろ」
「は?」
どんな難しい数学の公式を提示されても、ここまでマヌケな顔で疑問を浮かべないだろう、というくらいの勢いで恵水がイミフメイと顔に書いた状態で俺の方を見た。
「突っ張りの仕方のアドバイスだよ」
「それは、なんとなくそうだとは思ったけど、具体的にどうやるのか、意味が分からないんだけど?」
そりゃ、そう言われるよな、当然。
「ええとだな。相手のおっぱいを寄せて上げるんじゃなくて、その逆だ。相手のおっぱいを横に広げて小さくする、みたいな感じで。……なんだよその白い目は」
確か、白眼視という言葉の語源って、中国の晋の時代だったか。阮籍という、竹林の七賢の筆頭格の人に由来するはず。
……って、そんな、俺が歴史や中国の古典にも造詣が深いことをエラぶってもしかたないな。
「やっぱり監督って、イヤらしいことばかり考えているのね」
「違うってばよ! 言葉で説明しても、なかなか恵水が理解してくれないから、こういう例えになったんじゃないか!」
「そんなエッチなたとえ話を出すくらいなら、実演してみればいいでしょ」
「アホか。それこそ、女子生徒相手に俺がそんな実演をしたら、警察のお世話になっちまうだろうがよ!」
できるもんならやってみたいですけどね。おっぱいに向かって突っ張り。
寄せて上げる、の逆の動作だから、天使のブラの逆ってことで、悪魔のラブ、かな。
なんつって……
……やべ、やべやべ! またオヤジギャグを思いついてしまった。
いやほんとマジでヤベーな。気持ちは若いつもりでも実年齢はアラフォー。ダジャレ精神が俺を精神的にもオッサンへと加速させる。
「別に、私やクロハに対して実演してとは言っていないでしょ。テッポウの柱に向かってやればいいでしょ」
「……あ……」
「ほら、やっぱりエッチなこと考えてばかりいるから、そういう発想になるって証明されたでしょ」
「証明されとらんわ!」
叫びながらも、俺は冷静さを取り戻した。そうだ。確かに言われてみればその通りだ。実演すればいいんだ。土俵の中に入ったら、口うるさい恵水にガミガミ文句を言われて土俵を作り直しとかなってしまうけど、テッポウの柱なら土俵の外にあるのが当然だ。
「あれ? そういえばこの部室、テッポウの柱ってどこにあったっけ?」
「それよ」
そう言って部屋の隅の方に置いてあるドラム缶を示したのは部長クロハだった。
「ここはプレハブだから、柱って無いからね。そのドラム缶に向かってテッポウの練習をするのよ」
テッポウというのは、四股踏みと並んで、相撲の基本的な稽古法の一つだ。
主に、突き押しとすり足の練習をする。
左右交互にテッポウ柱を突く。突いた方の手と同じ足の爪先、特に親指に力を入れて前に向かってすり足を出す。というものだ。
今、俺が恵水に言った突っ張りのアドバイスは、相撲の基本からいったら必ずしも正しくはないだろう。だが、単純にやっていたのでは、腋が甘くなりすぎる。それを抑制するために「腋を締めろ」とは言わずにどう教えるべきか、と思ったのだ。
たとえば、高校野球の監督がバッターに対して「相手投手の高めの球に手を出すな」とアドバイスしては、ヘンに意識してしまって、ちょうどいい高さに来たストライクの球にまで手が出なくなってしまう。それでは本末転倒だ。
だからそういう時はあえて「低めの球を狙って行こうぜ」と言うことがある。……今回の俺のアドバイスは、それと似たようなもんだ。
「ドラム缶か。実演してみろというなら、やってみよう」
俺は部室の隅に移動し、ドラム缶の前に立った。
ドラム缶って、基本的にそんなに背が高いわけじゃない。俺の身長のたぶん半分くらいだから、90センチメートルくらいのはず。
だから、背中を丸めて前傾姿勢になって、両足を大きく横に開いた状態で突き押ししたら、ドラム缶の上辺あたりを突くことになるだろう。
あんまり、やりやすくはないだろうな。でも、柱が無いから代用品ってことで仕方ない。無いモノねだりしても始まらない。
「いいか恵水、よく見ておけよ。こういうふうに突っ張るんだ」
俺は実演してみた。靴も靴下も脱いで裸足だけど、普通に服は着たままだ。土俵のリングの中には入っていないので、目くじらは立てられずに済みそうだ。
ドラム缶に掌を当てると、ゴン、ゴン、と割と軽めの音がした。ドラム缶の中身は空っぽらしい。一発突くごとに、少しドラム缶自体が動く。液体を入れると200リットルくらい入るものではあるが、中身が空だと、ドラム缶は案外軽いものなのだ。
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