第38話 202号室は私の部屋
「知っている歌でも、巧く歌えるかどうかは個人差があるでしょ」
俺は男だし、やたら甲高い女性のソプラノヴォイスを出して歌うのは無理だ。カラオケで歌う場合はガッツリとキーを下げる必要がある。
「歌えるとしても、その歌で人を感動させることができる水準かどうか、っていうのも別問題でしょ」
なるほど。たとえば、音楽の先生は技術的には歌を歌うのは上手いはずだ。だけど、じゃあ歌手になってCDを発売して売れて多くの人を感動させることができるだろうか。
「だから、個人差はあるけど、大抵、誰でも魔法を使えるのよ。魔貫光殺砲、という歌詞とメロディを知らなければ歌えないのと同様に、魔貫光殺砲という魔法も、使い方さえ学べばできるようになるわね。下手だと超しょぼいのが出てきて恥ずかしくて死にたくなるけど」
いやいや。魔貫光殺砲なんていう物騒な魔法、上手く使えるヤツがたくさんいたりしたら危ないだろう。
それって俺の居た現実日本基準で言うと、アウトオブベースに刃物とか、後期高齢者にオートマチックハイブリッドカーとか、そんな感じじゃないのか。
でもやっぱり、俺も一度くらいは魔法使ってみたいなあ。魔貫光殺砲は使えなくてもいいから、ハワイアン大王波は使ってみたい。
そういった雑談をしている間に、けっこう歩いたらしい。
「着いたわよ。そのアパートよ」
クロハが古びたアパートを指さした。
「これは、、、、、、、なんだ?」
「なんだ、とは、なによ」
クロハがつっかかるように言い返した。
「むっちゃくちゃ見覚えのあるアパートなんですけど! しかも横に『田中アパート』って無駄に草書体の達筆な字で書いてあるんですけど」
「それがなんだっていうの?」
「いや、これ、俺が元の世界で住んでいたアパートじゃん。なんでこんな場所に移動しているんだよ?」
そう。
さっき、本来の俺が住んでいた住所には、あるはずのアパートが無かった。代わりに、向かい合わせでドミナント出店のセイコーマートがあった。
それが今。
全然別の場所に、白いモルタル壁の、ただし年月を経て薄汚れているけど、という田中アパートがあるじゃありませんか。しかもそこにクロハが住んでいるというし。
はっ、まさか。
「おいクロハ。何号室に住んでいるんだ?」
「202号室よ」
「やっぱり。そこ、俺の部屋じゃん」
「そうは言っても、こっちの旭川では、私の部屋だから。泊めてあげるんだから、感謝しなさいよね」
恩着せがましいとは、このことだ。なんなの、これ。
異世界に転生したのをきっかけに、俺は住んでいた家を失ってしまった。よりによってそれを、女神クロハが我が物にしちゃっている。
それで、泊めてあげるから感謝しなさいだと。本来俺の部屋だからな。俺が寝泊まりしたって当然だろう。
クロハは、押していた自転車をアパート脇の小さな物置きスペースに停めてガスの配管に輪をかける感じでチェーンロックを掛けると、さっさとコンクリの階段を昇って二階へ。慌てて俺も背中を追う。
202号室の扉を開けるために鞄から取り出した鍵をクロハが差し込もうとする。
「待った」
立ち合いで変化を仕掛ける時でもここまで派手には待ったはかけまい、という勢いで、俺は叫んでズボンのポケットから自分のアパートの鍵を取り出した。
「ここは俺の部屋なんだ。だからこの鍵で開くはずだ」
扉の前に立っていたクロハを押しのけるようにして、自分が扉の前に立つ。俺の鍵を差し込むと、するっと、、、、、
あれ。
がちゃがちゃ。
回らない。引っかかる。
何回か出したり入れたり右に回したり左に回したりしてみたが、いずれも徒労だった。
「もう気が済んだでしょ。どいて」
気力を失った俺は、クロハに横から押されて、横綱曙に押し出される舞の海みたいにその場から6歩ほど後ろに下がった。
クロハの鍵はすんなりと入り、かちゃん、と軽い音と共に宿主を快く迎えてくれた。
ああ、無情。
やはりここは異世界だったよ。外観は同じアパートでも、もうここは俺の部屋じゃないんだ。
「ま、まあ、仕方ないか。大家さんの田中さんが旭川市内で複数のアパートを経営していて、同じような外観やレイアウトで市内の別の場所にも建てていた、という可能性もあるし。そうだ。そうに違いない」
思いつきで言った自分のセリフに深く頷いて納得した。そうやって自分を慰めた。
「さっさと入りなさいよ。忘れずに鍵とチェーンロックをかけてね」
扉を開けて中に入ると、そこは見覚えのある狭い三和土だった。ただし、出しっぱなしにしてある、山歩き用のブーツは、そこには無かった。
鍵、チェーンロック、魚眼レンズ、新聞受け。いずれもこの手のアパートとしては珍しくないタイプなのだろうけど、どこのアパートだって細かな違いくらいはあるものだ。ここは、細かな違いすら全く無くて、かえって違和感バリバリだ。
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