第29話 5時前ですが、帰らせてください

 いや、やれるかどうかじゃない。やるっきゃない。


「ふう。緊張したなあ。でも面談、うまくいって良かったわね」


 大きく息を吐き出しながら、隣に座っていたクロハがやれやれといった表情で立ち上がった。……いや、あなたは緊張する必要無い立場だったでしょ?


「ところで、面談が思ったよりも早く終わったし、まだ5時にもなっていないから、もう一度部室に戻って稽古の続きをするけど、もちろん来てくれるでしょ、城崎赤良新監督」


 製麺工場で働く仕事は明日かららしいので、断る理由も無い。他にどこかへ行く用事も無いしな。


 あれ?


 ここに来て気づいた。俺って、行く場所が無い。


 就職が決まったからには、明日からは製麺工場で働く。自分には該当しないっぽいけどおやつの時間の午後三時になったら魔法学園の相撲部で監督として指導。だから工場と部室は行く場所だ。だがそれって両方とも職場じゃん。


 生活する場所は?


 もちろんここは旭川であるからには、俺の家、というか住んでいたアパートがあるはずだ。


 でも最初にクロハが、ここは異世界だから俺の家は無い、的なニュアンスのことを言っていなかったっけ?


 職場は確保できても、まさか野宿というわけにもいくまい。昼間は蒸し暑い季節であっても旭川は北海道の中でも半分よりちょっと北に位置する寒冷の地だ。真夏であっても朝晩は冷え込むことが珍しくない。何の装備も無く野宿とかしたら、風邪をひきました程度で済めばラッキーな部類だ。


 職場は確保したけど、寝泊まりする家はどうしようか。


 まずは、自分の家があるのかどうかを確認しに行かなくては。


「俺は、今日はもう家に帰らせてもらうわ。元の世界とちょっと違う旭川みたいだから、家でちゃんと生活できるかどうかを確認したい」


「え? 何を言っているの? 女神の導きによる異世界転生なのよ? そこのところ分かっている?」


 分かっていますとも。異世界転生だ。でも来た世界がなんとなく元の旭川っぽいというだけで。


「異世界に転生して、元の家があって生活が確保されるなんて、そんなクソアニメを観たことあるの?」


 さあ。アニメマニアの俺といえども、日本の全てのアニメを視聴しているわけではない。異世界転生ものだって、全部が全部を観たということでもない。そういう設定のものだってあるかもしれない。……仮に今の時点では無かったとしても、これから将来的に出てくるかもしれないじゃん。


「時間の無駄だから、普通に相撲の指導をしなさいよ。そんなに未練たらたらになるような立派な豪邸だったとでもいうの?」


 そんなわけあるか。


 旭川だよ。北海道では札幌に次ぐ第二の大きな都市ではあるが、日本全国から観たら田舎の北海道の田舎町だ。そんな田舎町に、立派な豪邸に住むような金持ちが存在するかっていうの。……アニメの中には旭川の豪邸に住むお嬢様がメインヒロインという設定が出てきたけど。


 そんな豪邸に住めるくらいの大金持ちだったら、俺としてはまず最初に、旭川駅前のホビーショップに展示されている巨大な戦艦大和の模型を買いたい。税抜き価格で俺の月収総支給額の8カ月分だ。


 それに、家に対する愛着って、立派な豪邸かどうかじゃないだろう。掘っ立て小屋に毛が生えた程度のよーなボロ家屋であったとしても、そこで生まれ育ったとしたら愛着が湧くというものだ。


 そうこう言いつつ、俺とクロハは再び地上に戻った。また例の貨物用エレベーターに乗ってモノのように運ばれて陽光の下に出た。


 あ、いや。やっぱり空はどんよりと曇っていて、太陽は全くうかがえない。それでいて蒸し暑い。なんなんだ今日の旭川の天気は。もしかして現実の旭川と違って、これが異世界標準気候だとかいうわけじゃあるまいか。


 プレハブの部室に戻ると、そこでは、たった一人残っていた部員の佐藤恵水が、土俵を作り直している最中だった。


 あ、そういえばそうだった。男の俺が上がったから汚れたとかなんとか言って、土俵を一旦崩して作り直すとか言っていたんだった。まだ作業を続けていたのか。


「あ、おかえり。ごめん、まだ土俵、できていないんだ」


 それでも重労働であることは間違いない。恵水は激しい稽古をしているのと同等じゃないかと思えるくらい、汗をかいて肩で呼吸していた。汗をかくのは、蒸し暑い気温のせいかもしれないけど。


「いったん土俵の表面を削って、俵も掘り出して、その上で改めてお祓いをして、それからまた土を被せて固めているんだけど、うまく水平にならないのよね」


「大体でいいんじゃないのか?」


 俺は親切心で言ったのだが、恵水はそうは受け取らなかった模様だ。目を三角形に怒らせた。


「相撲部の新しい監督サマが、そういういいかげんなことを言ったら困るんじゃないですか。相撲というのは神聖な儀式でもあり、上は神を祀り下は魔を制する、と言われるものでしょ。いいかげんな精神では、強くなるものも強くなれません」


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