(2)最後の告白
夜、ディーナは金の窓枠から見える外を、ベッドに腰かけて眺めていた。暗い。本来なら見える川面を輝かせて流れるラーレ川も今は闇の中だ。
ふっと息を吐くと、視線を室内へと
戻した。
五室あるという王妃の間ほどではないが、この寵姫の間でも四室はある。今いる寝室は、四間ある部屋の一番奥だが、一人で使うならここだけでも十分だと思えるぐらいに広い。
ほかの間と同じように、部屋全体は金と白に彩られて、夜の暗がりさえかき消してしまいそうなほど眩しいが、それでもため息がこぼれてくる。
(本当に陛下が来るのかしら……)
こつこつと、時計の針は確実に時を刻んでいく。
けれど、針が進んだ先にあることを考えて、ディーナは自分の胸元をぎゅっと握り締めた。
昼間着ていたドレスは、湯浴みの後、新しく仕えてくれている侍女達によって夜着に替えて用意されていた。
(それが何を意味しているのか……)
わからないほど子供ではない。
(だけど……)
迷うように、部屋の奥にあるもう一つの扉をじっと見つめてしまう。大きな棚の間にある扉は、普通に見れば隣の小部屋に通じているように見えるが、実際は、短い通路を挟んで王の部屋に続いている。
(あの部屋の扉が開いた時……)
その後に待っていることを考えて、震えそうになる体を抱きしめた。
「お寒いですか?」
しかし、突然体を抱きしめたディーナの様子に気づいたのだろう。新しく仕えてくれている侍女のサラが、驚いたように声をかけてくる。
幼い頃から、乳母や召し使いに囲まれて育ったから、周りに人がいるのには慣れている。だから、ディーナは少しだけ緩んだ表情で、優しく見つめた。
「ああ。ごめんなさい……。少し、緊張して……」
悪女になるにしても、仕えてくれる人にまでひどい主になる必要はないだろう。公爵家で使用人をしていたイルディを思い出しながら、心配をかけさせないように微笑む。
「ああ」
けれど、サラは納得したようだ。
「仕方ありませんよね。もうすぐ陛下も来られますし」
「そうなのだけど……」
(本当に、あの陛下が私を求めたりするのかしら?)
いくらアグリッナのためとはいえ、あれほど頑なにほかの女性を拒まれていた王のこれまでの言動を考えると、どうにも信じられない。
だから、本当なのだろうかと口を開いた。
「ねえ。陛下が、翌朝私達のシーツが検められると言っていたのだけれど」
すると、急にサラの顔が赤くなった。
「は、はい。申し訳ありません。それも王室省から、私達侍女に命じられている役割ですので……」
「そうなの……」
(では、やっぱり本当なのだ……)
王にしたら、抱きたくもない相手だろう。それなのに、アグリッナを守るために決断したのだろうか。そう考えると、ディーナの体を握り締めた手が急速に冷えていく気がする。
けれど、サラは、青くなったディーナのことを勘違いしたらしい。
「すみません。やっぱりご気分が悪いですよね!? 特に今宵はご結婚されたのも同然の日ですし」
「え?」
「だって、正式ではなくても公式の寵姫という陛下の奥様になられたのですもの。きちんと結ばれたか確認されると聞いて、気持ちの良い方はおられませんわ」
サラの言葉に愕然とする。
(陛下の妻。結婚の夜)
今まで思いさえしなかった言葉が、心に重くのしかかる。
(私が、陛下の妻の一人……)
「そ、うね……。だから、しばらく一人で心の準備をしたいのだけれど。かまわないかしら……」
必死に言葉を搾り出す。そうしなければ、恥ずかしそうに伏せた顔が真っ青なことに気づかれてしまうと思ったからだ。
だから、労るように微笑むサラが、礼をして扉を出て行くのを確かめて、ディーナはぎゅっとベッドのシーツを握り締めた。
「わかっていたわ……!」
わかっていたはずだった。
それなのに、現実は何もわかっていなかった。
(ひょっとしたら、二年たって役目が終われば、またイルディに会えるかもと思っていたのよ……!)
しかし、突きつけられた現実は、描いた夢を脆く崩していく。
(たとえ二年たって会えたとしても、どんな顔で気持ちを告げられると言うの……!)
それまでの間、ほかの男の妻になって、何夜も抱かれて過ごすことになるというのに!
二年たって寵姫の立場から解放されれば、またイルディを探して同じ職場で働けるかもしれないとほのかな夢を描いていたのだ。
「馬鹿だわ……私……」
(そんな時をすごした後で、どんな顔で会えるつもりだったの……)
これからの自分に待っているのは、好きでもない相手に、恋されてもいないのに抱かれる未来。
ぎゅっと体を抱きしめる。
「わかっているのに……」
(ただイルディに、二度と会えないという未来だけはわかりたくない……)
王のことは尊敬している。アグリッナを守りたいと思う気持ちにも変化はない。
それなのに、牢の中で優しく髪を撫でてくれた広い手だけが忘れられない!
少しだけかさついた掌。
そして、いつもと同じ少し低めの声。
「あの時、気持ちを伝えればよかったわ……」
(どうして、自分はこんなにも恋に不器用なのだろう……)
不誠実な男に騙されて。次にやっと好きになった相手ができたのに、言い出すことさえできなかった。
二年たって、陛下に寵姫の位から解放されても、あれだけ陛下を尊敬しているイルディが、今更陛下の妻だった自分の気持ちを受け入れるとは思えない。
きっと、昔とは違う関係になるだろう。少なくとも、自分の感情を知れば困惑するのに違いない。
(それでも)
「会いたいのよ……」
(言うことができなくても、せめてもう一度だけでも会いたかった……)
イルディの気持ちだってわからない。ほかに誰か好きな人がいるのか、自分のことをどう思っているのか。
それでも。
もう一度側で一緒に働いて、笑いかけて欲しかった。妹にするつもりでもいい、同じように優しく髪を撫でてほしかった。
(でも、きっとこれからは、それさえ望めない……!)
示された現実に堪え切れなかった涙が、ディーナの頬を伝い落ちていく。
それがぽとりと、シーツに小さなシミを作る。
「せめて、さようならと言いたかったわ……」
しかし、現実にはありがとうと口にすることさえできなかった。一杯手伝ってくれて、いつもさりげなく側で助けてくれていたのに、感謝の言葉すら伝えていない。
わかっている。今更、イルディの伴侶になる夢なんて見ない。
(それなのに)
「会いたかったわ……」
どうしても、我慢できない言葉が口からこぼれ落ちる。
陛下の妻の一人になる身で、本当はそう願うことさえ許されないのかもしれない。
きっと、会いたいと口に出すことさえ、これからは許されないだろう。
(それでも)
きっと忘れられない。
強情と言われても、思い込みが激しいと言われても、心の中でやっと咲いたこの恋の花だけは捨て去ることができない。
「会いたいわ……」
誰にも伝えられない言葉を、ディーナは誰もいない空間に向かって呟いた。
「貴方が好きだったのよ……」
だから、きっと口に出すのはこれが最後になる。そう思いながら、ディーナは震える声で天井に向かって呟いた。
(言葉にできるのは、これが最後)
頬を流れていく一筋の涙を感じながら、ディーナは誰にも伝えられない告白が、白い天井に吸い込まれていくのを、じっと見続けた。
そして、ぐいっと手の甲でこぼれる涙を拭う。その時だった。がちゃっと言う音がしたのは。
はっとディーナが振り向くと、棚の横にある扉の金のノブが回っているではないか。
(来た!)
そして、静かに開いていく白い扉を強張ったまま見続けた。
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