(5)罠の奥から伸びてくる罠


 王宮の西側で、弟が調達してきた馬にイルディは急いで乗ると、側で見送るディーナを振り返った。


「馬ならば、ラオス公爵邸までは往復で半時もかかりません! 私が帰ってくるまでの間、陛下をお願いします!」


「わかったわ! アグリッナ様にも陛下がこの話を受けるつもりはないことをお伝えして!」


「わかりました。大丈夫です! アグリッナ様から手を回して、グアテナイ大公爵に反対を唱えていただきます。いくら友好条約を持ちかけられていても、国内の三大公爵家である二家に反対されたら、王家も返事をする時間を稼げるはずです!」


 力強く頷くと、イルディは馬の手綱を握り締めた。そして鐙で腹を蹴り、王宮の門をくぐっていく姿を見送る。


 ――アグリッナ様。


(心の中では、きっと陛下を嫌われてはいないのに……)


 どうして、うまくいくことができないのだろう。


 悲しい想いを抱えながら華麗な王宮に足を向けると、宮殿を包む周囲はゆっくりと暗くなり始めていた。


 けれど玄関を入ったホールはまだ多くの人が行きかっている。ドレスの裾を引く幾人かの貴婦人とすれ違いながら、大きな蝋燭が揺らめく大階段を上る。そしてあまたの絵画に彩られた王の部屋の前に立った。


(陛下……)


 きっと、今も悩まれているのだろう。


 時間はもうかなり過ぎたが、部屋の中には複数の人の気配がする。


 一度深呼吸をすると、ディーナはイルディの言葉を心で反芻して、扉に向かおうとした。


「あのう」


 けれど、足を一歩踏み出そうとした時、廊下の奥から一人のメイドが声をかけた。そして、金の茶器セットを持ちながらディーナを見上げている。


「これから陛下のお側にいかれるのですか?」


「ええ、そうよ」


 自分と同じぐらいの年だろう。新米なのか、まだどこか所作が慣れていない感じのメイドに頷いて答える。


「よかった! さっきから入室禁止にされていて、お茶をお届けすることができなかったんです。替えてくるようにと言われたんですが、もし入れないのなら、側におられる女性の方に預けてくるようにと言われて」


 ほっとしているメイドが話しているのは、きっと陛下の部屋つきの侍女のことなのだろう。


 もっとも、陛下の極端なまでのアグリッナへの純潔証明のために、身の回りに仕えているのは今はほとんどが侍従で、侍女はほんの一握りしかいないが。


 だから困っていたのだろうと、ディーナはメイドが持っていた金の茶器を盆ごと受け取った。


「いいわ。これを陛下のお部屋に置けばいいのね?」


「はい、お願いします!」


 愛らしい笑顔を浮かべて、メイドの子は、黒いスカートを翻していく。


 遠ざかっていく後ろ姿を見つめ、ディーナは閉まっている王の部屋の扉を見つめた。


 一度息を吸って口を開く。


「陛下。ディーナです」


 ディーナの声が響くや、扉が内側から開かれた。開けてくれた侍従に一礼をすると、重厚な机に座ったままの王の表情を見つめる。


「アグリッナ様のところへは、イルディが行ってくれました」


 下を向いている王の顔は暗い。だが、ディーナの言葉に、俯いていた顔を持ち上げると細く笑う。


「そうか……あいつなら大丈夫だろう」


「陛下――」


(なんて、ひどい顔なのかしら)


 きっとあの後も悩まれていたのだろう。ひどく憔悴してやつれた顔が痛ましい。だから、ディーナは机に金の茶器を置くと、カップを取り上げて紅いお茶を注いだ。


(せめてお茶でも飲めば、少しは気分が落ち着くはず)


 そして、湯気に優しい香りを纏わせている金のカップを王へと差し出す。


「イルディが言っていました。アグリッナ様から、ラノス公爵家とグアテナイ大公爵様に反対してもらい、時間を稼ぐと」


 金のカップにゆらゆらと輝く紅いお茶を一口飲みながら、王は小さく苦笑する。


「私は――二人にいつも助けられているな。アグリッナには、私が守るどころか、辛い想いばかりさせているのに――」


「陛下」


 柔らかい香りをあげるお茶を見つめる王の瞳が、あまりにも切なそうで、思わず息を飲んでしまう。


「ですが、私はきっとアグリッナ様は陛下のことをお好きだと思います。それは、今はまだ信頼とか柔らかな思慕のようなものかもしれません。でも、あのはっきりとしたアグリッナ様が本当に嫌われているのなら、たとえ一秒でも陛下がお側にいるのを許されるとは思えないのです」


「なんか慰められているのか、止めを刺されているのかわからない言葉だな……」


「いえ、異性と意識されてないというだけで。たとえば父とか兄ぐらいにはお好きだと確信できるのです」


「だから、やっぱり塩を塗りこまれている気分なんだが……」


「あら、でも陛下はその方が燃える性分なのでしょう? こう身悶えしたいような微妙な感じが」


「だから、なんで貴方の中での私のイメージは被虐趣味なんだ!」


 けれど、口を大きく開いた王にディーナは優しく笑いかけた。


「よかった。やっぱり陛下はそれぐらい元気な方が、らしいですわ」


 ディーナの言葉に、王が開いた琥珀色の瞳をきょとんとさせた。けれど、その瞳がすぐに柔らかく微笑んでいく。


「そうか、そうだな」


「ええ。きっと何もかもうまくいく方法がございます。だから、陛下も落ち込んだりされず――」


 その時、笑っていた王の口元から一筋の赤い血が流れ落ちた。


「――――えっ?」


 一瞬何が起こったのかわからなった。けれど目を開いたディーナの前で、王が突然咳き込むと、口から溢れるように鮮血が迸り出たのである。


「陛下!?」


 急いで駆け寄る。しかし、激しい咳で溢れてくるのは真っ赤な血ばかりだ。


「陛下!? 陛下、しっかりして!」


 苦しそうに身を屈める王に走り寄ったディーナの側で、机に置いてあった金のカップが、血そっくりのお茶を紅く撒き散らしながら床へと転がっていった。

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