第26話 グスタフの思い
バタンとグスタフは窓を閉める。
「知人も少なそうなので、謹慎中の身でここに来るとしたらそんな理由だと思っていましたが、わたくしにそんな権力はありませんよ」
「謹慎のことを知っていたのか」
「知らなくとも、リュドミラ皇女が幽閉されたと聞けばだいたい予想はつきます」
「なるほど。賢いな」
「イヤ、フツウデス」
この調子で変な騎士に巻き込まれたらたまらない。
「ここをどこだと思っているんですか。ザーリー卿の膝元の大蔵省です。何をしたところで睨みが効くんです。そんなところに一人で乗り込むなんて正気の沙汰じゃない!」
「まあ気にするな」
クローヴィスは適当に書類の山をひょいとどけ、そこに胡坐をかいて座った。完全に居座るつもりのようである。なんとずうずうしい。人の話を聞いていない態度に、グスタフも意地を張りたくなってきた。
勝手にしていてくださいと言って、仕事に戻る。
しかし、ぐぅ、と腹の虫が鳴った。そういえば、丸一日何か食べた覚えがない。
するとクローヴィスが騎士服の上着の内側のポケットからごそごそと何かを取り出した。
「食べるか? さっきうちの護衛隊の一人が余った食材で作ったものだが、こっちに来るとき一つだけ失敬しておいた」
油の引いた紙で包んだサンドイッチ。野菜とタレのついた鶏肉が入っていた。
旨そうだ。口の中に唾が溜まっていくのがわかった。
「……これを食べたら協力しろとは言いませんよね」
「俺はそんなケチな真似はしないぞ」
「では遠慮なく」
グスタフは大口でかぶりついた。まだほのかに温かく、スパイスの利いた鶏肉の旨味がじわあっと広がる。野菜は水気が切られていて、とても食べやすい。
夢中でサンドイッチを貪るグスタフを眺めていたクローヴィス。不思議そうな顔をしていた。
「……なんか違うんだよなあ」
「は?」
「心にしみる感動がない」
「ハア?」
唐突に何を言い出すのだ、この男は。
「リュドミラのことだ」
「は……ああ、そういうことですか。食べるわたくしを見て、皇女殿下を思い出したのですか。で、殿下とは違うと。当たり前ではないですか」
「わたくし男、殿下は女性」とグスタフは自分を指さしながら言う。
「短い間に、主従愛が芽生えたのですか? 意外ですね、あなたは寄る辺を持たない根無し草だと思っていたのに。そんなに皇女殿下は魅力的な方なのですか。それも意外です」
考えながらも食べる手は止めない。あっという間に平らげた。そうしたら今度は別のポケットから小さな包みを取り出した。
ハンカチで包んであったのは端が少し焦げたクッキーだった。硬くて保存が利きそうだ。
「今度は何ですか」
石のように固いクッキーをガリガリ齧りながら尋ねれば、「俺の手作りだ」と答えが返ってくる。聞かない方がよかった。
「実はリュドミラのおやつになるはずだったのだが、本人がいないうちに腐ってしまうからな」
「これ、皇女の歯がぼっきぼきに折れるやつです。やめましょう」
「そうか?」
よくわかっていなさそうな顔でクローヴィスが石のクッキーを一枚頬張った。地獄の断末魔のような音が聞こえてくる。
「蜂蜜をもっと足した方がいいか? 甘い方が女の子は喜びそうだよなあ」
「わたくしに聞かれても」
なんだかんだ普通に相手にしてしまっている。自分のペースに持ち込むのが上手い男だとつくづく思った。何よりも自分が多少なりともこの男に対して親しみを感じているのがいけない。このままずるずると行きつくところまで行きつく予感がする。
「話を戻しましょう。わたくしは協力しませんよ。協力するメリットがありません。いくら知り合いでもそのあたりの判断はシビアにさせていただきますから」
「ふうん」
太い眉がひょいと上がる。普段から動物的な直感に頼っていそうなこの男は面の皮の下で何を考えているのか掴みづらい。
「協力の話は別として考えてみても、この先頑張っていけば、思い描いていた通りの将来がやってくるのか?」
「う……痛いところを突きますね」
「賢いから自分のこれからのことも見えているだろう? だが俺にはおまえがそれで満足しているとは思えない」
「わたくしの野心の話ですね。ええ、そうですね。かつてわたくしにもなりたい自分があって、理想もありました。ただ流されるだけで皇宮には勤められません。わたくしは、自ら進んで皇宮に入りました」
「ここで何をしたかったんだ?」
グスタフは思い出そうとした。そして、「思い出そう」とする行為そのものが、過去の希望に満ちた自分から遠ざかっていたことを気づかせることになった。
「ハッセルの祖母に言われたのです。『人生で砂時計は何度ひっくり返せるのか』。砂時計はきっちり時間を測りますが、そう長い時間を測ることはできません。人生は思ったよりもはるかに短く、その中で思ったように物事を動かせるのは小さな砂粒ほどのことだけです。『ずるをするな』、『真面目に生きろ』、『自分に誠実であれ』。……わたくしはこの通り、小賢しい人間となりましたから、祖母の言葉を正面から受け止めることができません。昔とは変わってしまいました」
あのおっかない祖母は今のグスタフを見たら失望するに違いない。そんな人間にするために故郷から出したんじゃないと。だから勤め始めてから一度も帰れていない。手紙も出さなくなった。
「今のわたくしがこのままいけばきっとこの国に使い潰されてどこかへ消えてしまうのかもしれませんね……」
「グスタフはよしとするのか?」
「それを聞くのは残酷だ」
グスタフは何げなく手元の書類を掴んだ。例の不思議な筆跡の書類が、まだ消えずにそのままある。自分が成し遂げられるのは、謎の書類の持ち主に官僚教育を施すことぐらいなのか。
「なんだそれは?」
「大蔵省の怪文書です。ときおり迷い込んでくるのですよ」
へえ、とクローヴィスが覗き込む。これはリュドミラの字だぞと言った。
「ハア?」
二度も聞き返す。今、何と言った。
「蝋板に書く文字の癖が同じにみえる。たぶんそうだ」
「なぜ!?」
「知らん」
男二人、顔を突き合わせて首を傾げる。その謎は置いておくことにして、クローヴィスはすぐにグスタフに追い出された。
わざわざ窓と扉を全開にして、大声で「いやですよ! ぜったいやりませんからね! わたくしを巻き込むぐらいなら早く帰ってください。もう二度と関わらないように!」と叫びながら。
夜。クローヴィスの寝室の扉が叩かれた。こそこそと入ってきたその男はずり下がった眼鏡を直しつつ、「昼間のあれはそうやらざるを得なかっただけで本心ではありません」と語った。
「半分ぐらいは嘘だと思っていてください。でもこれだけは言えます。……わたくしは、あなたの味方をしましょう。わたくしの、小さな信義にかけて」
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