第7話 彼は目撃する

 

 塔の上の食事を終え、皇女は最上階にある本の巣、もとい自室に戻った。クローヴィスは一人で黙々と片付けを済ませ、行きと同じように大荷物を抱えて塔の螺旋階段を下りていく。


 一段ずつ下りながら思うのは、皇女殿下のことだ。


 本来の彼女の身分からすれば、クローヴィスが作る料理はだいぶ粗末であるはずだ。しかし、当の本人は琥珀色の目をきらきらさせながら頬張っていた。表情そのものは固まっていたが、目だけは感情を物語っているのだ。これまでの食生活がどれだけ絶望的なのかを思い知らされる。


 人間の根本的な欲求は食欲、睡眠欲、性欲と言われるが、すくなくとも最初の二つを満たせなければ、人は簡単に死んでしまう。


 特にクローヴィスにとって耐えがたいのは睡眠欲よりも食欲の方だ。高級食材や高級な調理法などは必要としないが、お腹をいっぱいに満たすことを重視する。彼は自分自身が何度も飢餓体験をしてきただけに、食に対して貪欲なことを自覚していた。

 それは、目の前でやせ細っていた少女におせっかいを焼きたくなるほどには重症なのである。


「あの……」


 塔から下りた時、ランプを持った人影が立った。昼間も見た侍女だ。


「ああ、確か……」

「キャロライン、と申します」


 彼女は軽く頭を下げた。下げたまま、じっとしている。

 クローヴィスは不審に思った。


「何の用だ?」

「……昼に、厨房の場所をお聞きしていたようですが、その後はどうでございましょう」

「ああ。今は腹いっぱいでぐっすり眠っているんじゃないか?」

「え? それはどなたが……?」

「皇女殿下が」


 顔を上げた女は黙り込んだ。その場を去らないので何か言いたいことがあっているのだろうが、ちっとも言わない。

 クローヴィスの思考はずれていく。

 たとえば、今晩の寝床はどこだろう、とか。

 たとえば、宝玉騎士の仕事をちゃんと聞いてなかった、とか。

 たとえば、明日の食事は何を作ろう、とか。


「それならば、今晩のお食事はいりませんね」


 やっとのことで彼女はそんなことを告げる。クローヴィスも一応辛抱強く待っていたので「それがなんだ」とは思ったが言わずにおいた。


「宮廷を統括する侍従長から、あなたさまのお部屋へ案内するようにと承っております」

「そうか。よろしく頼む」

「それと……夫からも伝言がございます。わたくしの夫はザーリーと申しまして、皇国の重職についておりますが、ハッセルからいらした宝玉騎士のことを耳にしたようです」

「そうか」


 皇女の言っていたことは正しかったらしい。このキャロラインを通じて、向こうにも伝わったのだ。


「『そのうち、我が家に招待させていただこう。ぜひ仲良くさせてもらいたい』、と」

「フレンドリーな内容だなあ」


 どういうつもりで言っているのかさっぱりわからない。

 この国の人からすれば、クローヴィスは小さな属国からやってきた妙な外国人だろうに。

 いつものことながら、彼は考えるのを棚上げにした。どうせ自分から会いにいけない立場の人だ。仲良くなりたいなら向こうから接触してくるに違いない。


「ではわたくしは伝えましたので、このままお部屋にご案内しますね」

「ちょっと待った」

「はい?」


 キャロラインは不思議そうに振り返る。


「この東塔には警備の兵はほとんどいないようだが、大丈夫なのか?」

「ああ、それはご安心ください。皇宮に賊は入れません」

「内部に賊がいたらどうするんだ」


 彼女は眉根を寄せた。聞くな、と言わんばかりの表情。

 そして、首元からわざわざネックレスを取り出して、そこについていた宝石ごと握りしめる。


「東塔に好んで近寄る者などおりません。……『東塔の化け物姫』のことは皆存じておりますもの」

「『化け物姫』? 皇女殿下のことか?」

「はい。しかし、これ以上のことは申し上げられません」


 握りしめていた手が、離される。悲しげにうつむいた侍女はそれ以降、ほとんど口を利かないまま、彼を新しい自室に案内した後、どこかへ去っていった。

 彼が入ったのは一人用の客室のようなところだ。寝台と書き物机があり、シンプルな壁紙が貼ってある。

 風呂は近くの部屋同士で共有しているらしいが、彼が浴室に入っても誰もいなかった。

 浴室で汗を流してから、部屋に戻る。

 一度は寝台で眠りにつこうとした彼だが、何やら眠れない。

 それは新しい生活がはじまったという高揚のためでもあり、キャロラインから『東塔の化け物姫』の話を聞いたためでもある。

 貴人の女性は常に仕える者たちに囲まれているのが普通だ。これは身の回りの世話をさせるためだが、決して警戒の意味を込めないで置いているわけではない。

 まして彼女は足が悪いばかりでなく、高い塔の最上階に部屋があっては逃げ場がどこにもない。

 侍女が安全だと言っても、クローヴィスは信用できなかった。むしろ、誰かがずっと傍にいないこと、そのものが危険なのではないか。

 クローヴィスは宝玉騎士である。よくわからないがなってしまったのである。さらにリュドミラとは個人的に傭兵としての契約も結んだ。傭兵ならば主の安全は最優先になる。


 そんなわけで。クローヴィスは夜中に東塔へ向かった。夜目が利くからと照明器具は何も持って行かなかった。はためには完全なる不審者だ。

 だが、彼を見咎める者はいない。人影はどこにもないのだ。

 物言わぬ塔の前で一度立ち止まる。上を見上げると、彼はゆっくりと螺旋階段を上る、上る……。

 最上階まで、誰にも出会わないまま、目的地の前の扉まで来た。

 そして、そうっと扉の隙間を広げていく……。

 寝台が見えた。人が入っているようにこんもりと盛り上がっている。本の山は相変わらずだが、何も起こっていないのを確認できたのでよしとする。

 クローヴィスは皇女の安全を確認した後、その下で座りながら仮眠を取ることに決めていた。人が近づこうとすれば眠りから覚めるので、皇女の安全には一番良い方法だろうと考えたのだ。

 しかし、階段を再び降りかけたその時。彼の耳目は異常を認知する。

 ワン! と後方で何かが吠えた。犬だ。

 彼が振り返った時、螺旋階段をかたかたかた、と犬が上っていく音が聞こえる。螺旋階段のカーブで切れた黒い尻尾が、なぜか暗闇なのに見えた。

 そして同じように銀色の残滓を残すように翻った三つ編みが階段の陰に消えていく……。

 リュドミラ皇女は、歩けないはずなのに。


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