第1章ー8 妖精の国

        (1)


 朝はあまり好きじゃない。起きなければいけないから。


 元々、寝起きが良い方じゃないというのも関係しているのだとは思う。でもそれ以上に、この適度に暖かで狭い空間が好きなのだ。体温と同じくらいの羽毛布団に、優しく身体を押し返してくれるマットレス。その中で丸まって、温もりに浸る。恥ずかしい言い方をすれば、お母さんに抱かれているような気分になる。


 少しも動きたくないと瞼はわがままを言い、裏側のゴロゴロとした不快感で目を開けることを阻止しようとしている。それどころか、もう少し休んでいようぜと言わんばかりに、わたしの意識をまどろみの奥へ引きずり込もうとする。気を抜くとそのまま落ちてしまいそうだ。


 だけど、いつまでもそうしているわけにもいかない。なぜならわたしにはやることがあるからだ。

 一度頭まで潜り込み、そこで深く息を吸う。えいや! という心の中での掛け声に合わせて、ふっ、と短く力んで勢いそのまま上半身を起こす。


 身体は思った以上にだるかった。身体中の筋肉が弛緩してしまったような感覚が少し気持ち悪い。まるで、何日も眠ってしまっていたみたいだ。昔経験した栄養失調の時の感覚にも似ている。身体が鉛のように重い。そんな感覚だ。


「んん……っ。ふぅ……」


 寝起き独特の倦怠感を飛ばすための伸び。無意識にかすれた声がもれた。


 ——……だるい。


 それでも、倦怠感はあまり消えなかった。熱はないようだし、昨日の疲れがたまってしまったんだろうか。


「いま、何時……」


 目をこすって、がさつく不快感を飛ばす。昨日のあの後、ハルと町に出る約束をした。だから疲れが残っているとはいっても寝坊はできない。年下のハルに、初日からみっともない姿を見せるわけにもいかない。時間は確か……九時だったはずだ。


 とは言っても、わたしが起きなければ八時半にはヴァネッサが起こしに来てくれるはずだ。来ていないということはそういうことなのだから、急ぐ必要もないか……。


 それでも、いつもの癖で枕元に置いてある懐中時計を探る。指先に触れた冷たく細長いものをつまんで引っ張り上げる。銀色の懐中時計が朝日を反射している。チカッと瞬いた反射光が目を刺す。


 竜頭を押してハンターケースを開く。

 長針は「十二」の少し先を、短針は「九」を指している。


 時刻は、午前九時だった。


 …………。

 ……。

 …………………?

 …………………………っ!?


「うそ! 九時!?」


 つまるところ、わたしは初日から寝坊をしでかしてしまったようだ。

 一気に意識が覚醒する。さっきまで心地いい毛布で包まれ温かかった背中が、一気に冷たくなった。

慌てて布団を跳ねのけて起き上がる。


 すると、ベッド横の棚には水差しとグラス、グラスに挟まった紙きれがセットで置かれていた。

 見覚えのないものだ。グラスを持ち上げて、下の紙を抜いて開く。


『寝かせてあげてほしいとのことでしたので、そのままにさせていただきました。エイダンフォード様はお部屋にいらっしゃいますので、準備ができたらお申し付けくださいませ』


「…………」


 アネットとハルは、わたしを起こすことよりも寝かすことを優先したようだ。


「はぁ、ま、いっか」


 職務放棄、命令無視、に当たるのかもしれないけれど、これはわたしの健康を気遣ってくれた結果なんだろう。ヴァネッサにとってわたしの客人になるハルにも言われれば断れないだろうし、それにわたしはそんなことで怒れるほど偉くなったつもりもない。とりあえず、ハルの好意に甘えたということにしよう。


 指向をひと段落させ、周りに意識を向ける。

 すると、


 ——……あれ?


 その異変には、すぐ気が付いた。


 ぐるりと部屋を見渡す。だけどぱっと見、大きく変わったところはない。家具の配置も、わたし物の位置も変わったところはない。変わったのは、新しい服が置かれていることくらいだ。


 ベッドから降りて靴を履き、もう一度部屋中をぐるっと見渡してみる。何度も、何度もい兵がないか見回す。それでも、やっぱり昨日と変わったところは見つからない。と言いうことは、変わっているのはわたしが気が付いたコレだけなのか。


 家具や部屋の模様なんて、そんな解りやすくて形のあるものなんかじゃなくて、でもいったん気が付いてしまうと、何で今まで気が付かなかったんだろうと思うくらいはっきりとした変化。どうしてこうなっているのかわたしにも解らない。


「この部屋、こんなに明るかったっけ?」


 ひと言で言うと、部屋中がキラキラと瞬いていた。

いろんな色のガラス片が、霧みたいに細かくなって舞っているような風景だ。それぞれの色が自分を主張するわけでもなく、でも確かに目には映っている。白一色だった陽光に、色が付いたといった方が適切だろうか。


 何が光っているのかは分からない。だけど、ほこりや虫とはまた別の何か。それだけは確かだ。

 急に好奇心がわき、おもむろに窓の方へと歩み寄る。もしかしたら、部屋の中だけじゃなくて外も同じように見えるのだろうか——そんな淡い期待を抱いて窓ガラス越しに外を見る。だけど、ガラス越しではよく見えない。窓の留め具に手を伸ばす。


 と、


「…………?」


 ピタリと、窓鍵に伸ばしていた手を止める。なぜなら、そこには小さな先客がいたからだ。


《—————っ、——。————っ!》


 そこに居たのは、〝影〟だった。

 もっとも、「影」と例えたのはそれ以外にどういっていいのか思いつかなかったからだ。


 人間の影をかたどったような容姿で、大きさは中指ほど。色はもちろん真っ黒で、その体には厚みというものが無かった。影だから当然といっていいのか、目も口も鼻もない。


 ちょうど、紙を小人サイズにカットしインクで染め上げたような風貌。だけど不思議なことに、その身体を透かして向こう側の窓を見ることもできる。不気味なのか可愛いのか、何とも形容のしがたい光景だ。そんな訳の分からない先客が窓の鍵部分に張り付き、必死に鍵を外そうとしているのだから触ろうにも触れない。


「…………えぇ……?」


 あとから思い返してみたのだが、このときこんな謎生物を前にしてここまで冷静でいられたのは、多分、向こうがこっちの存在に気が付いていなかったからだ。そうでなかったら、この時点で悲鳴を上げていたと思う。


《—————。……!》


 唐突に、謎生物がこっちの存在に気が付いた。ピタリと向こうも動きを止め、無い目でこっちを見つめる。やがて、何かを閃いたようなリアクションを取り、鍵から手を離した。


 そしてびしりと〝きをつけ〟の姿勢をし、右手をぴっと可愛らしく上げて——、


《——Hi!》


「—————っ!?」



          ◇◆ 


「ああ、そいつはドウパーマンっていう奴らだよ。妖精の分類に入ってるんだけど、生き物っていうよりも精霊寄りかな」


 正体不明の謎生物に挨拶をされて数分後、気が動転したのか、気が付いたらハルの〝蟻塚〟に飛び込みソファーに座らされていた。わたしが飛び込んできたとき、梯子に登って壁の本棚の整理をしていたハルも、作業を中断してテーブルをはさんで向かい合って座っている。


 ふと我に返ると、さっきまでの年甲斐もなく慌ててしまったことで顔が熱くなる。大声で訳の分からないことを叫びながら部屋の中に倒れ込む……まるで子供だ。


 そう後悔していると、ハルとわたしの目の前に、湯気の立つカップが置かれた。

 色は茶色で、甘い香りがする。多分、ココア。用意してくれたのはもちろん、ハルと共にここで暮らしている少女ソフィだ。


 ココアを置くとすぐに、ソフィはわたしから離れてハルの後ろへと回る。


「ありがと。ソフィちゃん」


「! ……どういたしまして」


 ビクリと身体が跳ね、蚊の鳴くような声でそう言ったのが聞こえた。頭に付いた耳はピンと立っている。まだ警戒されているようだ。


「ありがと。ソフィはもう奥に行ってていいから」


「は、はい」


 ハルのその言葉を聞くや否や、ペコリと頭を下げてソフィは後ろの扉の向こうに消えていった。それでも律義にわたしにもお辞儀をしているんだから、やっぱりあの娘はいい子だ。


「ごめんな。まだ慣れてないみたいで」


「ううん、気にしないで。わたしこそごめんね。寝坊しちゃったし、勝手に入ってきちゃったし」


「いいよ。昨日あれだけのことがあれば疲れるのだって当たり前だし。ちょうどやりたかったこともあったし」


「そう言ってくれるとありがたいな……あ、話戻していい?」


 寝坊の件は免罪符をもらったことだし、とりあえず彼女との友好関係についても後程考えることにする。飛び込んできた原因について話さなくては、わたしは何をしに来たのかということになってしまうからだ。


「あれが妖精なの?」


「うん。ああ見えて、あいつらもちゃんと生き物だからな。違うのは食べ物が大気中のマナっていうことだけ。日向は嫌いなはずなんだけど、わざわざ出てくるなんて珍しいなぁ……」


 妖精とは、この世界にもいる別次元の生物らしい。わたしたち動物とは違い、マナという物質を摂取することで生きていくのだという。


 マナというのは魔法行使の際に必需品なもので、わたしたちの世界でいうところの石炭やガソリンに当たるものなんだとか。イメージは水で、水蒸気のように空気中にたくさんあるところもあれば、草や果実に凝縮されていることもあるらしい。


 妖精はそれを栄養にしていて、体がタンパク質でできている生物寄りのもの、身体そのものが高純度のマナの凝縮体でできているものの二種類だ。つまりあのドウパーマンという妖精は、空気中のマナを食べる精霊寄りの妖精になる。


「でも、やっぱりお嬢様なんだな」


「? どういうこと?」


 意外そうな顔をして、ハルはホットココアを口に運ぶ。つられてわたしも、疑問符を浮かべながらもココアを一口含む。

 彼女が入れてくれたココアは、とびきり甘かった。


「だって、あいつらは暗くて湿った場所なら大抵いるんだよ。あいつらを見たことないって、そういうところに言った経験が無いってことになるだろ? だから相当なお嬢様だなぁって……気を悪くしたならごめん」


「別に気にしてないわよ。言われるまでそんな風にとらえてなかったから。でも……」


「でも?」


 ハルの言うことは至極もっともだ。確かに、上流階級の女性がそんなところに行くなんてことはまずありえない。暗くて湿っている場所なんて、女性どころかそれなりに身分のある人なら忌避するような場所だ。


 だけど、わたしはハルの言う条件には当てはまらない。


「わたしは行ったことあるわよ? ていうより、住んでた」


「……どゆこと?」


「わたし、養子だもの。こっちに引き取られるまでイーストエンドに住んでたわ」


「はぁ?」


 鳩が豆鉄砲を喰らったら、きっとこんな表情をするんだろう――素っ頓狂な返しをするハルを見ながら、わたしは呑気にそんなことを考えていた。


 ハルが驚くのも無理はない。自分自身でも、どんな偶然があったんだと未だに不思議に思っているのだから。

 イーストエンドは、ロンドンのとある一区画のことを指す言葉だ。これは正確な呼び方ではないし、明確な境界線もない。そして、この呼び名は決して良い意味ではなく、侮蔑や軽蔑といった負の意味で使われることしかない。「人間の不良品倉庫」という言葉すら聞いた。少なくとも、わたし個人でいい思いをしたことは一度だってない。


 人が寝られるスペースが無かったり、あっても腐った木で作られた建物なんかはざらで、床に穴が開いていることだってある。毎日の食べ物に苦労する人たちがほとんどで、衛生状態も最悪。まともな感性を持った人はまず生きてはいけない場所だ。貧困、人口過密、病気、犯罪で町ができているといってもいい。どれくらいヤバい町なのか。それは、切り裂きジャックの事件が起こった区画だといえばわかると思う。


 そんなわけで、湿っていて薄暗い場所なんか町中にいくらでもあった。わたしの住んでいた教会だって、部屋の中を思い出そうとするとどうしてもそんな環境が写りこんでしまう。


 だけど、今の今まで、あんな妖精は見たことが無かった。ついの一度も。


「…………そんなこと、あるか……?」


 話を聴いたハルは、首をかしげてブツブツと何やら独り言をつぶやいている。声をかけるのもためらうほどの雰囲気の上、いつの間にいたのか、遠くの扉からソフィが〝話しかけんなよオーラ〟をこっちに向かってはなっている。いま話しかけたら確実に嫌われそうだ。


 どれくらいそうしていただろうか。


「あ、そうか。そういうことか」


 何かに気が付いた表情で、ハルが顔を上げた。


「リーナはさ、起きた時、不思議な感じがしなかった?」


「例えば?」


「視界がまぶしかったりいろんな色がチラついたり」


「うん。あった」


「じゃあ〝覚醒〟だ」


「かく、せい?」


「そう」


 覚醒——聞き慣れない用語だ。本来の意味で使うなら、目が覚めるとかそんな感じだったはず。だけど、ハルの口から言うのなら魔法が絡んできているのだろう。

 今、この状況で、最もふさわしいと思う意味は……、


「それって、妖精が見えるようになるとかそういう?」


「そう! どんぴしゃそれ」


 すっと、ハルがソファーから立ち上がった。


「まず、初めから説明すると……」


 そのまま部屋の一角——巨大な棚が置かれている場所まで歩いて行き、立ち止まる。そしていくつかの引き出しを開けて、何かを探し始めた。


「種類にもよるけど。こっちの世界の人間たちは基本的に妖精を見ることはできないんだ。だけどごくまれに、妖精が視える目を持つ人もいる」


 紐でまとめた紙の束が引き出しから取り出され、無造作に床へと置かれる。時たま、使い道の解らない道具も現れ、それに引っ付くようにして半透明な生き物が飛び出してくる。


 ペンのような胴体に羽が生えたもの、宝石のような形をしたもの……多分あれも、妖精なんだろう。寝床だった場所を荒されて、所在なさげにハルの周りをうろついている。


「それは、訓練して視えるようになるとかじゃないの?」


「訓練なんか意味ないよ。視える眼を持・っ・て・る・か・持・っ・て・な・い・か・の話だから。羽が無い人間が訓練しても空は飛べないだろ? どんなに水に慣れても、エラが無いと水の中で息はできるようにならないだろ? 妖精が視えるっていうのはそれと同じ。視える眼を持ってる人は最初から視えるし、視えない人はいつまでたっても視えない—————ここも違うな……」


 どうやら、棚にはお目当てのものはなかったようだ。棚のある場所から離れ、次に向かったのは壁の一面を占める埋め込み型の本棚だ。その中で、赤く縁どられた部分を指でたどっている。


「それじゃあ、わたしはどうなるの? 断言するけど、今まであんなものを見た記憶なんて一度もないわよ?」


「それは、目に負担がかかるからって理由で脳が情報を遮断していただけだよ。使えるものを使っていなかっただけ。それでついさっき、その機能が目覚めた。だから〝覚醒〟」


「…………」


 元々持っていた能力――確かに、思い返せばその前兆と思えるものはあった。

いままで当たり前に聞いてきて、すっかりわたしの日常になっていたもの。その存在そのものが当たり前になっていて、今まで意識していなかったもの。でも確かに、他人にはないわたしだけの経験がある。


 〝声〟だ。小さいころから当たり前に聞こえていたあの声だ。あれはきっと、妖精たちの声だったんだ。


 だからだろうか。物心ついた時からずっと、視えなくてもその存在を感じていたから、だからこんなに穏やかなのだろうか。妖精を視ても、驚くだけで怖いとは思わないのはそのせいだろうか。


「でも、どうして視えるようになったんだろう」


「ドラゴンとのエンカウントがトリガーじゃないかなぁ。元々、リーナには妖精を視る眼があった。だけどそんな情報は必要ないから、脳が自然にその経路を閉じていた。でも、昨日のショックでその経路が開いた、とか…………あ、あった」


 本背表紙をなぞるように動かしていた指が止まった。そのまま一冊の本の角に指をあてて引っ張り出す。だいぶ使っていなかったみたいだ。背表紙だけが少し劣化していて、表紙自体は新品みたいに鮮やかな色をしている。


 いろいろなものを中に挟み込んであるらしい。取り出された本のあちこちから、ページとは別の部分が飛び出している。いろいろ挟まれたその本の、赤い栞のようなものが挟まれている場所を開く。お目当てのものを見つけたらしく、「よし」と小さく呟いたのが分かった。


 本を元の場所に戻し、くるりとわたしの方へと向き直る。


「ちょっと聞きたいんだけど、身体に不調があったりはない? 目が痛いとか、頭が痛いとか」


「ううん。もう大丈夫。でも、」


「でも?」


「慣れるまで苦労しそうね。しばらくは疲れやすくなっちゃうかも」


 起きた時の感覚がこの眼の所為なら、きっとそうなるんだろうという確証があった。


 今のわたしの視界を説明するには、どんな例えがふさわしいだろうか。自覚できるようになった色の数が何倍にもなった。もしくは、人間の世界と妖精の世界を同時に見ているような状態といった方がいいだろうか。見たくなくても入ってくる情報が、昨日と比べて倍になっていると考えてもいいのかもしれない。


 視覚情報が一気に何倍にもなっているんだ。いまは特に何も感じなくても、きっとどこかで弊害がやってくる。無理をすれば危ないんだろうなということが、なんとなくだけれど理解できていた。


「うん。そりゃあ初めはそうなるよ。処理する情報がいきなり倍以上になるみたいなもんだから」


「やっぱりそうなんだ」


「だから、今日はその目の使い方を教えてもらいに行こう」


「え? どこへ……。——っ!」


 ひょいっと、赤い手帳がわたしに投げられた。町で見かけるような小型のものだ。受け取ってみると、表紙には開花する一輪の花とその周りを飛ぶ二人の妖精の影絵が描かれている。その下に、見たことのない文字が刻まれている。

 しかしその中に一か所だけ、見慣れた単語があった。


《―PASSPORT―》


「妖精の国」


 描かれているイラストが妖精の理由が、今、分かった。


          (2)

 カツカツという靴音が、狭い空間に反響する。周りに明かりらしいものはなく、あるのはハルが持っている緑黄色のランプだけだ(中では火ではなく発光する石が入っている。ハルによると、これは輝煌石というらしい)。


 歩いているのは、どこまでも続く地下道。高さはわたしの身長の一・五倍くらいで、じめじめとした空気が閉鎖感を増幅させる。ランプの光が届かない通路の先は真っ暗闇で、その向こう側では何かがうごめいているようにすら感じる。


 草も苔も生えていない。ネズミさえいない無機質で不気味な石の通路。昨日までのわたしなら、ここはそうとしか見えていなかっただろう。だけど、今は違う。わたしの目には、生き物以外の何かがちゃんと見えている。


 まず、そこかしこに居るのが朝も見たドウパーマン。三、四人でひと固まりになって、石の陰からわたしたちのことを覗いている。わたしたちが通るときはしっかり隠れるあたり、もしかしたら怖がりなのだろうか。


 それ以外には、半透明の生物たちが見え隠れしている。ところどころにある壁の割れ目では、ミミズにトカゲの足をくっつけたようなものが出て入ってを繰り返しているし、上には羽の生えた風船みたいなものが張り付いている。縮んで膨らんでを繰り替えしているから、呼吸しているんだろうなということは解る。


 ここには、魔法寄りの生物しか棲んでいない。そもそもここはどこなんだろう。わたしの思考は、いまから数十分前にさかのぼる。


 付いてきて——そう言われて連れてこられたのは、港町ニューポートだった。

 ハイストリートを歩き、ハルが立ち止まったのは一軒の店。かなり老舗みたいで、看板は日光で劣化していてあまり読めなかった。中は薄暗くて、何に使うのか解らないガラクタがたくさん棚に並んでいる。この店は多分、アンティークスショップなんだと思う。


 奥から出てきたのは、この店の雰囲気とは真逆な若い少年だった。見た目だけで言えば、わたしとどっこいどっこい。茶髪で背が高く、キラキラとした瞳が印象的だった。ハルが彼とひと言ふた言はなすと、彼はわたしとハルを店の奥へと案内してくれた。


 そこにあったのは、地下に通じるはしご。そこが見えないほど深いはしごを下ること数十メートル。一本の地下道に出た。それがここだ。


 その後、降りた場所から歩くこと数十分。

 以上、現在に至る。


「この道って、いつできたの? 相当古いみたいだけど」


 ずっと静かな雰囲気に耐えきれなくて、ハルにそのことを尋ねてみた。

この地下道は不思議だ。いったい何の目的で作られたものなのかが解らない。なのに、異常なほど先まで続いている。場所と場所をつないでいるなら、一体どこを目指して伸びているんだろうか。もうだいぶ歩いているから、直線距離にすると町の外に出てしまっているような気がする。


「んー、俺も詳しくは知らないけど、通路自体は結構前からあったって聞いてる。ここまで伸びたのは……多分、ジョージ王戦争のときかな」


「そんなに前から!?」


「びっくりだろ? これで気づかれてないんだから、妖精ってすげーよな」


「じゃあ、さっきの人も……」


「あれは違う。あのひとは人間だよ。リーナ同じような人だって思えばいいよ」


 わたしと同じ人、というのは協力者という意味だ。


 ハルたち魔法使いにいくら隠す技術があったとしても、そもそもの話この世界の人間ではないのだから十分に馴染みきるのは不可能だ。どこかでボロが出てしまう。それを防ぐためにあらかじめわたしたちの中から何人かに協力を仰いでいるらしい。


 頼むのは、当然わたしと同じ妖精が視える人たちだ。彼らの中には、小さいころから迫害を受けてきたという人たちも多い。妖精が視える人たちにとっては、ハルたち魔法使いの方が親しみが湧くのだという。確かにそうかもしれない。ずっと自分にしか見えなかったものを共有できる仲間が現れたら……わたしもだって協力的になってしまう。


 他にも、こっちの世界で先天的に妖精が視える〝魔術師〟という人たちとも連携を取っているらしいが。その辺りについては詳しくは教えてくれなかった。ハルの方にもいろいろあるみたいだ。


 だけど代わりに、そのお詫びと言ってそのほかのことは色々と教えてくれた。


 わたしが見えるようになった妖精は、実はわたしたち人間と同じように国によって統治されているらしい。火のサラマンダー・風のシルフ・水のアンダイン・土のノームの四大一族で構成されていて、人間に見つからないように生活しているんだとか。それぞれにも役割があって、彼らが密接に連携することで妖精の国は回っている。


 そしてそれを統治する長が、妖精王オベロンだ。


「いま向かってる妖精の国って、その〝妖精の国〟?」


「お察しの通り。オベロンが治める妖精たちの国のこと。この通路だって、ノッカーっていう小人の妖精が掘ったんだぜ?」


「へぇ、そうなんだ」


 雑談という名の講義は、とても有意義なものだった。


 わたしが気のせいだと思っていたものが、実は風の妖精たちの仕業だったり。妖精でも生物寄りの妖精たちは目を凝らせば常人にも燃えることだってあるということや、マナが充満している場所は世界でも限られていて、力場という特殊な空間を作っているということ。マナの影響は鉱物や植物など多岐にわたって、マナをため込むことで効果が変わるものが多いということ。


 いままで見えていなかった世界の話は、とても引き込まれたし、何より楽しそうに話すハルを見ているのが微笑ましかった。何というか、教会のちびっ子たちが遊んでいる時の表情になんとなく似ていた。多分、横で話す本人にそれを言うと不貞腐れるから言わないけれど(童顔であることはハルも気にしているらしい)。


 そんなこんなで、十分くらい話していただろうか。

 唐突に、


「……ここかな」


 通路の真ん中で、ハルは立ち止まった。


「ここ?」


「そう。ちょっと、目つぶってもらえる? ここからは流石に見せられないし。ほいっ、これ付けて」


 手渡されたのは、真っ黒に染められた布だ。巻き付けると、目の部分を覆えるくらいの幅がある。言われた通りに巻き付けて、頭の後ろで縛る。

 縛り終わると、わたしの両肩にハルが手を置いた。


「それじゃ、じっとしてて」


「っ。…………うん」


 いつになく真剣な声でそう忠告して、ハルは口を閉ざした。さっきまでとの違いに、無意識に身体が強ばってしまう。


 真っ黒な布をつけて視界がふさがれているからだろうか。聴覚が嫌に過敏になっているような気がする。自分の心音、地下道を通る微かな風、物陰からわたしたちを覗く彼らの足音まで聞こえる。


 数秒だったのか、数十秒後だったのか、


「よし。もういいよ」


 大きく息を吐き、後ろに立っているハルがそう言った。さっきとうって変わって、気の抜けた声だ。どうやらハルが布を外してくれているみたいで、後ろに頭が引っ張られる。


 布が外れる。

 光あふれる豪奢な廊下に、わたしたちは立っていた。


「……! え? あれ!?」


 まったく意味が解らなかった。状況が呑み込めなかった。

 ついさっきまで、確かに地下道の中を歩いていたはずだ。目をつぶっている間に誘導されたと考えても、それ以前にわたしは一歩も動いていなかったはず……。


「企業秘密ってことで」


 わたしの疑問はお見通しだったようだ。ハルは口の前で右人差し指を立てて、クツクツと笑いながらそう言った。


「さあ、行こう。こっち」


 唖然とするわたしなんてお構いなしに、ハルは廊下を歩き出した。


 わたしたちが歩く廊下は、例えるなら高級ホテルのようだった。時代を感じる木の色と、赤褐色の明かりがきれいに調和している。床に敷かれているカーペットは柔らかくて、足音を程よく殺してくれる。


 と、向こう側から人影が現れた。ロングコートを羽織り、深く帽子をかぶっている長身の人物。そのせいで、顔も性別も解らない。でも、すれ違う瞬間にチラリとみると、コートの下から長いしっぽを引きずっていた。その後ろを、ここ数時間ですっかり見慣れた半透明の生き物たちが追随している。よく見ると、肩にもくっついていた。


 ——そっか、ここが。


「ここが妖精の国なの?」


「正確にはその一歩手前。今向かっているのが入国ゲートに当たる場所。もうすぐだからそろそろパスポート出しといて」


「ええ」


 言われるがまま、ここへ来る前に貰った赤い手帳をポケットから取り出す。


 この手帳は、わたしのような覚醒者が使うものらしい。ハルの話によれば、わたしのように何らかの理由で魔法に関わった人物には、保護の目的でこの手帳が渡されるらしい。こっちの世界出身で妖精が視える人材は貴重らしく、妖精や魔法を人間の世界から隠すために必要不可欠らしい。


 もちろん、こうして外部から人間を連れてくることは妖精の国にとってもリスキーなことだ。でも、人間の世界では異端だと迫害される恐れがある人たちがいるなら、保護してできるだけ協力してもらえるようにしているんだとか。


 そんなことを思い返していると、前に入り口が見えてきた。扉は開いていて、その先の部屋にはカウンターのようなものが据え付けられているのが見える。そこに立っているのは、天井に頭が付きそうなほど大きく真っ黒な影。ちょうど、朝見たドウパーマンを大きくしたような見た目だ。


 ——不気味。


 入り口で立ち止まる。


「もう一度訊いとくけど、武器とか持ってきてないよね? 銃とか、軍の手帳とか」


「言われた通り置いてきたわ」


「じゃあ心配ない」


 そう言って、ハルはわたしの後ろに回った。


「さ。先に入って。俺は後から行く」


「え? わたしから?」


 ぐいっと、背中を押されとっさに前へと踏み出す。一歩、足が部屋の中に入った。

すると、


《………………。》


今まで興味なさげに別の方向を向いていた黒い影が、くるりと首だけ・・をこっちに捻ねじった。


「…………」


《…………。》


 無言のまま、互いに見つめ合う。向こうには鼻も口も耳もなくて、人間だったら目があるはずの場所に光る丸い何かがはめ込まれている。何とか笑顔を作っては見るけれど、反応は全くない。はっきり言って、不気味だ。


 帰りたい。


 顔が引きつる。だけど、いつまでもこうしているわけには行かない。そうだ思い出せ、イーストエンドでの暮らしを。治安が悪いあの場所の雰囲気を。雰囲気だけなら、ここよりよっぽどひどかった。


 ——よし、行こう。


 意を決して歩を進める。部屋は狭いので、たった数歩でカウンターまでたどり着く。

 カウンター越しに、影と対峙した。


 と、


《—————見ナい顔ダ》


 何人もの人間が同時に喋ったような、そんな独特の声だった。


「今日が初めてです。ハル・エイダンフォード二級魔法士の紹介で来ました」


 笑ってしまうほど、声が強ばっている。


《パスを》


 右手で持っていたパスを渡す。いきなり、影の腕が伸び、パスポートを握る手ごと包み込んだ。


「————っ!?」


 冷たくてぬるりとした感触。冷えたタコが絡みついているみたいだ。否応なしに鳥肌が立つ。だけど抵抗したらもっと大変になるような気がするから必死に耐える。


 ぬらりと、腕が影の方へと縮んでいく。気が付くと手にはパスポートが無く、いつの間にか触手のような腕に絡み取られていた。器用にページを開き、影がパスポートに目を通(しているように見える)す。その後いくつかのページを確認し、ぱたんとパスポートを閉じた。


 また腕が伸びてくる。しかし、今度は腕に絡みつくようなことはなく目の前で止められる。差し出されるパスポート。わたしが受け取ると、腕は影の本体の中に消えていった。


《六バン通路ハ工事中。向コウ側へは〝リフト〟ヲ使うよウに》


「え、ええ。忠告ありがとう」


《右ノ通路をまっスグ》


 伸びる触手が指す通路に、明かりがともった。


          ◇◆


「もう少し説明してくれてもよかったじゃないっ」


「ははは。やっぱ怖かった?」


「寿命が縮むかと思ったわよ……。あんなの見たのは今日が初めてなんだからね?」


 ごめんごめんと、手を合わせながらハルが謝ってくる。文句を言いはしたが、そこまで攻め立てるようなつもりもないので「いいわよ」とあきらめ気味に言葉を返す。

 ハルが、わたしの顔色を窺うように弁解した。


「俺だって本当は言ってあげたかったさ。でも、変にアドバイスはできないんだよなぁ」


 訊けば、稀に外部の組織がここにたどり着くことがあるらしい。しかし、素質がある者じゃないとあの人(とりあえずそう言っておく)は見えるはずがないので、黙って通ろうとして大抵が捕まるのだとか。


 つまり、あの受け答えができた時点でほぼ試験はクリアしていたらしい。だからこそ、あの人もあれだけ饒舌にしゃべったのだとか。……あれで饒舌だとすると普段仕事に差し支えが無いのだろうか。


「あんな頭悪そうな見た目だけど、一回入国した奴の顔は全部覚えてるから普通は顔パス顔パス」


「全員?」


「そうそう。全員のほくろの位置まで」


 それにしても、このハルという少年は不思議だ。

 普段は歳相応というか、この時期の男の子によくあるやんちゃな性格で、完全に見た目と言動が一致する。先の破天荒ぶりというか、何も説明しない部分なんかは本当に見た目相応だ。良い風に言えば茶目っ気がある、悪く言えばいたずら小僧……といったところだろうか。


 だけど、ふとした拍子に印象ががらりと変わる。確かにそんな瞬間がある。


 魔法について話すとき、実験道具を使う時、この場所に入るために目隠しをした時の後ろから掛けられたあの声——彼の年齢を忘れてしまう。まるで、わたしなんかよりもよっぽど長く生きてきたみたいに感じてしまう。例えるなら、先生というのが一番近いかもしれない。


 と、


「……? どうかしたの? 笑ってるけど」


 クツクツと、かみ殺せない笑いが漏れていた。


「いやぁ、ビビってる姿が結構笑えたから——痛って!? ちょ、ごめんって!」


 訂正する。やっぱり子供だ。


          ◇◆


 ハルがからかい、それを制裁し、ハルがまた謝る。そんなことを続けること数分。長い廊下が途切れ、先に扉が見え始めた。今度は説明なんかされなくても良く解る。あの先が、妖精の国だ。妖精の国だからなんだろうか、電球も何もないのに、地下通路が地上と変わらないくらい明るい。


「明るい……ここ地下よね?」


「まあね。妖精たちも光があった方がいいから」


 ピタリと、扉の前でハルは立ち止まる。

 扉の取っ手を握って、


「小人たちは地下に潜む」


 キザったらしい台詞を吐き、ハルが扉を開けた。

 地下に差し込む光が、わたしたちを包み込んだ。


「わあぁ……っ‼」


 ここが地下だと言われていなければ、劇場だと言われてもきっとわたしは騙されていた。


 百回いまに立ち戻っても、気づかないと確信できた。だってそれくらい、目の前の光景はド胆を抜いていたんだから。


 オペラ座と言ったら解りやすいかもしれない。ものすごい広さの空間が広がっていて、ちょうど、すり鉢を二つ合わせたような形だ。その壁も、歌劇場よろしく二階、三階、四階とテラスのようにくり抜かれていて、奥にも空間があるということが解る。


 そして、その階同士をつなぐ垂直型のリフト。それどころか、同じ階同士の向こう側に渡るための乗り物だってある。もっとも、それは空を飛んでいる。術者が何かを唱えると、ふわりと空中に浮きあがっていた。


 ——魔法って、すごい。


 心が踊っているのが自分でも解る。心臓がどきどきして、お酒を飲んでいるみたいに身体が熱い。叫びだしたいような、走り出したいような衝動に駆られる。新作の小説を読む時だって、気に入ったものを店で見つけた時だってこんな風にはならなかった。


 ——こんな気分、いつぶりだろう。


 いつまでだって、この景色を眺めていたい。


「向かうのは三番通路だからここから歩いた方が、」


 ハルが言葉を切った。多分、わたしがハルの話なんか聞いていないということを悟ったからだ。

 隣で、堪えきれず吹き出したのが分かった。


「……リフトに乗っていこうぜ」


 多分気を使ってくれたんだろう。苦笑いしながら出された提案に、わたしは深く考えることもなく子供みたいに頷いた。

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