003 自殺志願の子供たち

 目を覚ますと、僕は自分の部屋のベッドに横たわっていた。

 灰色の天井。見慣れた壁の傷。

 室内は薄暗い。

 時計に目をやると、短針は真上を指していた。一時間以上眠っていたようだ。

「目ぇ覚めたか」

「……カズ」

 ベッドの傍らで椅子に腰かけているカズの顔は、暗くてよく見えなかった。

 上体を起こすと、胸元が汚れていることに気が付く。吐しゃ物のようだった。

 頭がずきりと痛む。

 ベッドから降りて立ち上がろうとすると、身体がよろめいた。

「まだ無理すんな。ひでえ発作だったんだ」

 カズの言葉を無視してベッドから降り、コンクリート打ちっぱなしの無機質な壁に向き合う。

 ………………。


 がちん。


 額から脳髄にかけて電流のような痛みが響く。視界がくらんだ。

「おい、何してる」

 がちん、がちん。

 がちん、がちん、がちん。

「やめろ馬鹿!」

 カズに後ろから羽交い絞めにされ、無理やり壁から引き剥がされる。

 額が熱い。痛みは感じない。

 何かが麻痺してしまっているようだった。

「落ち着け。自棄になってんじゃねえよ」

 あれが夢だったんじゃないかとは、微塵も思えなかった。

 はっきりと覚えている。あの匂い。あの光景。

「……夜夢と俺で確認したが、あの死体は女のものだった。ほぼ炭化してたから死因まではわからねえし顔も服も判別不可能だったが」

 死体。

「ベッドの傍にこいつが落ちていた」

 差し出されたカズの手の平には、紐のようなものが乗っていた。焼け焦げて千切れてしまっているが、それは植物の蔓のようだった。

 ……ミサンガ。

「お前が作ったやつか?」

「いや……色が違う。これは……僕の作ったミサンガじゃ、ない」

「そうか」

 それだけ言ってミサンガをしまう。

「あの場で、全員で結論づけた。あそこで死んでいたのは美來だ」

「嘘だ」

 美來が死ぬはずがない。死ぬ理由がない。


 ——なんて。


 僕の心は、どうしようもなく理解してしまっていた。

 不意にカズを殴りたくなった。こんな時に平静を保っているカズを。

 拳を振り上げ、たいした力も込めず、カズの顔あたりに向かって振った。

 カズは避けなかった。硬い頬骨が拳にぶつかる感触がした。

 そしてその一瞬の後——僕の方が吹っ飛んだ。壁にぶつかってずり落ちる。口の中に血の味が広がった。

「美來に自傷癖があったのは知ってるか?」

 それは唐突な質問だった——が。

「知ってたよ」

 僕が答えると、そうか、と意外でもなさそうに言って、カズは椅子に腰を戻した。

「普段は明るく振る舞ってたが、あいつはずっと自分の力のことで苦しんでいた。お前がここに来てからはずいぶんマシになったが、それまでは本当にひどいもんだった。何度も自殺未遂を繰り返して、マジで危ない時もあった。医者からはBPDだとか言われたらしいが……どうだかな。あいつにはあいつにしかわからねえ苦しみがあった。それだけは間違いねえ」

 両手の拳を握ったり開いたりしながら話す。よく見ると、左手の平が赤くただれていた。火を消そうとして火傷を負ったのだろうか。

 ――美來の能力。

 美來は、自分の力を『未来』に関するものだと言っていた。

 未来。希望。だけどそんなのは欺瞞だ。

 僕は知っている。過去でも現在でも未来でも、この呪われた力は、その持ち主に痛みしか与えないのだと。

 あの美來に限って自傷行為なんて、と思うけど、死んだ方がマシだと考えたことは僕にも何度もある。

「つまり、美來は自殺したと?」

「さあな。俺にはわからねえ」

 わからない——つまり、その可能性は否定できない。だけど。

「……さっき気を失ってる時、夢を見てたんだ」

「夢?」

「いつだったか、三人で夜に抜け出して壁を登っただろ。あの時の夢を見たんだ」

 カズは黙っていた。

「美來は言ってたよな。世界を救うんだって。それに、また皆で壁に登ろうって」

「そういや言ってたっけな、そんなこと」

「だから、あれは自殺なんかじゃない」

 カズの顔色がわずかに変わった。

「美來が自殺なんてあり得ない。美來が、僕たちに何も言わず死を選ぶなんて考えられない」

「お前はじゃあ、こう言いてえのか。美來は誰かに殺されたと」

「そうだ」

 僕は断定する。

「この中にいる誰かに殺されたんだ。僕が必ず犯人を見つけ出す」

 それからしばらく沈黙が続いた。カズは何かを考え込んでいるようだったが、ややあって口を開いた。

「俺はよ、もう全部をご破算にしちまっても構わねえと思ってる」

 椅子がギシ、ときしんだ。

「お前は俺たちを兄妹みたいだと言ったが、俺とあいつはまったく逆なんだよ。俺はずっと過去しか見てこなかった。てめえの未来なんて捨てていた。俺にとって意味のある未来はあいつだけだった。だからもう、俺にとっちゃ終わってるんだよ。真実なんて知りたくもねえし、犯人捜しに協力する気もねえ。お前が何をしようと、俺は傍観しかするつもりはねえ」

 薄暗い部屋の中で、僕を見据えるカズの目だけが猫みたいに光っていた。

「それでもやるのか。お前は、このクソみてえなゲームを続けるのか」

「やるよ。命に代えても」

 深いため息をつくと、カズは椅子から立ち上がった。

「食堂にいるから、落ち着いたら来い」

「すぐに行く。皆はどうしてる?」

「玖恩がダウンして、上井出が部屋で介抱してる。伴動も部屋に戻った。他は全員食堂に集まってる」

「そうか。じゃあ後で」

 部屋から出て行こうと扉の前に立ったところで、カズはぴたりと足を止めた。

「ひとつ言い忘れてた。あの部屋には、使用済の注射器が落ちていた」

「美來のか?」

「さあな。一本だけ、空の容器が床に落ちていたのを天照が見つけた」

「一本だけ? 他の二本は?」

「美來の部屋も探したが出てこなかった。見つかったのはそれだけだ」

 それだけ言い残して、カズは部屋を出て行った。


 一人になると、自分の中身まで空っぽになったような心持ちになった。

 目を閉じると、美來の顔が浮かんだ。様々な情景とともに。

 急に妙な歌を歌い出したり、枝に髪を絡みつかせたり、頓珍漢なことを言って僕を困らせたり、頬を膨らませて怒ったりしていた。

 あんなに長かった髪を切っていた美來。何の願掛けだったのかは聞けずじまいだったけど、叶ったのだろうか。叶っていたらいいと思う。

 願掛けと言えば、僕の作ったミサンガも行方不明のままだけど、もう探す意味もなくなってしまった。


 ——何もかも、なくなった。


 ふいに吐き気がこみ上げ、口を押さえてトイレに駆け込むが、むせるだけで胃液すら出てこなかった。

 深呼吸してパニックの発作を抑え込む。最近はだいぶ落ち着いていたのだけど。

 大丈夫。これくらい平気だ。なんでもない。深く息を吸え。ゆっくり吐け。

 心を殺せ。冷たく、氷のように。何も考えるな。何も感じるな。

 大丈夫、なんでもない。落ち着け、大丈夫、大丈夫、大丈夫——


 ようやく平静を取り戻してトイレから出ると、もうカズが出て行ってから三十分も経っていた。

 すぐ行くと言ったのにずいぶん遅くなってしまった。

 皆が待っている。

 ――行こう。

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