008 黒白のエレジー

 食堂とその隣にある娯楽室をぐるりと取り囲んでいる回廊の外側に、僕たちの私室は並んでいる。

 僕たちが通ってきた裏庭への通用口が、時計で言うところの十二時の場所に位置していて、そこから時計回りに玖恩さん、上井出、天照さんの部屋が北側の通路に並んでいる。東側の廊下には中央棟への連絡通路があり、南側には僕、伴動さん、カズ、美來、華雅、夜夢さん、そして空き部屋が一室という順で部屋が並ぶ。また北側に戻り、倉庫、図書室、洗濯室ときて一周し、通用口へ戻る。

 南側の見渡しのよい長い廊下には、誰の姿も見えなかった。


 覚悟を決めてノックを二回。

 ――反応なし。


 聞こえなかったのだろうか。勢い込んで来たものの、こうして焦らされると緊張が増してくる。

 と、その時、なにやら香ばしい匂いが鼻孔をくすぐった。

 この燻ったような匂いは……煙、だろうか?

 建物内で火は使えないし、外で誰かたき火でもしているのか。

 いや、そんなはずはない。

 中庭への出口は反対側だし、部屋の窓はすべて嵌め殺しで、通風孔の類も一切ないのだから、外気がここまで洩れてくるなんてことはあり得ない。

 一度美來の部屋の前から離れ、廊下を歩いてみる。カズの部屋、伴動さんの部屋、僕の部屋……匂いが弱まっていく。

 今度は逆側へ行ってみる。美來の部屋を通り過ぎ、華雅の部屋、夜夢さんの部屋……匂いが強まった。その先は誰も使っていない空き部屋だ。

 そして僕は発見した。空き部屋の扉、そのわずかばかりの隙間から、白い煙が漏れ出しているのを。

 全身に鳥肌が立つ。

 燃えているのか。部屋の中で、何かが。


「火事だ!!」


 できる限りの大声で叫ぶ。

 ノブをがちゃがちゃと乱暴に回すが、鍵がかかっていて開かない。

 誰も中にはいないということか? じゃあどうして煙が?

「火事というのは本当かい?」

「おいおい、マジかよ」

 夜夢さんと華雅が部屋から顔を出した。二人の部屋は空き部屋から近いため、僕の声が聞こえたのだろう。

「二人とも、皆にこのことを伝えて回ってくれ!」

「了解だ。私はこちらの部屋に声を掛けてくるから、華雅くんは逆サイドの皆を頼むよ」

「あ、ああ。わかった」

 他の人たちのことは二人に任せて、僕はなんとかして扉を開けることに専念する。とはいっても鍵がないのだから、つまるところ力づくしかない。

 思い切り体当たりをする。扉は硬く、肩に痛みが走る。二度、三度……ダメだ、一人ではとても破れそうにない。


「どけ想介!」


 その言葉に従う間もなく。

 気付いた時には、いつの間に現れたのか、全体重を乗せたカズの蹴りが破壊的な衝撃音とともに扉に炸裂していた。

「カズ!」

「もういっちょだ。合わせろ想介」

 扉と壁の間にわずかに隙間ができている。僕の体当たりでびくともしなかった扉の錠がカズのひと蹴りで破壊されたらしく、シリンダー部分がガタガタにぐらついている。もう一息で破れそうだった。

「いくぞ! 1、2の――3!」

 二度目の蹴りで錠がへし折れ、金属製の扉が派手な音を立てて開いた。ぽっかりと開いた空間から白煙が雪崩のように湧き出してくる。

「おい、大丈夫か!」

 振り返ると、上井出と玖恩さんが走って向かってくるところだった。華雅が呼んでくれたのだろう。

「この煙、何かが燃えてるのか!?」

 煙のせいで室内の様子は見えない。慎重に室内へ入り、火元を確認して、必要に応じて消火をすればいい。

 それだけだ。簡単だ。

 なのに、何故。どうして身体が――動かない。

 足が一歩も出ない。言葉が出てこない。

「おおっ!? マジで火事じゃねーか!」

 天照さんの声。

「あっち側は全員連れて来たぜ」

 華雅の声。

「こちら側もひと通り声をかけてきたよ」

 夜夢さんの声。

「奥から二番目の部屋からは返事があったよ。女性の声だった。他は応答なしだが、もう全員揃っているということかな」

 そうか。夜夢さんは、誰がどの部屋の住人かを知らないのだ……。

 口が乾く。冷や汗が滲む。心臓が口から飛び出そうだ。

「お前らはそこにいろ」

 と、カズが煙をかき分けながら部屋の中に入っていく。

 全員が固唾を呑んで注目していた。

「……っ」

 煙の向こうで、息を呑む気配が伝わってくる。

「お前ら、来るな!」

 カズが叫ぶ。煙越しにチカチカと光る炎が見えた。まだ燃えているのだ。

 ここからではよく見えない。中に入らないと。

 ようやく一歩を踏み出そうとするが、手足が思うように動かずによろめいてしまう。身体の動かし方を忘れてしまっているようだった。

 カズは制服の上着を脱いで、バタバタと叩きつけるようにしていた。火を消そうとしているのだろう。

 室内へと足を踏み入れる。他の皆も僕の後をついてくる。

 火の手が上がっているのはベッドのシーツだった。その上に黒っぽい影が乗っている。

 身体はもう自分のものではなくなっていた。一歩、また一歩と、勝手に足が動く。何者かに操られているかのように。


 これ以上進みたくない。だけど行かなければ。

 行かなきゃ。嫌だ。進まなきゃ。ダメだ。戻れ。

 この匂い。燃えている。これは。この、肉が焦げるような匂いは。


 足が止まる。


 火はもうほとんど消えかかっていて――煙が薄まり、包まれていた黒い影が露になった。


「きゃあああーっ‼」


 玖恩さんが悲鳴をあげる。

 彼女だけじゃない。室内に足を踏み入れたメンバー全員が恐慌状態に陥っていた。

 頭を抱えてうずくまる者。口元を押さえて顔を背ける者。尻もちをつく者。

 僕はパニックの症状と必死に戦っていた。だがこの発作は、あまりにも大きすぎる。きっと耐えられない。

 だから、せめてその前に。

「見るな、想介」

 カズは僕を睨むように見据えている。

 その言葉を無視して、幽霊のような足取りでベッドに近づく。

 部屋の中で、ベッドだけが不自然に燃えていた。周囲に引火性の物もないため、他に燃え移ることもなく、マットレスから上の部分だけが無惨に焼けて――

「これは……?」

 入口の方から、別の女性の聞こえてきた。

 伴動さんの声だった。夜夢さんの呼びかけに応じたという女性の声。

 これで答えは出た。

 単純な引き算だ。九人の人間がいました。そしてこの部屋に集まっているのは八名です。

 さて問題です――残りは誰でしょう?


「それは何っ!!」


 伴動さんが〝それ〟と表現したのは、黒焦げの死体だった。

 もはや性別すら判別不能なほどに焼き尽くされた肉体の残骸――かろうじて元が人間であったことがわかる程度の――元は小柄な人間であったのだろうと予測できるサイズの死体が、眠っている子供のように、背中を丸めて横たわっていた。


 木花美來が死んでいた。

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