第143話 人と世界境界

 雅は引き金に指をかけたままで、隼人と美濃に見慣れた優しい笑顔を浮かべていた。付き合いは短くなく、ここ最近は毎日のように顔を合わせていた仲間を見間違えたりなどはしない。


「あら――」


 雅の手に収まる銃口と隼人とを結ぶ直線上に二つの障害物が現れる。

 雅は目の前の光景が瞬時に変化したことに、驚きの声を漏らした。とはいっても、平静さ失っておらず、わざとらしい反応にしか聞こえない。


「わんちゃんとお馬さんは気持ち悪いぐらいに仲良しこよしねぇ」


 障害物のひとつはメルトレイドの手のひらだ。雅の視界から隼人の姿を完全に奪う囲いは、拳銃などものともしない鉄壁である。

 動力維持と自律行動さえ託されていなければ、スレイプニルは一も二もなく身を呈して宿主を庇いに出ただろうが、今は未来が枷となり思うままを実行はできなかった。その代わりにできる最大限を努めた魔神は、無機質な瞳を雅に向ける。


 雅はスレイプニルを一瞥しただけで興味を失ったようだった。今の彼女の関心の行く先は、狙いを定めていた隼人でもなく、メルトレイドの手のひらよりも雅の側に立った美丈夫である。


「身内にはすごーくお優しいんだから。ほぉんと、美濃かーっこいい」


 急な他者の介入に、雅は少しも動じていなかった。馬鹿にするような挑発的な笑みは、何よりも彼女が雅ではない証のように思える。わざわざ自己紹介されなくとも、雅の身体で言葉を発しているのが世界境界なのは明白であった。

 美濃は真っすぐに腕を伸ばし、手にしている銃を雅へと向ける。


「雅を返せ」

「……私は雅なのに。銃を向けるなんて酷い」


 悲しそうに瞳を揺らす雅を前に、美濃は無表情を貫く。表面上は冷静を装っているが、胸中は複雑であった。

 対峙しているのは、中身は違うとはいえ、身体は雅である。命を奪うための武器を構えてはいるが、問答無用で殺すことは美濃にはできなかった。

 そんな青年の心情も知っていると言わんばかりに、雅はこれ以上なく笑みを深くする。


「お前も一ノ砥も、人の癇に障るのは得意みたいだな」

「ふふ、若桜はそんなに頭使ってないわよ。面白いと思ったことをしてるだけ」

「……一緒だろうが」

「のんのん、私は分かってやってるの。美濃はね、薫の死を受け入れてた。もう戻らない命だって分かってたけど、鍵としての有用性があるから傍に置いてたんでしょう?」


 楽しそうに言葉を紡ぐアスタロトは「だから、殺せた」と美濃の顔を窺う。遮るものはなく、しっかりと青年の表情が見えているはずなのに、アスタロトは美濃との距離を詰めた。

 額へと銃口を向けられているが、雅は美濃が撃たないと確信しているようで、足取りには余裕が溢れている。


「でも、私は殺せない。だって、私は、生きてるもの」

「……」

「美濃のことはよぉく分かるわ。私は貴方のことが大好きな雅だから」


 広げた手を胸元に当て、挑発的に美濃を見つめる。楽しさに染まった瞳は一瞬、明るい緑に光った。

 この世界で存在するための器を得た世界境界は、存在可能時間という縛りから解放される。世界境界点が再びに可動するまでに何とかしなければ、再びこの土地はアスタロトの支配下に逆戻りしてしまう。


 美濃はそっと目を伏せ、緩やかに首を振った。

 否定したのは、アスタロトの言い分ではない。むしろ、彼女による美濃の考察に、彼自身がこれといった反論を思い当たらなかった。薫は殺せても、雅は殺せない。

 しかし、殺す以外の道がなければ、美濃は迷わずに進むだけである。


「お前は雅じゃない――」


 動作に遅れ、言葉でも拒否をする。雅ではない、と言われたアスタロトはじっとりとした目つきで美濃を眺めると、静かに瞼を閉ざした。

 再び視界を開けさせた彼女は、大きく目を見開かせる。奥に控える異形の右腕をしたリフレクションドールを捉え、目前で銃を構える美濃を認識し、怯えに身体を竦ませた。

 瞳の色は馴染み深い茶色である。


「――、っ、う!」


 ぱくぱくと一生懸命に口を動かしているが、上手に声帯は震えていなかった。どうにか声を絞り出そうとする様子は、ほんの瞬間の前にあったアスタロトの姿とは似ても似つかない。


「の――、みっ美濃!!」


 ようやくに出てきた単語は青年の名前。

 名を呼ばれた美濃は怪訝さを露わにする。脳裏に過った可能性に銃を握る手に力が籠った。


「お願い美濃、私の話を聞いて!!」


 唐突に叫び出した雅は、悲痛に顔を歪ませると泣き叫ぶように声を荒げた。

 銃を持つ自分の手を見て、驚愕に目を見開くと、遠くに向かって凶器を投げ捨てる。感極まった涙腺はぼろぼろと涙を溢れさせたが、自分自身の感情に混乱する雅はその場で蹲り、頭を抱えた。


「美濃!! お願い、違うの、全部、全部違うのよ!!」

「雅……」

「わっ私は――、美濃――」


 酷く汚れてしまった顔を上げ、雅は縋るように手を伸ばす。弱々しく伸ばされた手は、美濃が近づかなければ触れられない位置にあった。


「……お前、どうして世界境界の器になんか」

「こんなことになるなんて思ってなかった! ただ――」


 美濃の足はその場から動かなかった。僅かに表情筋が引くついたが、目に見えるほどの変化ではない。うわ言のように懺悔を続ける雅を前に、葛藤と困惑が美濃の心を占領していく。


「私っ――――雅のせいじゃないわ。全部、美濃が悪いのよ」


 涙に飾られた瞳はそのままで、雅はにたりと歯を見せる。瞬時に入れ替わった精神を教えたいのか、雅の瞳はペリドットの宝石として煌々と輝きを放っていた。

 青年を嘲るような表情を浮かべたアスタロトは「美濃がいなきゃ、雅はこんなことすることなかったのに」と後を続ける。


「あ?」

「裏切りを許せない美濃を裏切った雅の気持ちなんて、貴方には一生分からないと思うけど」

「……」

「考えなさいよ、美濃。いっぱいいっぱい、雅のことだけ考えなさい」


 アスタロトはすくっと立ち上がると、無遠慮にも美濃が保っていた安全圏を侵した。ずかずかと大股で美濃とぶつかる寸前まで詰め寄った彼女は、高い位置にある眉目秀麗な顔に指を這わせる。

 美濃は抵抗せずに、アスタロトの瞳を見つめた。

 まるで愛を囁く恋人同士のようであるが、お互いの腹の内はそんなに穏やかなものではない。

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