第137話 ならず者を囲う檻、放たれる猟犬

「では早速――と言いたいところですが、今は混迷の事態にあるようですね。人類審判以前に第八世界境界を罰するのが、第一世界境界としてのわたくしの役目でしょう」


 困ったように顔は顰めたものの、事態の深刻さに対して、オーディンの態度は軽々しい。しかし、第一世界境界線としての責務をまっとうしようとする彼女は、百合子にとって頼もしいと思える言葉を聞かせた。


「お力を、貸して下さいますか?」

「……隼人を、助けられる?」


 オーディンからの質問に、百合子は思わず本音を零した。彼女の中の優先順位は、世界境界点の消失の次に隼人の身の安全が位置していて、自分のことはその次である。 


「ええ。代わりに貴女の存在した世界を頂きますが」


 苦笑するように肯定すると、オーディンはさも大したことないように代償を求めた。しかし、聞こえるだけで判断するのであれば、容易いことには思えない。


「この世での相島百合子という存在を対価にして、世界境界点を強制的に止めます」

「……存在?」

「貴女という個人が消えるのではなく、世界の中で認識されている貴女が消えるのです」


 百合子は身に起こるであろう現象を漠然と認識する。

 世の中で認識されている自分が消える。それはつまり、世界に生きるたくさんの人間の誰一人にも存在を認められていない自分だけが残ること。繋がりを持たない自分が一人きり。

 それはきっと、死よりも酷いものである、と百合子は思う。あまりに現実離れした現象に上手く想像もできず、ただ、人混みの中で誰の目にも止まらない自分を思い描いた。

 すべてに忘れられた世で生きることは、どんなに孤独でどれだけ寂しいことなのだろう。


「――分かりました」


 それでも、百合子の心が否定に傾くことはなかった。

 後悔や悲哀に身を置くのは生きる者の宿命なのである。悩みなく生きることは不可能で、それを軽くすることはできても、抹消することはできない。

 今、第八世界境界と境界線をどうにかできなければ、そうやって悩むことすら不可能となるのだから、嫌などと言う選択肢はあってないようなものだった。

 百合子にしてみれば、鍵としての審判の末に死という結果もあるが、それは自ら受け入れると決めた選択。若桜とアスタロトを原因に死ぬか、鍵として死ぬかは、結果は同じでも、まったく別物の未来である。


「ありがとうございます」


 オーディンは百合子の返答が分かっていたかのように、わざとらしい礼を述べた。言うが早いか、イオンの身体から抜け出るようにして、世界境界としての本来の姿を百合子の前に現す。


「改めまして、第一世界境界、オーディンと申します」

「…………嘘」


 人型を模した世界境界に百合子は酷く見覚えがあった。髪の長さは違うものの、艶やかな黒髪も、鋭い目つきも、整い過ぎた容姿も、瓜二つの顔。


「喜里山……、薫…………?」


 華美な装飾の施された着物をまとい、飾り立てられた姿である世界境界は、左目を眼帯に隠している。それでも美しさは少しも損なわずにいた。


「……綺麗」


 呆ける百合子の口から感嘆が漏れた。異質の雰囲気を漂わせた世界境界は、見る者を惹きつける端麗さを惜しげもなく晒している。その美しさも命も、言葉通り、この世の存在ではない。


「イオン」


 名を呼ばれたイオンはオーディンの瞳を有する左目にガーネットを残したまま、右目を紺碧に戻し、久しく見た世界境界に目を細めた。


「……オーディン」

「お前には負担をかけてしまいましたね」


 イオンはうんともすんとも言わず、足元を見つめる。

 オーディンがさらりと言う”負担”は、そんな言葉一つで片付くほどに軽いものではない。ぐっと、歯を食いしばり過去への罪に身を震わせるイオンの後頭部を見やり、オーディンは悲しげに隻眼を歪めた。


「イオン、悲しむのは後にしましょう。わたくしが付き合いますから」

「……はい」

「貴女にはわたくしの力を残しました。わたくしは彼女と共に境界点に行きますから、イオンは――」

「説明はいりません。起こりうる事象は理解しています」

「よろしい。では、第八世界境界の相手は、私の愛しいしもべたちに任せます。研究所についたら、すぐにスレイプニルを喚ぶのですよ。そして、イオンはわたくしの元へ来なさい。貴女にはわたくしの仮宿になってもらわなければなりません」

「分かりました」


 肯定を続けるイオンはふと百合子に視線を向けると小さく頷いた。

 イオンの表情は百合子への審判が良いように進むことを確信しているとばかりで、百合子もぐっと拳を作って大きく頷き返す。

 そして、イオンの視界からオーディンと百合子の姿が消えた。

 移動したのは彼女たちの方ではなく、イオンの方である。正確には、移動させられた。

 研究所の影の下から、外を見ている位置に立ったイオンに見える景色は、研究所跡地の中庭。

 手入れの行き渡っているそこは花壇一つ見ても美しい。全体で見れば調和のとれた庭園である。使われている資材は研究所で使っていたものらしく、少しばかりの素朴さが手作りの表れだった。


「おっかえりぃ」

「イオン……」


 その庭園で若桜の存在はまるで空気のようで、少しも邪魔にならない。若桜の足元に散らばる元銃弾の花びらと、銃を構える美濃だけが浮いていた。

 ぺらぺらと手を振る若桜は、呑気に微笑んでイオンの帰還を歓迎する。


「この桃々桜園で若桜から逃げようなんて無理な話なのに、イオンちゃんも相島ちゃんもおっちょこちょいだよねぇ」


 腰掛けていた花壇から立ちあがると、若桜はふらりと揺れた。法被の裾がひらひらと波打つ。


「世界境界点に行きたかったんでしょ? でも、そんなの一ノ砥さんが許すわけないじゃん」


 イオンがオーディンを連れているのは若桜も知り得ていて、鍵と共に走り去った彼女たちの希望など説明されなくても分かってしまった。


「鍵は始まりの雷鳴がいなきゃ価値がない」


 八番の鍵である百合子は、境界点による土地変換に巻き込まれることはないがイオンは違う。例え、どちらかが境界点に辿りつけても、どちらかが欠けていれば、意味がない。

 イオンだけをこの場に戻し、鍵と管理者を分けることを叶えた若桜は、自分の行いに「若桜ってば天才かも」と自画自賛した。


「喜里山くん一人じゃ寂しいでしょ? お姉さんの首も一緒に並べてあげ――っ!?」


 へらりと能天気な笑顔をしていた若桜は、急に響いたつんざく音に言葉を呑む。両手で両耳を塞ぎ「うるさっ、何これ!!」と悲鳴に近い叫びを上げて、顔を顰めた。不快でしかない音は美濃とイオンの耳にも聞こえているはずだが、二人はまるで動じていない。

 イオンはこれがオーディンの仕業だと察しがついていて、美濃はこれと同じ音を昔に聞いたことがあった。


「美濃君」

「……、その目」


 美濃は近寄って来たイオンの左右で異なる瞳の色を認め、鋭い目を見開く。オーディンから完全に分裂していた瞳は、美濃の左目に収まっていた時には第一世界境界の色に発色していなかった。

 ガーネットの色が美濃に伝えるのは、オーディンの降臨。


「……スレイプニル」


 騒音にかき消されながら、イオンは第一世界境界線に忠実なるしもべの名を喚んだ。隣に立つ美濃にも聞こえていないような弱々しい声。

 当然とばかりに、スレイプニルの姿が現れる気配は微塵もなく、変わらずに境界点の悲鳴だけが響き渡っていた。


「……」


 イオンは右耳に光るピアスに触れる。

 求めるのは、薫のように世界境界の力すら意のままに扱える精神力。オーディンの力を行使する強さ。ぐっと拳を握り、一心不乱にスレイプニルの召喚に専念するイオンは、真っすぐに空を見上げた。

 研究所の中庭から見上げる青空は、昔と変わらない懐かしい構図である。


「来なさい、スレイプニル」


 甲高くなっていた音が終わったタイミングに重なり、イオンがスレイプニルの名前を喚ぶ声が響く。力強く、従えるものを喚び出す命令はぞっとするほど荘厳に響いた。


「イオンちゃん?」

「お前っ……!」


 怪訝そうな若桜と、ぎょっとする美濃。

 唐突のイオンの行為を皮切りに、若桜と美濃は動き出す。

 イオンの左目にオーディンの存在を見出し、その彼女と八番の鍵がここにおらず、境界点に何かしら力が働いているとなれば、起こる事態を察するのは美濃には容易かった。

 境界点の変異に関しては、若桜は美濃以上に簡単に事実を知れた。身体の一部のように扱っていた力が、ごっそりと抜け落ちた感覚。


 美濃は構えていた銃の引き金を引く。

 境界点の力がなければ、弾丸を花びらと入れ替えることもできやしない。躊躇なく、命を奪うための銃弾は若桜の額を目がけて軌道を描いた。


「…………何、何をしたの?」


 不測の事態に、若桜は問い詰めるように美濃を睨みつける。 

 やはり、若桜に攻撃は届かない。が、今までのように銃弾が消えたわけではなかった。


「お得意のかくし芸はネタ切れか?」


 若桜を守る盾は、生きる魔神である。

 世界と世界を繋ぐ境界線である若桜が単身で行えるのは、魔神召喚と八番の力の使用。境界点がなく、存在期限を持った魔神を喚び出し、美濃との間に障壁を持った若桜はぎりりと歯を鳴らした。


「さっきまでの威勢はどうした。俺の首を掲げるんだろ?」

「じゃあ、お望み通りにしてあげるよ」


 殺気に塗れた視線をぶつけ合っていた二人は、すぐにその衝突を解くことになる。


「リフレクションドール」


 空に投げられたイオンの声。

 若桜には聞き慣れなくとも、美濃には聞き覚えのある単語であった。第八世界境界線掃討作戦において、生体兵器ドールが乗るメルトレイドの個別名称。

 美濃と若桜は同時に空を見上げる。

 二人の視界を彩ったのは、オーディンの力を孕む声に喚び出され、音もなく現れたメルトレイド。深い紫色を身体に走らせたリフレクションドールは、中庭から見上げられる空を覆い隠すようにして滞空していた。

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