惨劇の因果

第136話 審判を司る神は静かに降臨する

 美濃と若桜を残した研究所から逃げ出したイオンと百合子は、桜の森を駆けていた。

 舗装された散歩道などなく、飛び出す木の根や散った花びらに足場の悪い地面をよろけながら、境界点を目指して突き進む。

 土地配置にはぐれることを危惧し、百合子はイオンの手首を掴んで引いていた。


「……相島さん、そっちじゃない。こっち」

「何回も言ってるけど、もっと早く、大きな声で言ってもらえる!?」


 長く記憶螺旋の中に精神を置き、何の管理もされない状態で身体を放置していたイオンは未だに本調子ではなく、鈍い動きで足を動かしている。

 蒼白の顔をするイオンに任せていては時間がかかりすぎる、と先導をするのは何の知識もない百合子であった。が、少女はこの地を知らない。

 間違った方向に行きかけては、イオンに訂正されることを繰り返していた。


「……相島さん。貴女、随分と積極的だけど、世界境界点を壊したいの?」


 イオンは百合子の華奢な背中を見つめながら、か細い声を投げかける。枯れた喉に絞り出される音は、弱々しく聞き取りにくいが、他の雑音のないここではきちんと相手に届いた。


「当然よ」

「……」

「世界境界を消せば、私は鍵としての役目から解放される。それは私の願いなの」


 百合子の声は力強く、使命感に燃えているのが誰の耳にも明らかである。


「……でも、私がここにいる理由はそれだけじゃないわ」


 フロプトに転がり込み、百合子は自分の知らない世界を垣間見た。SSDに保護され、敷かれたレールの上を進み続けては知ることのなかった現実。

 何より百合子に衝撃であったのは、雛日隼人という存在である。初対面から親身になって百合子と喜怒哀楽を共有した少年は、彼女の心に見たことのない色を残した。

 鍵の能力を手放したい一心でいた百合子が、フロプトの宿願のために世界境界点を消したい、とも思うようになったのは、一概に隼人が原因である。


「……相島さん」


 イオンは自らの足を止め、百合子を引き留めた。


「境界点と鍵は魔神とマグスの関係と一緒。世界境界点と貴女が契約をすることで、境界点は貴女の身体を宿に持つ、この世の存在になる」


 イオンは深刻な顔で捲し立てるように言葉を連ねる。

 能力と共にSSDを嫌悪していた百合子には、鍵の使い方など初耳であった。


「まずは契約しなきゃならないってこと?」

「そんな簡単な話じゃない。境界点と契約することは、審判を受けること。その結果次第では、相島さんが死ぬことだってあり得る」


 百合子はようやくイオンが言いたいことを理解する。


「SSDの保護下の鍵なら、知っていて当然の内容」


 魔神掃討機関はその名に違い、エネルギーと変化できる魔神の生息地を作る世界境界点を維持しようという方向性を取っている。

 鍵たる人間には、鍵と言うものが何であるかを説明をした上で、鍵として機能させないために機関の保護下に置いていた。


「誰だって、魔神の巣窟で死ぬかもしれない可能性より、SSDの援助を受けて遊んで暮らす方がいい」


 イオンの目には、何も知らない百合子が、騙されるようにして死に向かってくように見えていた。


「……私は鍵の役目を終える代わりに、死ぬかもしれない」


 百合子も、その可能性をまるで考えていなかったわけではない。

 何の知識も持たないなりに”世界境界点を消す”という行為について、様々な憶測は重ねていた。どれもこれも夢想の仮定でしかなかったが、今、ようやく解答の片鱗を知った。

 そうならない先もあるのだろうが、死に向かう道も確かに存在している。


「ねえ」


 百合子の深海のような瞳は、命の重さに揺れもせずにイオンを見据えた。


「それを聞いた私は、貴女になんて答えればいいの?」


 真っ直ぐにイオンへと向けられた視線に迷いはない。取り乱すことのない夜色の目に映るのは、目を丸くして驚きを見せる白衣の姿だった。


「怖いから、やっぱり嫌? 死してでも、境界点を消してみせる?」


 そう尋ねられて、イオンは押し黙る。

 自分は百合子からどんな返答を求めていたのか。

 例えば少女の言うように、嫌だと言われて、ならば逃げよう、などとは、絶対に言わないとイオン自身が言い切れた。かといって、絶対やり遂げる、と言われて、やめましょうと提案するつもりもない。

 オーディンを宿すイオンは、境界点を消すために、百合子を連れてここにいるのだから。


「お気遣いありがとう。でも、私は世界境界を消したい」


 ぐるぐると明るくならない思考の渦に呑まれていたイオンは、堂々と宣言をする鍵へと意識を奪われる。


「この世界のため、なんて綺麗なことは言わないわ」

「……」

「私は私のために、生きているから」


 そっと瞳を閉じ、口許を柔らかく笑む形にした百合子は、まるで神聖なもののようであった。

 その姿がイオンの過去を揺さぶる。酷く、見覚えのある表情。

 イオンにとって、何よりも大事な人たち。


「……」


 そうして、イオンは自分がどうして、今更に鍵についての説明などを彼女にしたかを知る。

 薫と隼人。

 理由はどうであれ、自分の身を顧みず、他人のために命を費やそうとする彼女に、二人の姿を無意識の内に重ね合わせていた。いつだって守られる側でいたイオンは、二人の背中ばかりを見つめていて、今のように危険を喚起するだけが彼女にできること。

 行ってしまうと分かっていても、引きとめる言葉を言わずにはいられない。


「……貴女が、羨ましい」


 イオンは悔しげに目を細め、苦しげに声を漏らす。ただでさえ乾いた声で、一層に小さい音の呟きは百合子の耳には拾えなかった。


「ヒナが鍵と境界点のこと、相島さんに説明しなかった理由が分かった」

「え?」


 百合子にしてみれば、勝手にイオンが自己完結をしただけである。一から十を説明する気はないらしく、イオンはそれ以上に言葉を続けはしなかった。


「震えてる」


 イオンは繋がれたままの手を、強くはない力で握る。かたかたと、微かに震えるその手に乗せられているのは、欲したわけでもない世界を変える宿命。

 百合子の手は緊張からか、指先が異様に冷たく、冷や汗に薄らと濡れていた。


「…………、死にたくは、ないもの」


 百合子は目を伏せ、力なく微笑んだ。

 彼女は死を求めているのではない。結果として、自分の死が世界境界点の消失に必要ならば受け入れる覚悟であるが、紛れもない本音は生きることを望んでいる。


 イオンは百合子の手を離すと、身体の中に息づく命へと身体を受け渡した。進むべき道を選び終えている百合子に、イオンができることと言えば、導きの手を差し出すだけである。


「――それはとても幸せなことですね。その気持ちは大事にするといいですよ」


 イオンの声で、イオンではないものが口を開く。

 引き寄せられるように顔を上げた百合子は、柔和な微笑みを湛えるイオンの瞳の色に目を奪われた。澄んだ紺碧は、深い赤へと色を変えて輝く。光の当たり方次第では透ける紫のようで、わざとらしいくらいの美しさは作り物の虹彩に見えた。


「……始まりの、雷鳴」

「ご明察。よろしければ、是非、オーディンとお呼びください」


 自己紹介を果たした第一世界境界は、百合子としっかり視線を合わせて笑む。優しげな表情は柔らかいが、伝わってくる雰囲気は堂々としていて、世界境界としての風格が滲んでいた。

 少なくとも、先ほどまで百合子と言葉を交わしていた女性とは別人である。


「世界境界による人類審判は、単なる魔神を使った人間の殺戮ではないのです。それぞれがそれぞれの任を持っていますが、わたくし第一世界境界は、全人類から選ばれた十三人の人間を審判し、世界境界点の有無を選択すること」


 イオンがした話の続きを請け負ったかのように、オーディンは世界境界としての仕事を説明する。百合子は黙って話を聞き入れた。

 この時点から審判が始まっているかのような真剣さで、直立不動のままオーディンに向き合う。


「貴女には八番目の人類代表として、審判を受けてもらいます。わたくしの審判次第では、世界境界の存在の有無も変化しますから、甘い判断はしませんよ」


 がちがちに気を張り、身体を強張らせる百合子へ、オーディンは「例え、イオンとヒナが貴女を認めていてもです」と励ましなのか、プレッシャーなのか分からない一言を加えた。


「……」

「そんなに怖がらなくても、いきなりとって食べたりはしませんよ」

「……そんなこと、心配はしていません」


 審判の末に死の可能性がある――覚悟はできていても、実際にその瞬間が来た時に自分は冷静でいられるのだろうか。百合子は昂揚する心を飼い慣らすように深呼吸をする。


「――私は相島百合子」


 恐怖、希望、緊張、困惑――頭の中も、心の中も、煩いくらいに感情に溢れている。

 それでも、太陽のように笑顔を振りまき、根拠のない自信を持って手を引く隼人を思えば、不思議としなければならないことが分かるようだった。

 百合子はきりりとした目つきで世界境界線に対峙する。凛然とした高潔さには、マイナス思考など微塵も感じ取れない。


「謹んで第一世界境界の審判を受けます」


 堂々と宣言する百合子に、オーディンは吃驚したように瞬いた後、満足そうに頷いた。

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