第117話 生きることから逃げたい

 研究所の中で常用でないこの部屋に、理由もなく立ち寄る研究者はまずいない。建物の端にあり、周囲に人の気配のないここは、薫が業務怠慢の末に訪れる部屋であり、隼人とイオンの秘密基地であった。

 一言で言うならば物の多い部屋である。ところ狭しと備品が並び、列を作る科学実験用のテーブルの半分は荷物置き場と化していた。

 中身をマジックで記した段ボール箱に紛れて、この部屋に度々と訪れている薫の私物も置かれていたりする。


「イオン」


 床に座り込み、脳回路を焼き切らんばかりに思考するイオンは瞬きを忘れているようである。見開かれた目は過去を受容しきれていないことを表していた。


「イオン、しっかりしろ」

「……」


 声に反応はするが、瞳は虚ろだ。

 それも仕方ないだろう。九歳までの鈍色の記憶を取り戻し、ただでさえ落ち着かない心身。

 心の拠り所で、絶対の味方であった薫が、隼人を殺し、自らも命を手放そうとしていた。目撃してしまった知られざる過去は、イオンの心に大きな傷をつけた。


「忘れろ、って言っても無理だろーから、言っとく」


 紺碧の色に青年が映る。今、何かを言われても正常に対応できない、と思いつつも、イオンは美濃の言葉を静かに待った。


「まず、お前らが研究員たちを殺したことについては、俺がどうこう言える話じゃねえ」

「……」

「うちの民の連中のことは今は置いとく。俺の立場上、お前らを無罪放免とはいかないが、その話は後だ」

「……はい」

「でも、覚えとけ。お前らが何もしなくても、薫が同じことをした」


 惨劇になった実験場に美濃は居合わせなかった。

 正確には後から駆けつけた、と言うのが正しい。手のつけられない状況に乱入した美濃は、自らの目である程度を見聞し、足りない分は隼人や吉木、スレイプニルらに聞いて補足し、研究所で起こった出来事は完璧に認知していた。


「あの日、薫が死んだのも――自業自得だ。ヒナは正当防衛だし、イオンだってあいつを守ろうと思った行動だろ? お前は間違ってなかった」


 美濃はイオンの前に腰を下すと、背中を山積みの段ボールの壁へと預けた。青年が寄りかかってもびくともしない壁を作る紙の箱、中身は使用済みのトナーカートリッジである。

 イオンとは向き合わず、壁の方を向いた美濃は寂しげに目を伏せた。


「あの時、お前がああしなかったら、ヒナも死んでた」


 美濃の言い分は正しさ半分、見て見ぬ振り半分である。

 確かに、隼人が死ななかったのはイオンの行動の賜物であるが、彼女の選択は最悪を次々に引き起こさせた。イオンと同じく、隼人も自我を失い、魔神の力を暴発させて破壊行動に従事した。結果、研究所は壊滅し、竜の民の集落は強襲され、多くの命が失われたのだ。

 呼びこまれたのは、平和ではなく破滅。

 生きながらえたのは三人の主任科学者、美濃を含む三十に満たない竜の民、隼人とイオン。

 そして、一ノ砥若桜。


「薫のこと、ヒナには黙っておけよ」


 ずっと美濃だけが知り得ていた秘密を、殺害対象であった少年に漏らすことを青年は良しとしなかった。口止めの釘を刺され、ようやく冷静を取り戻しつつあるイオンは素直に首を傾げる。


「……どうして? 私は許されない。けど、ヒナは許される」


 見てしまった過去は確かにショックであったが、反面、身にかかる罪の重さが僅かに軽減したのも本当であった。

 薫の死。

 それは被験体二人だけのせいだけではなかった。死を招いた要因は薫自身にもある。


「竜の民の人たちのことと、研究所の人たちのことは、私たちのせい」

「……」

「薫のことは違う。殺したのは私。ヒナは何もしなかった。だから、私と同じ罪を背負うのは可笑しい」

「……」


 薫を手にかけたのは魔神に行動権を奪われたイオンであるが、きっかけの理由は隼人。隼人はイオンの行動を自分の罪悪と覚えていた。

 隼人がそう思っていることをイオンが察するのは、長い間の交流がなくとも容易い話だった。

 しかし、相手が自分を殺そうとしていたと知れば、薫の裏切りに心が痛もうと、隼人の心を苛む罪科を減らす足しには成るだろうとイオンは思った。


 確かに、他に奪った命の方が多く、すべてが免罪とはならない。だが、薫の命に限った話ではあるが、死を引きずる隼人にはささやかでも救いの話だ。薫も殺人衝動で隼人を殺したかったのではなく、悩み選んだ結果が死であっただけで、結論は置くとしても、隼人を思っての選択である。

 きちんと情報を間違えなく伝えられれば、悪いだけの話ではない。


「駄目だ」


 それでも、美濃は首を縦には振らなかった。


「ちゃんと話せば、ヒナだって――」

「言えるもんなら、俺がもう言ってる」


 美濃は首を捻り、イオンと視線を交えさせると、後悔に歪んだ顔を歯痒さで染めた。青年にしては珍しい類いの感情を剥き出しにしていて、食い下がろうとしていたイオンは唇を結ぶ。

 どちらかが口を開かなければ、必然と部屋は静寂が占める。

 少しの間を置いた後に、美濃は「あいつは自分のためには生きられない」と静かに少年を憐れんだ。


「ヒナは死にたがってる」


 美濃が突然に告げたのは、ここにいない少年がずっと心に留めている仄暗い欲望。


「…………死、に? え?」

「たくさんを殺して、何もかもを壊したあの日が辛いんだろ」

「……」


 イオンは耳に聞こえた言葉を頭の中で繰り返す。

 彼女は幼い頃の隼人は良く知っている。成長した少年とは、SSD日本支部で少しばかり会話をしただけだが、そんな病んだ思考を持っているようには見えなかった。むしろ、明るく社交的で逆の印象の方が強い。

 死にたがっている、など俄かには信じられなかった。


「俺が再会した時にはもう手遅れだった。……いや、もしかしたら、昔からかもな」


 イオンに促されずとも、美濃は声を流す。話を共有する存在がなく、頭の中で渦巻いていた問題をようやく吐き出せ、美濃は言葉を止められなかった。


「ヒナはイオンと薫のために生きてる」

「…………どういう、こと?」

「自分の生きる意味を自分に見出せない。今もそうだ。死にたい、でも、薫の遺志を遂げるために、イオンを守るために、絶対に死ねないって思ってる」


 記憶喪失の間、イオンの中に隼人と言う存在はなかった。イオンは美濃の言うことを正しいと賛同できるほど隼人のことを知らず、間違っていると断言したくとも材料がない。

 今を生きる隼人はイオンには知らない少年だ。例え、根源が変わっていなくても、空白の十一年は変化を遂げるには十分な月日である。


「その薫が自分を殺そうとしてたなんて知ったら、お前のことはスレイプニルに押し付けて、あいつ呆気なく死ぬぞ。薫の遺志は今のヒナには天の声だからな」


 隼人の生きる意味はイオンと薫。それは不変の事実で、隼人のアイデンティティ。

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