第118話 外れた場所で踏み始め、拗れた運命が育つ

 イオンは想像する。

 同じ境遇を生きた心優しい少年に救われた回数は数え切れない。好きだ、と言葉でも態度でも示される好意に、安堵させられ続けてきた。

 隣を歩き、傍に寄り添い、いつも一緒にいた光。

 その少年が死することを望んでいる。


「そんなの、嫌」


 すべてを忘れている頃なら、名も知らぬ少年の生死など引っ掛かりもしないが、今は思い出してしまっている。

 隼人はイオンにとって、言葉で表せるような存在ではない。


「ヒナに――、ヒナに、会いたい」


 イオンは痛む心臓を押さえる。

 記憶を思い出して、後悔を始めて、イオンが望んだことは隼人との再会であった。悲痛に壊れる心を治してくれる心当たりは、彼女には少年しかいない。

 かすかな声で想いを絞り出し、隼人の名を呼ぶイオンに触発されてか、美濃は「たまに、思う」と独り言のように呟いた。


「ヒナは薫と一緒に、あの時に死んだ方が幸せだったんじゃないか、って。薫にあんな偉そうなこと言って、結局、俺にできてるのは、ヒナの罪を償う対象でいることだけだ」


 美濃も過去を悔んでいた。

 少年少女は何にも疑いを持たずに生きていて、実験に参加することを当然と思っていた。薫の思惑も、SSDの思惑も知っていたのは、唯一彼だけ。


「お前もヒナも被害者だろ。SSDとうちの馬鹿のせいで、要らぬ罪を背負わされて」

「美濃君……?」

「俺が無知なガキじゃなかったら、最悪を積み重ねた今じゃなかったかもしれねーのに。――何を言っても、今更、だけどな」


 青年はあの日を止められなかった。

 それが、現実。

 美濃は片膝を立てると己の額を押し付けた。隠していた感情を曝け出したせいで、慣れない鈍痛が心で暴れている。目頭が熱く、水滴が落ちる前に押さえこんでしまおうと瞼を閉じた。

 真っ暗になった視界、自然と浮かんだのは美濃が少年時代に抱いた希望。


「それでも、俺は生きたかった。お前とヒナと、薫と一緒に」


 誰にも告げることのなかった本音。

 美濃は力なく笑った。青年にまとわりつくしがらみや立場を考えれば、無理の話であるが、夢を見るのは勝手である。


「……」

「……」


 イオンは心臓を押さえていた手を離し、立ち上がろうと手のひらを床に置く。しかし、思うように力は入らず、身体はちょっとも持ち上がらなかった。すぐに諦めて、イオンは這いずるようにして美濃の傍へと近寄る。

 膝に顔を埋める美濃の身体の横、だらりと投げ出された美濃の手をイオンは両手で掬い取った。長い指、低い体温。ほんの少しかさついた骨と血管の浮く手。


「……本当、久しぶりなのに、何も変わってないね」


 イオンは頬を緩め、美濃の手を握り締める。美濃はぴくりともしない。

 追憶するイオンに構うよりも、青年は自分の感情を殺すのに必死であった。


「…………うるせえよ」


 遅れて美濃が返した台詞は、弱々しく響く。隠せるつもりでいた美濃は、予想以上に情けなく響いた己の声に舌打った。

 美濃の手を握ったまま、イオンは「あの」と心の音を零す。


「私もあの日は辛い。思い出したばっかりの癖に、って思うかもしれないけど、本当に死にたいくらい。薫のことも身が引き千切れるくらい痛い。研究所のことも、竜の民の人たちのことも、取り返しのつかないこと、した」


 何度も反芻した事実。

 飽きることはなく、繰り返すほど罪の意識は重くなっていく。心は鉛を撃ち込まれたように痛み、沈んでいく。


「自分勝手なのは分かってる。でも、私は生きていたい。ヒナと一緒に、生きていたい」


 イオンの本音に、美濃は顔を上げた。

 目を伏せ、握った手を見つめるイオンは、寂しさと愛しさとの狭間で揺れている。


「ヒナが私を生きる理由にしてくれるなら、私が生き続けて、ヒナを生かす。二人で罪を償う」


 至極真面目なのだろうイオンに、美濃ができた反応は笑うことだった。

 吹き出すように笑声を漏らすと、仕方なさそうに、優しく目を細める。青年の美濃が少年の頃と何も変わっていないと言うのなら、目の前の少女も昔と変わらずのままであった。


「重っ苦しい相思相愛だな」

「薫も、美濃君も大好きだよ。ヒナの方がもっと大好きだけど」

「……そうかよ」


 イオンは美濃の手を離すと、己の両手を自分の膝の上に置いた。拳を作ったそれを見ながら「でも――」と肩を震わせる。


「……イオン?」

「でも、ね、悲しいものは、悲しくて、哀しくて、今は無理」


 支離滅裂な言葉はとぎれとぎれで、しゃくりを上げたかと思うと、一瞬のうちにイオンの涙腺は崩壊した。頬を伝う涙は儚げな美しさなど微塵も感じさせず、ただ顔を汚すだけの悲哀の表れだった。


「もう、薫がいないなんて、私がっ――私があんなことしたから」


 いくら泣いても、足りない。


「たくさん、たくさん人を殺してっ、私は!!」


 いくら悲しんでも、足りない。

 薫と隼人を天秤にかけて、隼人に傾くと言っても、本当に僅差の話であるのだ。イオンにとって薫は姉のようなもので、研究所の中で唯一の良心。大切な人であった。


「……いいよもう、好きなだけ泣け」


 美濃の許しが出たからか、当に超えていた限界にイオンは顔を伏せる。声を殺すことなく、大声で泣き叫ぶ姿に美濃はそっと目線を外した。

 格納庫の裏、三人だけの集会所である大樹の下では泣きやませようとしたが、今は泣かせてやるのが正しいと美濃は判断した。記憶を失っていた反動もあるのだろう、爆発する感情を吐き出すイオンの泣き声を聞きながら、美濃は己の過去を振り返っていた。

 時間にしては長くはない。

 イオンは泣くことを続け、美濃も自己対話に没頭していた。

 記憶螺旋の中で若桜を探すことをせずに、イオンと美濃の足は止まっているのは仕方ない。イオンが正常な精神状態でなかったのだから、スタート地点はマイナスだったのだ。

 彼女が泣き止んで、初めて振り出しに立てる。


「イオンは何頼んだの?」

「……お菓子」


 可愛らしい話声と共に、研究室の扉が控えめに開けられた。


「お菓子もいいなあ」


 気づいたのは美濃だけで、俯き肩を揺らすイオンは侵入者に回せる余裕はない。

 手を繋いで現れた少年少女はジャージを着こんでいて、メルトレイドを用いた実験の後か先なのだろう。誰もいないのに内緒ごとのように、お互いに耳打ちする姿は微笑ましい。


「ヒナとイオンか」


 美濃が一人だったならば、それなりに感傷にも浸っただろう。

 しかし、酷く哀傷し、わんわんと泣き喚くイオンを目前にしてしまえば、美濃の心中を占めるのは彼女への心配だけだ。既にこれ以上なく肌は腫れていて、このままでは目を開けることもできなくなるのではと思えるほどの号泣。


「ヒナは?」

「内緒」

「ずるい」


 そのイオンと対照的に少年少女は楽しそうである。


「どーこーかーなー」


 隼人はきょろきょろと室内を見回し、何かを探していた。幼少のイオンはぴったりと少年の傍に身を寄せたまま、視線だけで探索をしている。

 少年が右に行けば、少女も右に。左に行けば、左に。美濃の目線も一緒になって動いた。


「あった!!」


 隼人は人差し指を突き立てる。泣く白衣以外、二人は同時にテーブルの上を見やった。

 小さな箱が一つ、大きな缶詰が一つ。

 前者は派手な装飾はされておらず、素っ気ない箱で中身は不明だ。後者はお菓子の詰まっている缶で、話からするにイオンの求めたものなのだろう。

 駆け寄った二人は、繋いでいた手を離す。イオンは菓子缶を抱え、隼人は小さな箱を手のひらに乗せた。こちらは隼人の物なのだろう。

 二人は額を突き合わせるように、箱を覗きこむ。

 外野である美濃も立ち上がり、小さな二人の輪に混ざった。


「開けるね?」

「うん」


 そろそろと開けられた箱の中身は、もっと小さな輝きであった。ここにいる全員が見知っているもの。

 プラチナのフープピアス。


「これ、薫がしてる……。貰っていいのかな」


 薫の両耳に輝いていたはずのピアス。

 求めたはずの隼人は恐縮していて、小さな手でピアスを拾い上げるとまじまじとそれを観察した。シンプルなデザインの白金は、光の少ない部屋でも確かに輝いている。


「ピアス、欲しかったの?」


 こてん、と首を傾げたイオンへ、隼人は間髪入れずに「ううん」と否定した。


「俺とイオンでお揃いの物が欲しかった」


 隼人は手にしていたピアスの片方、をきょとんとしたイオンに手渡す。片手にお菓子を抱え、片手にピアスを乗せた少女を見て、少年は満足そうに頷いた。

 イオンも両手を交互に見やり、最後に隼人で視線を止めると、幸せそうに壊顔する。

 贈り物として受け取ったこれが、遺品になろうとは二人とも考えもしていないだろう。

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