記憶螺旋 -黒と青-

第115話 彼の地で記憶は甦る

 人を喰らうことを本能に刻まれた魔神の巣窟で生活しようなどと、正常な感覚であれば実行しようとは思わない。

 しかし、第八世界境界点の影響圏内には人の住む箇所がある。それは極めて稀どころか、無理不可能の話だが、事実、二ヶ所ほど奇跡の場所があるのだ。

 一つは兵器開発の行われているSSD所有の研究所、もう一つは竜の民の集落。

 不可能を可能にしている理由は、SSDの科学技術の賜物などではなく、マグスや鍵と同じく、特殊な人間に区別さる民族の存在である。


「……」


 記憶螺旋の中、美濃は一人きりで歩いていた。


「……」


 アイスワールドを操り、美濃は百合子と共に隼人らよりも先に桃々桜園へと乗り込んだ。境界圏の境目を越えた彼らを待っていたのは、魔神の群れでもなければ、天然迷宮の洗礼でもない。

 にこやかな笑みを湛えた第八世界境界線。

 待ち構えていた若桜は自分を探せ、とだけ告げ、記憶螺旋へと侵入者らを落し入れた。強制的な誘いに抗う間もなく、気づいた時には二人ともがそれぞれの過去の中であった。


 美濃が落とされた場所は、今はなき竜の民の集落。

 懐かしい光景と若桜の能力から、身に起きた事態を察することは容易かった。そして、美濃は早々に故郷を後にしてきたのだ。

 若桜を見つけ出す、という目的上、竜の民の集落に長居する理由はない。

 何度も通った集落から研究所への道を淡々と辿る。


「…………こんなに、近かかったか」


 少年時代の感覚で歩んだ道は、思いのほか早くに終わりを迎えた。

 桃々桜園と呼ばれ、満開の桜に覆われる前の境界圏内は、ただただ大自然が広がっていただけの場所であった。延々の緑の中、ぽつんと立っている白い建造物はやたらに目に着く。

 孤立の研究所。

 美濃は正門を通らず、フェンスの外側から、研究所に併設されたメルトレイド格納庫の方向へと進む。

 敷地を区切るフェンスは、研究所と外界との明確な仕切りとして設けられているが、隣接の建造物はなく、隣人などはいやしない。

 無論、この建物に侵入者などあり得ず、セキュリティが施されているのは建物の内部だけである。


 格納庫の裏手まで来て、美濃は足を止めた。

 フェンスには身を滑り込ませられるような壊れなどなく、潜って侵入することはできない。美濃は当然とばかりに金網に手をかけると、がしゃがしゃと騒音を立てながら、軽々とフェンスを昇り上がった。難なく頂上に足をかけ、躊躇いなく飛び降りると、静かに着地する。

 服に寄った皺を直し、美濃は知った道を進んだ。足は勝手に動く。


「……」


 彼が隼人とイオンと三人で会うのはいつも同じ場所だった。

 格納庫にある非常口の先、大きな木が一本あるだけで他には何もない場所。

 研究所で監視下の元にある被験体の二人は、暗黙の了解でここに訪れることを許可されていたし、侵入者である美濃も見て見ぬふりをされていた。少年だった美濃は都合がいいとばかり思っていたが、大人となって同じ道を歩くと、良くない思惑がたくさん浮かぶ。

 自分と少年たちの関わりも、実験の一つだったのではないだろうか。


 格納庫の壁沿いを歩き、角を曲がった先がいつもの集まり場である。

 そこまで来て、美濃は自分の行動に驚いた。

 ここは過去で、昔通りを踏襲する必要はないのだ。むしろこんな人気のない場所に来ることは非効率的で、若桜を探そうというなら間違った選択である。

 美濃は己の行動に溜め息しつつも、無意識で決めた目的地へと進んだ。ここまで来てしまったのだから、このまま格納庫を通り過ぎ、研究所へと向かうのが近道である。わざわざ正面から、入り直す必要はない。

 大きな幹に生い茂る葉、青年の記憶と寸分違わぬ大樹。


「……?」


 その木の根元、幹に寄りかかり、眠る人影があった。

 美濃は少年時代の自分か、被験体の二人のどちらか、と思い当たる節を並べる。しかし、すぐにその予測が当たりでも外れでもないことを認識することになった。

 ピンクゴールドの髪、閉じられた紺碧の瞳、身を覆う白衣。


「あの馬鹿」


 美濃は懐かしくも、久しい姿に目を瞠った。そして、無防備な寝顔に呆れかえり、額を抱える。

 あちらはこちらを覚えてないかもしれないが、自分はあちらをよく知っている。隼人がいつだって気にかけていた存在であり、ある意味で一番に厄介な敵。

 寝息を立てる彼女に近づくと、美濃は膝をついて口元に手をかざした。呼吸は正常であるが、薫と言う実例がある以上、美濃には死体でないことしか確信できない。


「……泣いたのか?」


 穏やかな息使いであるのに対し、顔の方は少しも穏やかではなかった。肌が白いせいで、腫れ上がった目の周りの赤さがやけに目立つ。


「おい、起きろ」


 青年はぺしり、と長い前髪に隠された額を容赦なく叩いた。


「こんな意味分かんねー場所で寝てる場合か」


 額に受けた衝撃と、不機嫌な低い声にイオンは身じろいだ。それから、重い瞼をゆっくりと持ち上げる。紺碧の瞳に自分を覗きこむ眼帯の青年を映し、イオンは無言で瞬いた。

 目覚めた直後、目の前に知らぬ男がいれば当然の反応だろう。


「お前、なんでこんなとこにいる。お前も一ノ渡若桜に落とされたのか?」

「……」

「おい、寝ぼけてんのか?」

「……」


 彼女の記憶からすれば美濃は初対面の相手である。

 美濃もイオンに記憶がないことは、隼人経由で知り、理解している。しかし、記憶のないイオンを気遣おうという意志は美濃にはなかった。

 美濃とイオンが顔を合わせるのは、この場所で美濃が相島博士を殴り飛ばした日以来である。

 真一文字に唇を引き締め、つまらなそうな瞳をする彼女特有の無表情に、美濃は懐かしさに染まった目を細めた。


「……相変わらずぶすっとしやがって。可愛げねえな」


 イオンからすれば意味の分からない台詞であるが、音になった言葉は戻らない。美濃は誤魔化すように、現状を把握できてないイオンの額を軽い力で小突いた。

 地についていた膝を持ち上げ、立ち上がった美濃は未だに一言も発しないイオンを見下す。

 幼いころの面影を残しつつも、少女は大人になっていた。

 イオンの情報は収集せずとも、隼人と言う媒体のせいで勝手に美濃の耳に入ってくる。世界境界を専門に研究をするSSD科学課の天才科学者、齢二十歳にして世界最高峰の頭脳。


「……俺は喜里――」

「ごめんなさい!!」


 イオンの目線に合わせ、名乗ることから始めよう、とようやく見せた美濃の心遣いはすぐに無駄となった。絶叫に近しい謝罪の声に、美濃は鋭い目を丸くして驚く。


「ごめんなさい! ごめんなさいごめんなさい!!」


 イオンは深く頭を下げて、一生懸命に謝ることを繰り返す。急なイオンの変化に困惑した美濃は「急になんだ」ともっともを投げかけた。

 俯いたままの彼女は、美濃の声に謝罪を止めるとぼそぼそと何かを呟く。


「聞こえねえよ」

「……ナ……ごめ、なさ……」


 美濃は再びしゃがみこむと、か細い声を拾うために耳をイオンの方に近寄せた。


「何?」

「ヒナは、悪くない。何も悪くないの!」

「! ……お前」

「薫のことも、あの時のことも! 全部私が――! 私、何も言えなかった。何も、できなかった」


 一滴、地に涙が落とされる。

 次の滴が後を追うように続き、雨のように涙は降り注ぐ。


「ごめんなさい、美濃君」


 震える声に名を呼ばれ、美濃は確信を持つ。

 イオンの頭の中で流れる過去を思えば、自然と青年の顔も歪んだ。


「……イオン、思い出したのか」

「私は、本当に最低。あんな酷いことして、一人で全部忘れて、のうのうと!」


 イオンがとり乱し、目を腫らして尚、泣き続ける理由は悔恨であった。

 時間で風化され、少しは軽くできたかもしれない過去。それを今になって一気に持たされたイオンは、終わりのない後悔に沈んでいた。


「なんで、忘れてたの。忘れていいわけ、ないのに」


 自己嫌悪をするイオンは、失意のままに自暴自棄を起こしそうである。

 そうしている姿を見て、美濃はイオンが記憶螺旋に入ってからの彼女を簡単に想像できた。急激に戻ったのか、緩慢に戻ったのかは知れないが、記憶を取り戻してから、イオンはずっと泣いていたのだろう。

 ひたすら泣き、ひたすら謝る。


 美濃には見覚えのある光景であった。


 青年が短いため息をつくと、小さな肩はびくりと揺れる。その反応もそっくりで、美濃は目前にある頭に手を乗せると珍しい色の髪の毛をぐしゃぐしゃにかき混ぜた。


「……お前ら、ほんとに馬鹿だな」


 声は責めるようではなく、むしろ励ますかのようであった。


「お前とヒナは何で人のことしか心配しないんだよ」

「……美濃、君?」


 頭を撫でる手が止まり、頭上にあった重さを失ったイオンは恐る恐ると顔を上げた。待っていたかのように、美濃の両手がイオンの両頬を摘む。


「おらイオン、まず頑張って泣き止め。泣き腫らしてたらヒナが心配すっぞ」


 イオンの目には、少年の美濃と今の美濃が重なって見えた。

 伸ばされる頬には手加減なしの痛みがあり、何度も世話になった暴力的な優しさにイオンは更に涙を流す。泣き虫だった幼少のイオンを面倒くさがらず、放りもせずに慰めてくれた兄代わりの少年は、いつだって涙を止めようとしてくれていた。


「……私は、ヒナに心配してもらう資格なんて、ない」

「それでも、あいつは勝手に心配するだろ」


 イオンは反論をできなかった。

 失うばかりの悲惨な事件を経た後、イオンはそれまでの記憶を忘却した。そして、記憶螺旋の中、思い出した自分の過去に絶望するのは酷く簡単であった。

 美濃にも隼人にも嫌われて、憎まれて可笑しくないと彼女自身は思う。

 しかし、隼人は記憶のないイオンに対して友好的であった。

 十一年ぶりに言葉を交わし、久しぶり、と言った時、隼人はどんな気持ちだったのだろう。

 どうして自分は知らない、と言ってしまったのだろう。


「ヒナのためにでいい。泣くな」


 目前の美濃も昔と変わらずに、イオンの涙を止めようとしている。

 隼人を引き合いに出されると、そうしなくては、と思ってしまうのはイオンの反射だった。ごしごしと目を擦ると、既に腫れている皮膚が痛み、違う意味の涙が浮かぶ悪循環。それでも、泣き止もうとしている努力に、美濃はイオンの頬をつねる手を離す。

 イオンは痛みから解放された頬を押さえた。じんわりと熱を帯びていて、ほんのりと痛みが残っていた。


「美濃君」

「あ?」

「薫。薫の、こと」


 姉の名前に美濃は穏やかだった表情を固めた。

 美濃に聞く気がなくとも、これだけは言わなければとイオンは声を張る。魔神に呑まれた実験機体の中から見た地獄に対して、触れないと言う選択肢はない。


「……あの日のことはいい」

「そんなわけにはいかない」

「謝るにしたって俺にじゃな――」


 美濃が話すのを遮り、扉の開く音がした。二人のいる位置から聞こえるとすれば、メルトレイド格納庫の非常口の扉しかない。

 二人は音のした方向へと顔を向ける。

 真っすぐに伸びた背筋、左目を隠す眼帯、真っ白な制服。ドアを押し開いて現れたのは、丁度、話題に上がっていた人物であった。


「薫……」


 凛とした美人は等間隔の歩幅で、ぶれなく歩く。誰に見られているわけでもないのに、綺麗な所作で足を動かす薫は、現代から紛れ込んでいる二人の座る大樹の下で止まった。

 イオンも美濃も、隣接する位置に来た白服を見上げる。その顔は憂いに満ちていて、ご機嫌麗しくはないようだ。


「……」

「薫がここに出て来るの、珍しい」


 思わずにイオンが感想を漏らしてしまうほど、薫の行動は珍しいことであった。

 話すことに夢中になり、帰ってこない被験体を迎えに非常口から顔を出すことはあっても、一緒に談話することは滅多になかったのだ。

 誰もいない大樹に傍立つ彼女を物珍しく思ったのは、イオンだけではなかった。不思議そうなイオンの意見に賛同するように「薫? 珍しいな、どうしたんだよ」と少年の声が遠い位置から聞こえた。

 涼しげなつり目、整い過ぎた容貌、揺れる黒の短髪。


「美濃君」

「……」


 現代の美濃がここまで来た道のりは、少年の美濃が使っていた道である。同じルートを使って現れた少年は、角を曲がってすぐに目に入った姉の姿に驚いたのであろう。薫の元へと、美濃は小走りで近寄ってきた。


「美濃、今日、二人はこねーから」

「そ。でも、わざわざ言いに来るの珍しいな。いつも放置じゃん」

「お前に話があったから」


 少年はきょとん、と現代よりも鋭さのない目を丸くする。美濃の過去を目撃しているイオンは、少年と同じような表情をしていた。

 浮かない顔をするのは薫。

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