第100話 整う準備、控える出撃

 午前七時に始まった抗争。アイスワールドが戦場に立ったのは、開始からほんの数分のことであった。宣戦布告を終え、頭領の操縦する機体はすぐに第一世界境界点へと戻っていた。


 四条坂都内、あちらこちらで三つ巴の戦線が勃発しているのは変わりない。他方面からの報告を聞き入れながら、美濃は早い帰還を遂げる。

 美濃はアイスワールドを中庭に下し、屋敷とは呼べない建物へと戻った。


 ガラガラと開けた窓ガラスの先、リビングでは狂ったように避難勧告を流し続けるテレビを、ぼうっと眺める百合子がソファーで膝を抱えていた。


「その調子で、本当についてくる気なのか?」


 美濃は本調子でなさそうな百合子にため息交じりで尋ねた。


「……勿論。一ノ砥若桜の能力に惑わされないために、私は力になれる。やれることはやるわ」


 百合子の雰囲気は落ち着いている。

 彼女は誰のためでもなく、自分のために行動することを決めていて、瞳を決意に焦がしていた。己の身を顧みず、頑固にも敵地に乗り込むことを決めている彼女の意志を変えることは、簡単ではないだろう。


「第八境界点を歩く道しるべか」


 若桜から百合子へ託された飴玉は、リビングのテーブルの上で転がっている。

 もはや、この砕けたお菓子には食べられる以外、特別の価値は何もない。


「貴方こそ、本当に連れて行ってくれるの?」

「俺の役に立つと判断した。使えなくなったら、放り捨ててやるよ」


 レモン味の飴玉から百合子に与えられたメッセージは、正確には彼女個人に向けたものではなかった。むしろ、メッセージと分類できるのかも怪しい。

 百合子の見た過去は、第八世界境界点の影響圏内を害されずに進むには、境界点に由来する素質が必要であることを、若桜が説明しているところ。

 わざわざ見る必要もない内容だった。

 この第一境界点でも同じことであるのだから、美濃には知れた話である。


「……せいぜい気をつけるわ」

「ああ。そうしてくれ」


 第一世界境界の眷属であるスレイプニルを抱える隼人が、生きる迷宮に等しい第一世界境界の圏内を好き勝手に歩き回れることと同じ。

 鍵である百合子は、望まずとも第八世界境界圏内を自由に歩き回れる術を持っている。


「前哨戦が一段落したら出るぞ」

「……ええ」

「寝てないなら、寝ておけ。途中でぶっ倒れられても困るのは俺だ」


 言うだけ言って、美濃は部屋へと引き上げて行った。とはいっても、彼の私室は二階であり、屋根は昨日失われてしまったため、部屋とは言い難い。


 残された百合子はそっと目を伏せる。

 妙な興奮が心を溢れかえらせ、眠いという欲求をかき消していた。身体は確かに疲れを覚えているのだが、寝つけるとは到底思えなかった。


「……」


 淡々とした声で避難を呼びかけるテレビをつけたまま、百合子はソファーに寝転がった。美濃の言葉はもっともで、無理にでも寝れることが必要なのは彼女にも分かっていた。

 目を閉じ、光を遮る。


 百合子は自発的に過去を辿った。

 この屋敷に来た日、手を握って励ましてくれた隼人はずっと変わらずに優しい。スレイプニルに背中に一撃をもらい、地面に埋められたことも懐かしく思える。

 高慢で常時に手厳しい美濃に対し、雅の気遣いは細やかで有難かった。明るい緑の瞳さえ見ていなければ、世界境界の器など言われても、信じられなかっただろう。


「……おじい様」


 亡くなった祖父のことは未だに実感がなかった。

 休もうと思っても、動きの止まらない頭はいろいろなことを考えてしまう。百合子は抗わずに心の声に耳をすませた。

 意識は思考の渦に飲まれていく。

 閉じられた瞳の下、涙が滲んだ。悲しみだけではなく、行き場のない感情の表れだった。


 時を同じくして、複雑に混ざり合う感情に心を動揺させているのは、彼女だけではなかった。


「……よくこの怪我で平気な顔をしてイた」


 三人だけの掃討作戦。前哨戦に介入した美濃。考えの見えない若桜。

 アイスワールドを戦場に見て、隼人はモニターの電源をすぐに落とした。それから、情報に混乱する前に隼人は自分の肉体を相方に託し、己の意識は深くに寝かせた。


「七代目はどウしてこウ……」


 宿主の身体に身を置き、主導権を持ったスレイプニルは百合子と同じように感情を持て余していた。隼人と同じような考えを持つに加え、スレイプニルは宿主への心配にも心苦しさを覚えていた。

 隼人は大したことないように振る舞ってはいたが、実際は体のあちこちが軋み、一番の大怪我である足は、熱を持って激しく負傷を訴えていた。麻酔で痛みが麻痺しているとはいえ、これでは。


 急設のベッドの上、隼人の身体は横になりながら身体の回復に専念する。時間はまだあるが、寝るに寝れず、スレイプニルは漠然と思考の海を漂っていた。

 隼人の外傷は魔神が治療し、精神は強制的に眠らされている。

 赤服の少年が求めた通り、隼人は休養に身を置いていた。


 結局、スレイプニルは未来が再びに部屋に訪れるまで、悶々と考えを巡らせていた。

 時間にして三時間弱、宿主への心配は尽きることを知らない。


「入るよ」

「アア」


 ノックに対する返事を聞き、未来は軽く首を傾げて入室をする。ここ二日で何度も訪れている研究室にずかずかと侵入する未来は、ベッドの上に横たわったままの隼人の顔を覗き込んだ。


「寝れたの?」

「七代目は強制的に寝てイる状態だ。ワタシは起きていた」


 固い口調にきょとん、とした未来は少しの間を置いてから「君……、スレイプニル?」と黒に紫がかった瞳を訝しげに見つめた。


「そウだ。怪我の治療に身体を借りてイた」


 スレイプニルは隠しもせずに手の内を明かしていく。素直な回答に、未来も素直に感心した。


「へえ。メルトレイドが直せるのは知ってたけど、人体も治せるんだ」

「魔神の位にもよる。……七代目に意識を戻すぞ」


 漆黒に薄ら紫を含ませた瞳が瞼に隠される。再び開くと、未来には見慣れた黒の瞳に変わっていた。

 ぱち、ぱち、と緩やかな動作で瞬いた隼人は至近距離にいる友人に「時間?」と首を捻った。


「そうだよ」


 隼人より幾分か小さな手が差し出される。

 隼人はそれを掴むと身体を起こし、身に起こっている変異に「おお」と驚嘆の声を上げた。痛む傷はなく、身体の気だるさもほとんど吹き飛んでいた。

 未来の手を離し、腕に巻かれた包帯を外すと、傷一つない肌がさらけ出される。


「さっすがスレイプニル。全然痛くない」

『当然だ』


 スレイプニルは姿を現さず、隼人の中だけで声を返す。

 未来は目前で起こった奇跡に目を瞠った。今の隼人には、検査着を着る資格もなければ、隣室で待機している医療班の意味もないようだ。


「すごいね。本当に魔神は可用性に溢れてる」

「まあ、人体にはあんまりおすすめはしないけどな。細胞の寿命を縮めてるようなもんだし」


 まるで他人事のようである。

 隼人は次々に包帯を解いていく。その下には傷跡が見られず、隼人はきらきらとした瞳でスレイプニルの仕事に感動していた。

 怪我の治癒具合は申し分ない。多少の気疲れは身体に残っていたが、何か問題が生じるような疲労ではなかった。


「立てる? 歩ける?」


 もう一度、今度は両手が差し出され、隼人は両手を重ね置く。支えを頼りに立ち上がり、初めて歩き出した子供のように、誘導されながら一歩、二歩と踏み出す。

 ぺたぺたと素足で床を歩いた。


「大丈夫、痛みはない。頭もすっきりしてる。ばっちりだ」


 隼人はぎゅっと未来の手を握ってから、その支えを離した。

 未来も緩やかに微笑むと、用意していた隼人へ着替えを押し付ける。


「着方はもういいよね?」

「……まさか、また白服?」

「私服じゃ、移動で目を引くからね」


 二度目の扮装を手早く済ませると、隼人は耳のピアスに手を当てる。無意識の行動は何よりも隼人が動揺していることを示していた。

 プラチナのピアスをいじる隼人に、未来は見慣れない左耳の飾りを改めて認識した。


「それ、アクロイド博士もつけてる?」

「ん、ああ、うん」


 イオンが誘拐された後につけられたそれは、イオンの耳についているものと対である。


「ドールのタグとか?」


 未来の推測は無粋であった。兵器であることを証明するものでは、という質問に隼人は苦笑する。確かに見方を変えれば、それも間違ってはいない。


「違うよ。まず、イオンは自分がドール――っていうか、被験体だってことも知らない。というか、覚えてない」

「……話せば、話すほど謎」

「まーな」


 隼人は未来と同じく、視界を隠すギリギリに軍帽のつばを置く。その場で一回転し、評価を求めた。変なところは見当たらず、未来も「よし。じゃあ、行こうか」と変装に許可を出し、先導を請け負う。

 頭一つは小さい背中に着いて部屋を出て、隼人は初めて寝ずに待機している医療班の存在を知る。思わぬ待遇を知り、隼人は白衣に向かって大きく頭を下げた。


「ところで、スレイプニルの許可は取ったの?」

「へ?」


 前回の未遂になった逃走劇とは違い、今回は廊下での会話が許されているらしい。前を歩きながら、未来は首だけを後ろに捻った。


「レプリカに入ってもらうこと」

「……ああ」


 いかにも忘れていました、という返事に未来は半眼になって隼人を咎める。視線を前に戻した赤服の背中を見ながら「と言うわけだけど」とすべてを省いてスレイプニルに許可だけを求める。隼人には断られる気は更々ない。

 勿論、色の良い返事が返って来た。スレイプニルにも断る気は微塵もなかった。


「いいって」

「ああうん、だろうね」


 呆れたような未来に連れられ、隼人はメルトレイド格納庫へと踏み入る。昨日、彼が入った倉庫と異なり、今日の倉庫は広々としたスペースがある。


 昨日と異なるのは場所の広さだけではなく、人がいること。物々しい雰囲気の中、大勢の技術者がメルトレイドの最終チェックに動いていた。


「……すっげえ」


 白い機体、無駄のないフォルムは元からであるが、更に洗練した機体はまるで芸術品のようだ。その形状は一切の無駄がなく、美しい。


 搭載されている武器は最新鋭で、選別に選別を重ねて選りすぐられたものばかり。

 隼人が感嘆に声を漏らすのも無理はなかった。


「これ、俺が乗っていいの?」

「乗りたくないって言っても押しこむよ」


 旧機にばかり乗り、汎用機にも驚いていた隼人はこれ以上なく興奮していた。想像を超えた機体に、掃討作戦への決心を再び固める。

 お膳立ては申し分ない。

 隼人は技術者たちからの好奇の目に晒されながら、操縦席への道を行く。未来も一緒になってコックピットへと踏み入った。


 従来のものとは異なり、広めに領域を構えるそこには背を合わせるように二つの操縦席が置かれている。一つは前方向きでモニターの前に座れる普通の操縦席。もう一つは背面に向いていて、そこに座れば視界には補助装置しか映らない。


「これ二人乗り?」

「言ったでしょ。演算処理用の席だよ」

「……ああ、なるほど」


 今や使い物にならなくなった席。

 例え、誘拐されずにイオンがいたとしても、隼人は彼女が演算機能を務めるなら乗らない、と言い張っただろう。


「とりあえず、座って。待機モードで起動。スレイプニルもよろしく」

「了解」

『了解』


 隼人は操縦席に座ると、まず帽子を脱いだ。押さえつけられていた髪をかき上げ、緩やかに首を回す。操縦桿を握れば、自ずと精神が研ぎ澄まされていった。


「スレイプニル」

『アア』


 滞りなく起動した機体は、スムーズに待機モードへ移行する。未来はイオンが座るはずだった席に腰を下すと、隼人に合わせた個別設定をすべく持ち込んだ端末機器を開いた。


「さ、やるよ」


 軽い一言で始められたが、続く作業は一言で言えば面倒くさいものであった。


「右手を上げて」

「はい」

「下して。僕が良しって言ったら、もう一度上げて」

「……はい」


 簡単な動作を繰り返す。

 疲れを覚えはしないが、置かれた状況は最悪であるのに、あまりの単調作業に飽きが来るのも仕方がなかった。

 細かい設定は、隼人の能力を最大限に引き出すために必要な前準備。


 長らくはい、という返事しかしなかった隼人は「お疲れさま、これで完璧」と未来からの準備完了宣言に「お疲れっしたー」と間延びした声を返す。


「疲れた?」

「ううん、大丈夫」


 強がりでもなく、本当に疲れもしていなかった。むしろ、軽めにメルトレイドを動かし、機体だけでなく、パイロットも戦場に立つ準備を万端にしていた。

 心身ともに、良好である。


「お昼ご飯、食べられる?」

「……そういえば、おなか減ったかも」


 朝御飯を抜いていたことも、今になって思いだしたように隼人はへたれた声を出す。一度、メルトレイドから出ると、技術者たちの影は一つも見つけられなかった。

 がらんとした格納庫は、物音ひとつしない。


「さっきまで作業してた人達は?」

「君の顔見られるわけにはいかないからね」


 簡易に設置された技術者のための休憩所に向かい合って座ると、未来は用意されていたケータリングを広げる。金属と油の匂いの中、特別のメルトレイドと素っ気ない倉庫の中を見ながらの昼食。

 味気なさを通り越し、一生に経験ができそうにない行為に隼人は身を置いていた。


「装備の説明しとくけど、搭載武器は剣二本と拳銃二丁の通常装備と一緒」

「うんうん」

「ミサイルだとかの内蔵武器は多すぎて口で言うより見た方が早い。搭乗してから、映像で見せるね」

「分かった」

「あと本来なら、自爆用に積んでるレプリカ兵器なんだけど、一応、攻撃用にも使えるように設定変更はしてる」

「……こういうのって、結構な準備期間が必要なんじゃないの?」


 こういうの、と言いながら機体を視線で示す。


「準備自体は終わってたよ。後は機会待ちだっただけ」

「ってことは、結構前から、ドールを使う作戦は練られてた?」

「その辺、僕は関与してないんだよね。でも、吉木博士が前々から相島元帥に何かを訴えてたから、そうなのかも」

「……吉木博士かあ」


 隼人はこれ見よがしに嫌そうな顔をする。

 幼少の頃は関わりの少ない白衣に何の興味もなく、好き嫌いに分類することもなかった。しかし、この年齢になって再会した変人博士に、苦手意識と嫌悪感を併せ持って抱いた。


「あの感じだと、君は相容れなさそうだね」

「うん、無理な気がする。――そういや、吉木博士は作戦中何してんの?」

「君のせいで、部屋に引きこもってるらしいけど」

「……いやいや、俺、悪くないよ」


 適当な会話を受け答えする二人の間に流れる空気は決して悪くない。むしろ、穏やか過ぎてこれから戦いに臨むようには到底見えなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る