第63話 運命は少しずつ交わり始める

「俺の――」


 隼人はがっ、と勢いよく顔を上げると、眼光光る美濃の片目を見て、言葉に詰まる。言いにくそうにして、再び、目を伏せた。

 同じ行動を二巡。

 少年の煮え切らない態度は、気が長くない美濃をいらつかせるには十分であった。

 美しい舌打ちが響く。


「お前、ふざけてんのか? さっさと吐け」


 隼人のただでさえ瀕死に近い精神に、とどめを刺しに行くようである。

「俺の、名前、呼んだ」と小声が掠れた。


「あ?」


 聞き返す美濃には、相手を労わる、という気遣いが皆無であった。

 濁点がつきそうな発音で聞き返す彼は、柄の悪さだけが目立つ。


「ヒナ、って、名前を呼ばれた」


 少年の呟きは変わらずに弱々しいが、今度はきっちりと相手に伝わった。

 美濃は隼人の告白に、少しだけ考える素振りを見せたが、驚きはしていない。


「……第八境界の研究所って時点で、もしかしたら、って察しはあったろ?」


 言い聞かせるような口調は、隼人の波立つ心を落ち着かせるような、ゆったりとしたものだった。噛みしめるような声の速度。

 隼人は膝の上に置いた手を握り締めた。

 思うように力が入らず、拳を形どるだけにしかならない。


「でも、SSD関係者で、生きてるのは俺とイオンと、三人の博士だけって、聞いてたから」

「……そこに薫を入れないところは評価してやる」


 美濃は一人、焦りに苦しむ隼人が異様に見えた。

 確かに、名前を呼ばれたのに驚愕するのは辛うじて理解できるが、それがまるでこの世の終わり、とばかりに顔色を悪くする少年の思考回路が不明だ。


「言っとくけど、一ノ砥は竜の民じゃねえぞ」

「だったら、美濃君がもっと固執してるだろうから分かるよ」


 何も考えられない、ということでもないらしい。


「……それで、お前は何を気にかけてるんだ? 会ったからショックでした、ってわけじゃなねェだろ?」


 隼人は意を決し、美濃と視線を交らせる。


「俺っ、過去を見せられて――、もしかしたら、俺の記憶が、一ノ砥に」


 揺れる瞳、震える声。

 言い放つ言葉に音量はないが、強い不安と悲痛が滲んでいた。

 美濃も隼人の言葉に、眉を顰めざるを得ない。


「落ち着け、ヒナ」


 少年の言い分は分かるし、思うところはある。

 しかし、若桜の動向以前に、今、心の重荷に引きずられるまま、意識を擦りきりそうな隼人の感情暴走の方が目に着いた。


「でもっ、百合子さんはそれでここに辿りつけた!」


 隼人は決して、精神的に弱くはない。

 ただ、数少ない弱点をつかれると、恐ろしく脆かった。

 弱み自体も少なく、おおよそ一般的生活を送っていれば無縁である事柄ばかりである。しかし、なぜか最近、ピンポイントで狙われているのでは、と錯覚するほど、隼人の精神をぐらつかせる状況が続いていた。


『七代目、落ち着け。オそらく、問題はなイ』


 穏和な声。

 現れた魔神は、宿主へ傍立った。


『不安は必要なイ』


 スレイプニルは自身の首筋と隼人の首筋を擦り合わせる。普段なら、じゃれつく彼女の相手を断ったりはしないが、少年は今、それどこれではない。


「なんだよ。わざわざ出てくるなんて珍しいな」

『酷い顔だ。だが、心配はナイ』


 スレイプニルの闇夜のような瞳に映るのは、隼人の姿だけ。耳に聞こえるのは隼人の声だけ。

 美濃はぱちぱち、と不自然な動作で二度、瞬いた。


『アれからは、敵意を感じなかった』

「俺も、そうは思ったけど」


 青年がまず思ったことは、どうして現場に居合わせた魔神に相談をしていないのか。次に思ったことは、これから始まる茶番に、自分は付き合わなければならないのか、だ。

 何より隼人を至上に置く彼女が黙っていたのなら、おそらく少年の悩みの意味はない。美濃は手元の資料を手元に集める。

 自分は冷静なつもりでも、正常な思考ができていない。少し休まなければ。


『第八境界線は、七代目に力を使った訳ではなイよ。貴方が力に当てられただけだ』

「ほんと、に?」

『小娘もそうだろう。直接、接触しなければ、読み取りはできなイ』

「……でも、俺、腕掴まれたよ。肩も叩かれたし」

『それは力に当てられる前でアろう。それに、力が行使されていれば、ワタシに分からなイ訳がなイ』


 終結は突然に訪れた。

 沈黙の中、美濃は集め終わった紙束をとんとん、と机上に叩いて整える。

 紙の擦れる音しかしない。すう、と息を吸う音を立った後で「ごめん、美濃君。手間かけて」と絞り出した謝罪を述べた隼人は、己の不甲斐なさに泣きだしそうであった。


「勝手に騒いで、勝手に解決したんだから、どうでもいい」

「……ごめんなさい」


 うう、と隼人は小さく縮こまる。

 その背中を、スレイプニルは鼻でつついた。励ましのつもりなのだろう。

 隼人は背中に着いていた鼻が、腕と脇腹との間にねじ入ってくるのを受け入れ、横に現れた額を感謝の意で優しく撫でた。


『境界線よりも、ワタシはあのマグスの方が気になる』


 宿主に甘やかされながら、スレイプニルが自身の考えを口にする。


「確かに。魔神と接触する機会なんて、SSDくらいしかないのにね」

「マグス?」


 不思議そうな美濃へ、隼人は慌てたように今日の出来事を説明し始めた。

 若桜に会ったことだけが少年の頭を占めていて、他に合った異変の影が薄くなっていた。

 集会への参加から始まり、世界境界の力に当てられて倒れたところまで。隼人の報告を聞き終えると、美濃はふうん、と他人事のように相槌を打った。


「一ノ砥組って訳じゃなさそうだな」

「うん。違う、と思うな」


 隼人は公園での若桜と男たちのやり取りを思い出す。

 青年らは若桜に対して忠誠があるようではなかったし、若桜自身も死ね、と軽々しく笑っていた。あれが策略の上の演技なら、隼人は人間不信に陥る、と思う。


『どこからか、確実に魔神が流れ込んでる』


 スレイプニルのまとめた答えは、直結で、昨日の人狩りの答えになる。

 重苦しい空気ではあるが、このまま作戦会議に入るのも悪くはなかった。

 しかし、思考回路が鈍くなっている美濃と、一ノ砥若桜に遭遇した衝撃に揺れている隼人では、時間を費やすだけで、ろくな結論を出せないだろう。


「……俺もしばらく留守にする。薫と相島のことは任せた」


 突然の外出宣言に、隼人は「え、あ、うん」と詰まった返事をする。


「いいか、一ノ砥のことは気にするな」

「う、ん」

「……とりあえず、俺の留守を相島に説明してこい」

「はい」


 大人しく了解をした隼人は、スレイプニルを手放すと、すぐに立ち上がり、ぱたぱたと足音を立てて階段を昇って行った。


 リビングに残った一人と一体は、何とも言い難い硬さの空気を吸い込みながら、睨み合う。いや、お互いにその気はないのかもしれないが、目つきの悪さと鋭さはどうしようもない。


「……なんであいつはああ、自分の身を顧みないんだかな」


 美濃は紙束を持って立ち上がると、独り言にように呟いた。


『それが七代目の良イところで、悪イところだ』


 例え苦手意識しかない相手の口から落ちる言葉でも、愛してやまない宿主の話題であれば、彼女は無視などしない。


「スレイプニル。一ノ砥のことで異変があれば、お前が守れ」

『言われるまでもなイ』

「アイスワールドにも言伝はしておく」

『ワタシだけで十分だ』


 鼻を鳴らす魔神の主張を聞き流し、青年はテラスへと足を運ぶ。格納庫までの直通通路は開けておらず、わざわざ屋敷の外に出る必要があった。

 百合子の元へ伝令に走った隼人は、ついでに談話になだれ込んでいて、少年がリビングに戻った時には美濃は既に不在であった。

 昨日の今日が、今日のような偽りの平和であるならば、明日からの日々も変わらない。


 一ノ砥若桜の定例放送がない三日間。

 一日目ばかりは、隼人には定例放送以上に刺激的な結果になった。

 二日目は、登校するなり、浩介と紗耶香からの小言が鳴りやまなかったが、隼人はそれ以外にこれといった苦を覚えていない。

 三日目は、本当に何もない日常。

 二人だけの屋敷も静かであるが、問題はなかった。これが美濃と百合子の二人が残されたのならば、問題も山積みであっただろうが、余計な予測はする必要などない。

 何の脅威もない、平和の三日が終わり、今日から定例放送が再開する。


「はーい、もしもし」


 学校での授業を終え、一人で帰路に着いていた隼人は、着信を告げる携帯を耳に当てる。のんびりとした声で「未来?」とディスプレイに表示された名前を呼んだ。


『今、話してて大丈夫?』

「おー。何? 飯でも食べに行く?」


 ファミレスで他愛ない話に花を咲かせた日――SSDの兵器資力実験の日以来、顔を会わせていない。とはいっても、二週間程度しか過ぎていないが。

 隼人と未来は、月に一、二度、思いついたように遊びに出かけていた。隼人がこの電話をその誘いかと思うのも、自然な流れだ。


『……いや、今、仕事忙しくて』

「珍しいな。いつも仕事あっても抜けてくるのに」

『ちょっとね……』


 隼人の頭に、作戦会議で言っていた雅の報告が過ぎる。

 電話の先、年下の親友は、第八世界境界線の掃討作戦に名を連ねる、数少ない軍人の一人。忙しい仕事が何かなど、考えなくても答えは一つだ。


「未来、あんま無茶したら駄目だからな」

『……僕が無茶? 無茶しすぎるのは隼人でしょ』


 笑って返された言葉に、隼人は力なく笑った。

 否定はできないが、命をいくつかけても足りないような作戦中の軍人に、心配され返れるとは思わなかった。


『隼人』

「ん?」

『無理だと思うことは、諦めて。後は僕が何とかしてあげるから』

「は?」

『――じゃあ、またね』

「おい、未来?」


 ツー、ツーと回線の切れた音が鳴る携帯を、隼人はなかなか耳から話せなかった。

 自分の立場を棚に上げるようだが、未来の台詞はそのままそっくり返してやりたい。自分になんとかできるかは分からないが、世界境界線殺しに参じる彼を送り出すのは、気が乗るはずもない。


「……」


 一ノ砥若桜。

 世界境界線の青年と未来とは、命のやり取りをする立ち位置にある。

 隼人の主観であるが、偶然に遭遇のあった若桜は、変人であったが悪人には見えなかった。若桜の肩を持つわけではないが、殺されればいいだけの屑ではないと思う。世界征服を掲げる理由を知りたい、と思ってしまったのも事実だった。

 これといった予定のない隼人の足は、家に帰る選択をせずに、バスに乗り込んだ。

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