第9話 魔神と白服、そして制裁

 駅から徒歩で簡単に行ける距離。

 紗耶香がお気に入りの喫茶店は、個人経営で少しばかり値が張るが、それに見合う優雅な時間が過ごせた。

 高校生が求めるには、敷居が高い気もするが、三人にはそれくらいで丁度良かった。


「なんだ?」


 喫茶店の隣は二件の古着屋が並んでいる。

 浩介が見とめた異変は、その三件隣の和風な建造物――茶屋の前であった。何かを囲う人垣。しかしその密度は荒く、その一部に混ざれば、騒ぎの核心も見ることは可能だろう。


「見に行こうよ」

「いかねーよ! な、隼人?」

「もちろんパス。って、佐谷っ!?」


 紗耶香の好奇心は危機感を孕んではいなかった。


 芸能人がいるのか、はたまた、催し物をしてるか――紗耶香の心を占めていたのは漠然とした期待だった。

 人垣に混ざり込んだ紗耶香は、後悔する間もなく、身の危険を感じることになる。


「え?」


 影は突然現れた。目と目が合う。


 紗耶香の手からキャリーケースが滑り落ちた。支えを失ったそれが地面へと倒れる衝突音は数多の叫び声によって掻き消された。

 人垣の向こう側では、彼女の期待を百八十度に裏切る、つまらない冗談が現実として待っていた。


「う、ぐ」


 紗耶香の首に鱗を持った生き物が絡み付いている。

 隠れる場所もない、何もない場所から突然現れた大蛇。ぬらりとした艶やかな体表がずるりと地を這う。

 唐突に出現した異質は明らかに自然発生のものではない。


「近づくんじゃねえ!! こいつを殺すぞ!!」


 怒声を響かせる男。元々、人垣の中心にいたのは彼のようだ。

 彼を守るように体をうねらせる大蛇の存在に、人々は悲鳴と共に散っていく。しかし、逃げない人間もいた。

 興味本位で撮影をする若人、足がすくんで動けない女性、そして、友達が囚われた少年たち。


「――――っ!」


 浩介は血の気が引く、という現象をこれほどまでに体験したことはなかった。紗耶香の名を呼びたかったのに、声は喉で止まってしまう。

 沙耶香の自由を奪っている蛇は、蛇の形を模しているだけで本物の蛇ではない。


 蛇が守るようにしている男の目は色濃い青に光っていた。人間の虹彩には見られない色。そして、蛇の持つ目もまた同じ色に輝いている。

 魔神と魔神の宿主。

 どちらも、こんな街中で見ることのできる存在ではない。


「佐谷っ!」

「っあ、――あ、ア」


 自分を呼ぶ声にうめき声を返すのがやっとのようだ。


 沙耶香は魔神を引きはがそうと、鱗におおわれた滑らかな身体に爪を立てる。しかしながら、ちっとも反撃にはなっていなかった。


 紗耶香が身をよじれば、無駄な動きを奪うように喉を絞める力は強くなる。


「まじかよ、本物のマグスだ!」


 人垣の仲の一人、スマホを構えた男が興奮気味にまくしたてる。

 声に出して騒いでいるのは一人だけだが、苦しむ紗耶香を含めた魔神の姿を写真に撮っている人間は一人ではなかった。

 危機感の皆無。自分ではないから、それは見世物だと思っている。

 彼らに嫌な顔をする人間もいるが、その行動を咎めるまではしない。


「伊野、佐谷のことよろしくね」

「――は?」


 絶体絶命の紗耶香と、騒ぐ周囲への嫌気に気を取られていた浩介は、隣に立っていた友人が駆け出すのを止められなかった。


 暗黙で出来上がった魔神と人垣の間を隼人は全速力で駆け、力強く地を蹴り、飛び上がった。


 マグスの男の顔面。

 隼人の左足がその横顔を蹴りつける。


 不意打ちをくらった男は受けた力のままに吹っ飛んでいくと、紗耶香と魔神とを巻き込んで茶屋へと雪崩れ込んだ。

 茶屋の建物からは破壊音が飛び出してくる。


 突然の暴挙に呆気にとられる周囲を気にも留めず、浩介は隼人の後を追うように乗り込んでいった。


「紗耶香っ!!」

「こ――、すけ」


 紗耶香の首に巻きつく蛇の枷は、店へ突っ込んだ衝撃に少しだけ緩んでいた。

 沙耶香は地面に倒れたまま、助けを求めて手を伸ばす。その手を浩介が捕らえ、彼のもう片方の手は蛇の身体を掴んだ。

 しかし、緩んだとはいえ、蛇の身体は固く、振り解くことはできない。


「――彼女から魔神をはがして」


 地を這うような声は、普段からは想像もつきはしない。


 完全に目の据わった隼人は、倒れたままの男の顔面に足を乗せた。ぐっ、と体重をかけると、少年の靴底が男の呻きを受け止める。


「聞こえないの? 彼女を解放して」


 隼人のつま先が、早くしろとマグスを叩く。


 隼人の脅しのせいか、男の集中力が欠けたからか、紗耶香の首を絞める蛇の拘束がゆっくりと緩む。完全に解放されるのを待たずに、浩介は紗耶香を強制的に魔神から引き剥がした。

 急に正常に戻った気管に、沙耶香は荒い息をする。浩介は隼人を一瞥し、沙耶香の背を押しながら、足早に店内から去った。


 残された隼人は相手が虫けらであるかのように、マグスの男を軽蔑した目で見下ろす。

 隼人はふと大蛇へと視線をやった。


 濃い青の目に浮かぶのは緊張感。


 今まで、大蛇の姿である魔神はずっと隼人を目で追っていた。自分の存在を確立するために必要な宿主を気遣うでもなく、捕らえた獲物に構うでもなく、ただただ、目の前にある一番の脅威を警戒していた。


「……下級魔神か」


 隼人は何をするでもない。

 ふい、と魔神に背中を向け、堂々とした足取りで店を出た。


 やじ馬から寄越される好奇の目を無視し、隼人は友人たちの元へと走り寄る。

 力なく地べたに座り込んだ沙耶香と、その隣で膝をつく浩介。紗耶香は未だに呼吸が整わないようで、顔を伏せたまま肩を揺らしている。

 少女の首が赤く擦れているのは目につくが、命に別状はないようだ。


 紗耶香の無事に二人はようやくほっと息を吐いた。


「あり、が、と」

「沙耶香、無理してしゃべんなくていいから」

「そうそう。それよりも――」


 隼人は背後から聞こえた物音に振り返る。


「逃げないといけないかな」


 マグスの男が俯きながら外へと出てきた。よたよたとした足取りは、確実に隼人達の方へと向かってきている。


 なぜか、先ほどまではいたはずの魔神の姿が見受けられない。しかし、男の目は未だ濃い青色に染まっていて、魔神の存在を主張している。


 人垣が異質を遠ざけるように広がった。


「……う、ギ! ィー!」


 奇声。

 声が小さいから意味のない言葉に聞こえるのか、本当に意味はないのか。


「ガぁああ、や、め、近ヅくなアあァ!!!」


 男は錯乱状態で叫ぶ。口元に泡を吹き、目玉をぐるりと回すと、人垣と彼との距離が更に広くなる。

 もはや散り散りになった人々は人垣とは言えない。


「お前に蹴られて、頭おかしくなったんじゃねーの!?」

「はあ!? マグスやってる時点で頭おかしいでしょ!」


 浩介はどうにか紗耶香を立たせて、この場から離れようとする。隼人もそれを手助けするように紗耶香の腕を取った。

 マグスの男は鈍足ではあるが、確かに距離を詰めてきている。


「紗耶香! 逃げるぞ!」

「ごめ、腰抜けて、……立てない」


 マグスの男、いや、であったというべきだろうか。彼はどこを見ているか分からない瞳で周囲を見渡すと、紗耶香の位置で顔の向きを止めた。

 焦点が合ってはいないが、狙いは定められている。


「まずい、よな」

「……うん」 

「ってか、あれがマグス? ただのヤク中じゃ――」

「彼はもうマグスではありませんよ」


 浩介の意義を遮り、場に似合わぬ涼やかな声が響く。


 今にも紗耶香を連れて逃げようとしていた二人は、発狂する男越しに声の主を見た。


 金髪、白灰の虹彩、真っ白の服。


 流暢なイントネーションを使いこなしているが、日本人ではないのは一目で判断がつく。端整な顔立ちの美しい男は場違いに柔らかく微笑んだ。


「マグスとは魔神との契約者のこと。魔神と対等な関係を築けている人間のことです」


 男の身にまとっている白い服は魔神掃討機関の軍服だ。彼は後ろに二人の青服と一人の赤服を引き連れている。


 胸元の徽章で所属を判断する必要はない。

 白服と言えば、SSDの花形軍人――メルトレイドのパイロット。


 軍人、白服、本物、と遠巻きに成り行きを見守っていた人々は、あっという間に興奮を爆発させた。

 この見世物に足りなかった主演の登場だ。

 もうすぐ、物語がクライマックスに突入することは、誰の感覚でもにも瞭然だった。


「一方的に精神を汚染されている人間は”魔神の傀儡フール”」


 誰に向けたものかも分からない解説を続けながら、白服は喚く男の真後ろで足を止める。かつん、と足音が大げさに鳴った。


「マグスの成り損ないであり、魔神に自我を乗っ取られた人間」


 青年は腰に巻かれたベルトに付けられたホルダーに手を伸ばす。納められた拳銃を引き抜くと、周囲に居合わせる観衆が一斉に息をのんだ。

 青年はそんな緊張感などお構いなしで「知ってます?」と小首を傾げ、金髪を揺らした。


「一般人が魔神と契約することは、第一級犯罪。僕らSSDの兵士には、魔神を身に宿しているかの判定権限と、殺処分許可が永続的に下りてるんです」


 青年は笑みを絶やさずに「フールでも、マグスでも、ね」と言い切った。


 人差し指が、引き金にかかる。


 公開処刑がなされるのか、とぞっとする静寂が訪れた。固唾を飲む音が聞こえ、空気が張り詰める。

 しかし、それは必要のない緊張であった。

 引き金は、――引かれなかった。

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